OVERTURES

 応接室の窓から外を見ると、校門前に人だかりができていた。
「……何の騒ぎ?」
「さあ……なんですかね。なんか芸能人が来てるみたいな感じですねえ」
 後ろについている草壁にも、あれがなんの集団なのやらわからないようだった。言い得て妙というか、たしかに誰でもが顔を知っているような有名人でもなければ、あんなに大勢の人が集まることはなさそうに思う。
「シメときますか? 人手はありますが」
「そうだね……」
 群れる奴らを放置しておくのは気になるけれど、そうでなくても今日は校内が浮かれきって一日中うるさく、いちいち反応して人を行かせるのには少々うんざりしていた。もう下校しようかと思っていたこともある。だからどうしようか決めかねていると、あるものがぽーんと目に飛び込んできた。
「……っ」
「なにか?」
「…いや、なんでもない……」
 思わず額に手を当てて唸った。制服と髪色の両方ともほぼ黒一色の集団の向こうに、ハッとさせられる色彩が頭ひとつ分以上飛び出している。あの髪の色は……。
「雲雀さん?」
 後ろから呼び止める草壁を振り返らずに、僕は応接室の出入り口に向かった。
「帰る。あとは頼んだよ」
「え。あの群れは放っておくんですか?」
 放っておいていい、と口には出さなかったが、命令しないことでそれは伝わる。
 草壁にとって、これは意外に映っただろう。彼には僕が意味なく群れている集団を黙認する意味がわからないに違いない。けれどその行動には、これ以上はないほどしっかりとした根拠があるのだ。
 部屋の戸を後ろ手に閉めながら、僕はもう一度深いため息をつく。あの集団は自分が出ていけばすぐに意味を成さなくなる。それは誰よりも僕がいちばんよく知っている。


 ヒバリだ、と誰かが一言ぽつりと言うだけで、その場の空気が凍りつくのはいつものことだ。「邪魔だ」とわざわざ脅さなくてもそこを通りたければ自然に道は空くし、一度開けた進路を妨げる勇気のある者などこの学校にはひとりもいない。二十人はいるだろう女子の群れは一斉に号令を掛けたように、校門を挟む形でそそくさと両側に散った。息を飲む音まで聞こえる。当然のことだけれど。
 僕は無言で、瞬時にできた人の壁の間を抜けて校門を出た。視線はまっすぐ前を見て、一度たりともよそ見などしない。当然、人だかりを作った原因もきっぱり無視する。悠然と、わざとらしいほどゆっくり歩いてひとつめの角を曲がった。通り過ぎてきた方向から、安堵とも落胆ともつかないどよめきが起こった。たぶん、もうすぐ。聞き覚えのありすぎるエンジン音が後ろから追いかけてくる。
 ──来た。
「恭弥!」
 背後から明るい声が僕を呼び止めた。誰も呼ばない下の名をここまで気安く呼べる人物など、このひとの他に考えられない。僕は足を止めずに歩き続けた。ちらりとも視線をやらなくても一向にへこたれないことは知っている。
 まっ赤なスポーツカーが真横に並んだ。徐行しても爆発音と変わらないエンジンの騒音にいらいらする。
「あなたね。どうしてわざわざそんな恰好で学校に来るの」
 いっそ悪目立ちすることに自覚はないのだろうか。不思議でしょうがない。
「そんなって……ああ」
 はね馬と呼ばれるマフィアのボスは全開にした車の窓に肘をかけ、今気がついたように自分の着ているダブルのスーツをはたと見下ろした。片手でハンドルを操りながらのんびりと言う。
「ちょっと仕事で、人と食事してた。ホテルのレストランだったから一応、な。まさかジーンズで行くわけにいかねえだろ」
 そこでふと思いついたように
「そうだ。今日はあそこでメシ食うのもいいな。なかなか美味いイタリアンだったし、ディナーにバレンタイン・メニューがあるって言ってたからちょうどいい。デザートにハート形のチョコレートケーキを出してくれるってよ。それってすげー日本ぽいメニューだと思わねえか? 発想がかわいいよな」
「最低だね。それに今日みたいにどこに行ってもうるさい日に、わざわざ騒々しい場所にでかける意味がわからない」
「確かに。日本のバレンタイン・デーって、すげー気合い入ってるもんな」
 本当に楽しそうに笑って、ディーノがさりげなくアクセルを踏み込むと、車はなめらかに加速した。すぐ目の前を斜めに横切って先行したフェラーリは数メートル先で車体を左に寄せ、すっと止まった。僕の進路をこれ以上ないほど堂々と妨げて、右側のドアが静かに開く。ドアの少し後方に立つと、反対側の運転席から伸ばしているのだろう、節の高い手と一緒に複雑なグレイの袖がのぞいた。遅れて金髪と、軽口ばかり叩く口元とが見え、人を射るようでいてやわらかい光をたたえる瞳が僕を見つめた。ひとを黙らせる絶妙のタイミングで目配せする。
「実はこれからその騒がしい場所に、お前を誘おうかと思ってるんだけど?」
 低い声で笑って、そのあとはプレゼントが待ってるからなと、こちらの気を引く一言も忘れない。
 きちんとお伺いを立てているようで、ディーノはすでに僕の腕を捉えている。やんわりと力のこもる手を振り払っても意外そうな顔ひとつしない。うんと言わないわけがないと知っている目だ。
 日が落ちるにはまだ早い住宅街は静かで、冬の風は妙に暖かく、すこしのあいだ中で待つひとを震え上がらせるほどじゃない。だから安心して答えを探した。
「バレンタイン・ディナーなんて、絶対食べないからね」
「わかった、わかった。じゃあお前の好きな和食にしような。いつものトコ予約してあるから」
 そう言って、いたずらっぽくニヤリとする。してやられたのだと気づいた時には、呆気にとられた僕を乗せて車はゆっくり走り出していた。

07年2月14日初出。なんとなくディーノの勝ち。