彼女

 開口一番のあいさつらしきものは「誰?」だった。

 初対面のディーノに対するヒバリの反応は最悪に近かった。ディーノが応接室に踏み込んだ時、その子供は私物化した学校内の一室のソファで長い足を組み、見覚えのない指輪を手で弄んでいるところだった。
 黒い髪、黒い瞳、東洋人特有の磁器のような肌色。はっきり言ってかなりの美人だ。なによりも──圧倒されるほどの強烈な殺気を放ちながらも芯には育ちの良さをうかがわせる、どこかのんびりとした優雅な仕草に惹かれた。
「あーそうか。誰かに似てると思ったら……」
「なに?」
「おまえイザベラに似てるなー。そっくりだ」
「だから、誰それ」
「あーすまん。こっちの話だ。言ってもぜってーわかんねえし」
 ディーノがひょいと肩を竦めて答えるとヒバリは少し眉を顰めたが、ああそうと簡単に返しただけですぐに見知らぬ男への興味を失ったようだった。
 あれは軽くショックだった。頭を金槌で殴られたみたいにガツンときた。気を引かれた相手から無視されることほどこたえるコトはない。
 突然現れた部外者の顔や姿になどまるきり興味がないような、横目でちらりと振り返るだけのとんでもない愛想のなさには驚かされたが、心を乱された理由はそれだけではない。
 ディーノがヒバリに必要以上に興味を抱いたのは、ヒバリがあまりにもイザベラと似ていたからだ。
 そっけない態度や愛想を極限まで排した受け答え。一段高いところから他人を見下ろすような強い視線。目の前の日本人形は、引退した9代目が可愛がっていた鼻持ちならない高級猫にそっくりだった。

