誰にも言えない

 春だな、と思う。
 今年は春が来るのが遅かった。4月に入ってもいつまでもぐずぐず寒いし、雨は多いし、おかげでいまいち花見気分が盛り上がらないまま、桜の花はほとんど散ってしまって葉桜になりかけている。去年の花見が楽しかったから今年もやろうと、獄寺たちと早くから盛り上がっていたのに。すごく残念だ。
 教室の窓から見える空は、今日もどんより曇っている。ねずみ色の雲が空一面に重そうにのさばっていて、今にも降ってきそうな雲行きだった。
(……あれ?)
 6限目の授業終了まであと10分と少しという頃、ぼんやりと窓の外を見ていたツナは、人のいない校庭をゆっくりと校門に向かって歩いていく人影を見つけた。
 どちらかというと細身で、すらりとしたシルエットが黒い。それは影になっているからではなくて、その人の服装が頭の先から靴まで真っ黒なのだった。そして頭がものすごく小さい。女の子みたいだ。けれども、その人が女子でないことは一目でわかる。ズボンを穿いているからだ。
 髪と首の境目がハッキリと見えないのは髪が長いからか、それとも、襟の高い服を着ているからだろうか。
(ていうかアレって……ヒバリさん?)
 間違いない。あれは雲雀恭弥だ。
 史上最強の風紀委員長、そして自らは学内一の不良という変わり種の彼である。学校の応接室を勝手に占拠して自室のように使っているにも関わらず、どこからも文句を言われない(少なくとも表立っては)泣く子も黙る並盛中の真の実力者。雲雀恭弥の前でうっかり群れていると、仕込みトンファーでもれなく地獄に叩き落とされるというのは、単なる噂ではなく本当に本当のことだ。ヒバリはツナの中でひそかに『周囲で苦手な人ベスト3』にランキングされているくらいに、わけのわからない先輩なのだった。
 けれども人生は、ツナが考えるよりもはるかに意外性に満ちている。決して自分から望んだわけではないが、妙に縁があって、ツナはなぜかあの悪魔のような風紀委員長と顔見知りなのだ。
(すごいなーヒバリさん……堂々とサボりだよ)
 終了寸前とはいえ、まだしっかり授業中だ。周囲はまったく無人だから、体育の授業中とも思えない。それに何より、ヒバリは迷う様子もなく校門へと向かっている。どう見ても帰宅途中のようだった。
(やっぱりヒバリさんて、よくわかんないヒトだよなあ)
 あの風紀委員長ときたら、たいていいつもツナには理解不可能な無茶なことばかり言って生徒を厳しく取り締まっているのだが、たまに気味悪いくらいにまっとうなコトを口走ったりすることがあるのだ。リボーンの策略でツナが殺人者にされそうになった時は、死体処理を気軽に引き受けてくれたし(それもどうかという話だが)、六道骸との一戦に巻き込まれた時は『これで借りは返したよ』とかなんとか、口ではイヤそうに言いながら、倒れた獄寺をツナの所まで運んでくれたりしたこともあった。
(悪い人じゃ、ないんだよな)
 何を考えているのかは、さっぱり読めない人だけれど。いつも無表情で、たまに笑うとつい謝りたくなるほど酷薄で、冷徹で残酷で凶暴で、他人をいじめるのがなにより好きそうな極悪人ぽいところはたくさんあるけれど。
(たぶん、絶対、悪い人じゃ、ないよな)
 ツナは机に頬杖をついて、あと少しで校門を出ていってしまうヒバリの背中を眺めた。
 校門前に到着したヒバリは、そこで足を止め、何かを捜すように二三度頭を巡らせている。その背中がピタリと止まる。ツナの目には何となくだが、ヒバリが躊躇うように半歩後ずさりしたように見えた。
(あ。あれー?)
 次の瞬間、ツナは思わず席から立ち上がりそうになった。
 立ち止まったヒバリの影に重なるように、一台の車が校門前に滑り込んできたのだ。遠くからでもよく目立つ、目の覚めるような濃い黄色。地を這うような低い車体。何よりも特徴的なのはエンジン音だ。近くにいたら絶対耳を塞いでいるに違いない、重たい地響きが聞こえている。
