真昼の月

 昼休み、ヒバリは応接室のソファに寝転んで窓から見えるあまりにものどかな午後の空を見上げていた。いい天気で、空は明るく、霞のような薄雲が眼を射る青と太陽を少しだけ和らげている。
「へえ……」
 気分がいいのでこのままねむってしまおうかどうしようかと迷っていたヒバリは、あるものに気がついて思わず身を起こした。
 雲間からめずらしいものが覗いている。昼間なのに月が出ていた。
 雲よりはわずかにくっきりとした白灰色の、けれども目を瞑ったら次の瞬間には消えていそうな儚い月の残像が、晴れた空にふうわりと浮かんでいる。
 それを生まれて初めて見たというわけではないけれど、なんとなく驚きを覚えて見入ってしまった。月は夜に観るものだと思い込んでいるからだ。
『緑たなびく並盛の──』
 ソファの前の机に放り出していた携帯電話が、歌いながら持ち主を呼んでいる。
 誰だ、と少し腹立たしく思い、それでもいちおう出てみるとディーノだった。
「チャオ恭弥。元気か?」
 いつ聞いても明るい声だなあと感心する。
 衛星回線を使っているというディーノの声は機械越しで聴く時も耳元で直接囁かれる時も変わらず、低くて少し掠れていて、けれどもなぜか意識が引き寄せられてしまう。そこにうんざりするのだけれど。
「なにか用?」
「なにかって……恭弥の声が聴きたかっただけ。車で移動中なんだけどな。ちょっと時間があったからさ」
「ああそう。ヒマだねあなたも」
「がーん」
「がーん、て……」
 本当にショックを受けたように、しょんぼりと古典的な反応を返すディーノの声音がおかしくて、笑わされてしまった。ひとしきり笑って、はあ……とため息をひとつ。ディーノが電話の向こうで耳をそばだてているのが、気配でわかる。
 まるで隣に座っているように近い。
 ヒバリはソファの上で体を丸めて、電話を抱き込むように耳に押しつけた。
 彼は今、遠い遠い空の下にいる。次に会うのは一ヶ月後か二ヶ月後か、それとも──。
「ねえ、そう言えば今、そっちは何時だっけ」
「時間か?」
 がさごそと布地をこすり合わせるような音が鳴り、しばらくしてディーノが不思議そうに答えた。
「朝の……5時をちょっと回ったトコだけど」
「仕事?」
「ちょっと野暮用」
「外はまだ暗い?」
「いや。だいぶ空が明るくなってきたぜ」
「まだ月は出てるかい」
「月?」
 ちょっと待って、とディーノは言い、
「ああ、まだ出てる。まっ白で、ちょっと右側が欠けてるな。でもきれいだ」
「そう」
 その答えを聞いて、なんだかすごく満足してしまった。
 応接室から見る、ヒバリの目に映る月はあまりにも色が薄くて、形まではよくわからない。けれどもそれらは同じものだ。
「どうしたんだよホントに。今日はえらくご機嫌だな。声がすごくかわいい。もしかして眠ってた?」
「いや……」
 くだらない、意味のない、ただの時間つぶしの会話。あまりにもフツーの恋人同士のような。ヘンなの、と思いながらも、今日に限っては電話を切る気は起こらなかった。
 暖かい午後。ほんの少しだけ暇を持て余して、ちょうどよいタイミングで聴きたい声が降ってきて──
 そうだな、とヒバリは思い直した。
 眠いのだ。さっきからかなり瞼が重くなってきている。これはやはり、ディーノの声がいけないのだと思う。
 傍にいて、あの膝の上に伏せて、頭を撫でられているような。
 だから、僕はこんなにも。
「…………眠すぎ。寝るから。おやすみ」
 え、と絶句するディーノを置き去りにして、ヒバリは目蓋を閉じた。
 すぐにヒバリはぐっすりと深い眠りに落ちるだろう。ディーノの声を聴きながら。
 次に目覚めた時には、月はさらに輝いているだろうか。
 それとも厚い雲に隠れてしまっている?
 すぐにそれも気にならなくなり、意識はゆっくりと遠のいていった。

06年5月18日初出/07年7月9日修正。ライク・ア・ベイビー。大より小より並がいい〜♪