 時が経ち、ディーノだけが特別にヒバリの隣にいることを許された今も、ヒバリの態度は初めて出会った時とそう変わらない。手こずらされた「彼女」を彷彿とさせる、勝ち気で奔放でわがままな性格も。そばにいる時にいたずらで耳や鼻の頭をいじると、機嫌のよい時は好きにさせてくれるがそうでなければ手のひらを返すように容赦なく咬みつかれるところなど、似ているところを数えだしたら本当にキリがない。
「起きてる時もだけど、寝てる時までおんなじ顔するもんなあ。恭弥とイザベラって、時々血がつながってんじゃねーのかとまじで思うぜ」
「何を言ってるの……ありえないし、意味がわからない」
 はっきりと、バカじゃないのかという態度を隠さない。嫌がられるほど無性にかまいたくなるところにまで揺さぶられる。これのおかげで何度自分の性癖に不安を覚えたことか。
「ほらそういう顔。気持ち悪いくらい激似なんだって」
 エンツィオとは違う意味で、ディーノは気の強い黒猫には特別の思い入れがあるのだ。どちらもさんざん痛い目に遭わされた苦い思い出だ、そう簡単に忘れられるわけがない。
 イザベラはとんでもなく気位の高い猫だった。まぎれもない女王様気質で、9代目がいるときには絶対にディーノの膝に抱かれようとしないし、そもそも懐かれるまでの道のりがとにかく過酷でよく泣かされた。やっとまともに相手をしてもらえるようになってからも、人目がない時でもうかつに手を出すと引っかかれる程度ではすまなくて、こちらから届くくらいの目前にわざわざ体を横たえて、ディーノの手が触れた部分を嫌味なくらいにていねいに舐めはじめるなんてコトはしょっちゅうだった。ちょうど今のヒバリのように。
 髪を手ぐしで整えしきりに顔を拭っているヒバリを見下ろして、ディーノは腹の底から悲しいため息を吐いた。
「ホント手に負えないっつうか、言うこときかねえわ、咬みつくわ、しょっちゅう大ケガする、すぐ殴る、冷たいし凶暴だしかわいい顔して辛辣だしよくても絶対いいって言わねーし……」
「それは──もちろん猫の話だよね?」
「はは……も、もちろん……」
 トンファーが飛び出さなかっただけマシだろうか。ディーノがひきつりながら肯くと、ヒバリはあの猫が人間だったら絶対にこんなだと確信させる横柄な態度でにっこりと微笑んだ。
「どうでもいいけど、暇つぶしに髪をさわらないでくれる。うっとうしい……口もつけるな。本当にあなたは無駄にいじるのが好きだよね」
「無駄って言うなよ……」
 長い長いため息を吐いているディーノの手を払いのけ、心の底から面倒くさそうに言うけれども、慣れてしまえばそばを離れようとはしない。そんなところまで二人──一人と一匹はうりふたつだ。一見気のないヒバリの態度は実は言い訳みたいなもので、読み違いさえしなければ基本的に愛されるのは好きなところが猫っぽい。気まぐれで甘え上手で与えドコロと引き際をちゃんと心得ている。すべては女王様の気分次第というわけだ。
「なあ……シャンプーしてやろうか。汗かいてる」
 さらさらの毛並みに口づけながら言うと、ヒバリは機嫌を損ねたふうでもなく、くすくすとやさしい笑い声を立ててディーノにゆっくり体を預けてきた。リラックスした様子でディーノの膝の上で伸びをして、手で顔を隠すようにして小さくあくびをした。
「また猫あつかい? あなたは本当にイザベラって子が好きだったんだね」
「まーな。スゲー愛してたし、愛されてたから、オレ」
「……ふうん」
 愛、という言葉を何気なく口にしたら、シャツをつかんでいたヒバリの手に少し強く力が込められた。
 不思議に思って続きを促すように指で唇に触れてもべつに怒らないし、顔と顔を急に近づけても逃げない。深く唇を合わせると、つたないながらも自分から応えようとするからびっくりした。こんなことは初めてだ。
「どうした? 寒い……わけじゃねーよな」
「──むしろ、暑いよ」
 あたりまえだろうと言わんばかりだ。小声だったが。
 今は夏で、こうして体を寄せ合っているとエアコンをつけていても体温を逃がす術がなくて、ふたりともが少しずつ汗ばんでくるのがわかる。ヒバリが言うまでもなくはっきり言って、暑い。なのに身体を離したいとは少しも思わない。もっときつく抱きたくてしょうがない。
「暑いけど、このまましてーな。ダメか?」
 またかと呆れているのだろうか。それとも心も体もやばいめになってきていることをとっくに知られていたか。どちらにしろヒバリは黙っている。あたたかい体温がすごく近くにあると、それだけでもう息が上がりそうだ。胸に押しつけられた額の感触は離れていかない。無言は了解のサインだと都合よく解釈した。
「暴れるなよ、じっとして」
 ソファの上でヒバリの腰を片腕ですくい、少しずつ体重を前に移して細い身体を胸に抱き込んでいく。両腕を頭の上に固定して顔をのぞき込むと、ほぼ唯一「彼女」と異なる黒い瞳が物言いたげに何度か瞬いた。
「──どうした?」
 ヒバリが口を開くのを気長に待つ。やめろとかいやだでなければいくらでも。
「それで……イザベラは今どこに? 日本には一度も連れてきたことないよね」
「死んだよ。今は天国にいる」
 ディーノが静かに言うと、腕の中のひとがわずかに身を固くした。
「ちょうど1年前──去年の8月に老衰でな。きれいな猫だったけど、ばあちゃんだったから」
 17才の誕生日を迎える直前にイザベラは死んだ。9代目の愛した夏生まれの年寄り猫は、死人が出るほどの猛暑だった去年の夏を越えられなかった。
「猫は自分の死に際の姿をひとに見せないっていうけど、イザベラは最後までオレのそばにいて、オレの見てる前で逝ったんだぜ。その時はじめて、こいつかわいいヤツだなって思ったな」
 誇り高く潔癖で高慢ちきな彼女がディーノはとても好きだった。ディーノは彼女のことをこの上なく愛していたし、報われなくてもべつにかまわないと思っていたけれど、最後までディーノに冷たくし続けた老猫は、最後の最後にほんとうの飼い主ではなくディーノの膝の上でまどろみながら息を引き取った。あれはあれなりに愛されていたんだとわかったのはその時だ。
 ヒバリは黙って微笑んでいる。しょうがないひとだ……と窘めるときのような、穏やかなヒバリの笑顔がディーノはとても好きだ。
「泣いた?」
「すこしな。人前ではさすがに泣けなかったけど。一応部下の手前があるしな」
 思わず、というふうにヒバリがにっこりする。
「絶対バレてると思うけど」
「っせーな。いいんだよ。そういうのは心意気の問題なんだ」
「そうなんだ。知らなかった」
 やさしい声で、いとしいひとが今度は声を立てて笑った。大サービスだなあとうれしくなる。イザベラ様々だ。
「こうやってひっついてると、ほんと暑いなー」
「暑いね」
 とりとめなく意味のない会話が続いた。
 開け放した窓から吹き込む夏の風が、一時上がりかけた熱を少しずつ冷ましてゆく。
 もったいない気がしたけれど、ディーノはその気にさせるつもりで動かしていた手をゆるめて眠りを誘うときのそれに変えた。眠りにつく前の彼女もこんなふうに微睡んでいたっけ。ゆっくりと閉じられた瞼はしばらく震え続けていて、もう一度目を開けそうな気がして、まだぬくもりを残す小さな体をいつまでも膝の上に抱えていたことを思い出した。
「眠れよ。起きるまでこうしててやるから」
 だるそうに目を瞬かせているひとの額にくちづけて、包む気持ちでやわらかく抱いた。一度眠らせてしまったら、ヒバリはたぶん夕方まで目を覚まさない。日が完全に傾くまできっとこのままだろう。
「めずらしい……あなたが途中でやめるなんてね。明日は雨かな」
「そういう気分の時もあるのさ」
 うそばっかり。と、冷たいひとがそっけなく言う。けれどもすぐに満足そうに目を閉じたから、それもいいか……とディーノは心の中で苦笑した。

暇にまかせてなんとなくベタベタしてる、意味なくひたすらひっつきあってるディノヒバがすきです。
いずれよこしまなモノに押し流されるまでは、少しのあいだこのままで。