(あの車って、まさか)
 いつだったか、ツナは一度だけあの車を見たことがある。うわーすごいなーかっこいいー似合うなーと感心していたら、イタリア出身の獄寺があの車の名前を教えてくれた。あまりにもその印象が強くて、ボディやライトの形状まですぐに覚えてしまった。なにせ乗っている本人と同じ名なのだ。
(え、でもなんで!? なんであの人が?)
 確かにあの人はしょっちゅう日本に来るけれど、でもおかしい、だってあれはどう見たってヒバリを迎えに来たようにしか。
(え? え? ええっ?)
 ツナはさらに自分の目を疑った。
 目にも鮮やかなビビッドイエローのレーシングカーから颯爽と降り立った人物が、ツナの見ている前で、ヒバリに向かって腕を広げながら歩き出したのだ。大げさなジェスチャーで熱心にヒバリに話しかけている。ヒバリはじっと同じ場所に止まったまま動かない。
 けれどもそれは警戒してそうしているというのではなく、むしろその人物が近寄ってくるのを待っているような感じがする。
 と、いうよりは。
「ええええええええーーーーーーっっっっっ」
「沢田あっ」
「え」
 しまった。
 鋭い怒鳴り声で、ツナは一瞬にして現実に戻った。
 あまりの衝撃に立ち上がってしまっていた。教室中の視線が自分に集まって、数学の教師がこちらを睨みながら巨大な三角定規を教壇にトントン叩きつけている。
 青くなった。
「何を堂々とよそ見してるんだおまえは。今の時間は体育のクラスもないはずだし、幽霊でも見たか? ん?」
「え、いや、その……」
 教師の顔が本気で怖い。絶体絶命だった。ツナは焦った。けれども気が動転して、どうしても言葉が出てこない。
「どうした? 校庭に何がいた? 言ってみろ?」
「は、春が…………いました」
「………………はる?」
 その瞬間、静まり返っていた教室が揺れるくらいの大爆笑が巻き起こった。
「なんだって? 校庭に春がいたってか!? なにゆってんだダメツナ!?」
「う……えとだから、春っぽいなーっていうか、春だから、かなー……って」
「なんだそりゃ……沢田おまえ、頭大丈夫か」
「なんかわかんねーけどおもしれー! ツナ、おまえやっぱ最高!」
 クラスの大爆笑は止まらないし、教師は気の毒そうに見つめてくるし、山本は大喜びで手を叩いている。
「詩人っすね! マジサイコーっす10代目!」
 獄寺は目を輝かせて褒めてくれた。ツナは窓から飛び降りたくなった。
「ホント。そんなはずかしい科白がすらすら出てくるなんて、なんかツナくんすごい。俳優さんみたい!」
「きょ、京子ちゃんまで…………」
 それから一週間、ツナはクラスで「吟遊詩人」と呼ばれることになった。



 あの時ツナが見た本当のことを話しても、きっと誰にも信じてもらえなかっただろう。
 焦って振り返った時には、目立つイタリア車は影も形もいなくなっていたのだから。たぶん、あのまっ黄色のフェラーリのオーナーであるディーノと風紀委員長を乗せて。
 もう一度この目で確かめられなかったせいで、ツナ自身があれはもしかして夢、と迷ってしまったくらいなのだ。

 だって。
 あのディーノが両手を広げて、ヒバリの肩をやさしく抱き寄せて。おでことおでこを摺り合わせて、吸血鬼みたいに首に咬みついて。そのあと正面から堂々と背中に腕を回して抱きかかえて。
 そのあいだ中あのヒバリが抵抗もせずに、おとなしくディーノの腕に収まって。
 二人で仲良くフェラーリに乗って、どこへともなく消えてしまったなんて。
 夢が幻じゃなければ、一体なんなのだ。
「やっぱ、春、だからかなあ……?」
 沢田綱吉14歳。その日彼は誰にも言えない秘密を知ってしまった。うららかな春のある日。

06年4月13日初出。