並盛桜奇譚

 あなたも、並盛町に関する噂話を聞いたことくらいはあるだろう?
 有名なものでは「公園の桜並木で毎年一番最初に花を付けるのは、入り口から東に三本目の桜の木だ」って言われているんだけど、知っているかい?
 噂だよ、あくまでもね。
 財団で噂の真偽を確かめないのかって?
 それに踊らされて風紀を乱す輩が出ない限りは、特に暴こうとは思わないな。そういう謎を含めての並盛だからね。
 そう言えば遠い昔、公園の辺りは武家屋敷だったって言われているけど、本当なのかな。
 ……まあ、とにかく、そういうの。
 特に何の根拠もないけれど、並盛町で暮らす者なら誰もが何となく耳にしたことがあるような、地元に関する他愛のない「お伽噺」のこと。あなたも少しは知っているようだね。
 ところで、今日は日射しが暖かくて、僕は朝から機嫌がいいんだ。
 件の公園の桜が今朝、満開になったしね。
 ん? 機嫌がいいのは、見ればわかる?
 ……うるさいな。ところであなた、さっきからニヤニヤしっぱなしだよ。あんまりにやけてばかりいると、咬み殺……まあいい。
 とにかく今日の僕は特別に気分がいいから、この並盛町の四季折々にまつわるちょっとした昔話を、いくつか聴かせてあげようか──。


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 季節は花の頃。ディーノは大きな屋敷の庭先に出て、穏やかな風に当たっていた。
「あー。すっげーいい天気だ」
 まだ冷え冷えとしている頃に咲く梅はすっかり散ってしまったが、今にも綻びそうな蕾が見える庭からは、そこはかとなく芽吹きの予感を感じ取ることができる。これから来るのは春という、待ちに待ったいい季節だ。
「ん?」
 誰かに呼ばれたような気がして、ディーノは後ろを振り返った。障子の僅かな隙間から人影が見えているが、こちらに近づいてくる様子はない。
 表から賑やかな声が聞こえていた。
 店先に数人の客がいるようだ。耳を澄ませてみたが、知っている声ではなさそうだった。一見の客であればしばらくは番頭であるリコが相手をして、必要とあらば人を呼びに行かせるだろう。しかし呼ばれるのは店主であって、自分ではない。ディーノは安心して、引き続き春の風を満喫することにした。
 そうこうするうちに、また客が増えたようだ。大勢の人間が品物をやり取りをする声が一段と大きくなっている。
「相変わらず繁盛してんなあ。リコは大変そーだ」
 並盛町きっての大店、『跳馬屋』。それがディーノの店の屋号である。東から西までありとあらゆる地方の反物を取り揃えていることで有名な、町内有数の呉服問屋だ。
 春になった途端に、店は目の回るほど大忙しだというのは聞いている。季節の変わり目は何かと行事が多く、懐に余裕のある者たちがこぞって一張羅を拵えにディーノの店を訪れるからだ。
 その『跳馬屋』。
 ディーノの、といってもそこは、ディーノが自ら切り盛りする商店というわけではない。
 ──こいつは今日も、さっさと退散したほうがよさそうだな。
 ひっきりなしに来客のある表の様子を窺いながら、ディーノはやれやれと肩を竦めた。
 繁盛するのは結構とはいえ、跡取りという立場から微妙に逃げ回っている身としては、忙しい最中に気軽に店に立ち寄るのは少々肩身が狭いのだ。
 並盛一番の『跳馬屋』は正真正銘彼の生家であり、ディーノはこの店のたった一人の跡取り息子なのだが、今のところその息子には全くといっていいほど家業を継ぐ気がなかったりする。ごく近所で暮らしているためしょっちゅう実家に立ち寄るのだが、顔を見ると「いつまでも遊んでないで、そろそろ家に戻って身を固めろ」と小言を食らわせる母親や番頭と鉢合わせするのはばつが悪いし、正直うざったくもあった。
 というわけで裏の勝手口から家に上がってしばらくゆっくりしてから、店には顔を出さずにそうっと退散するのが放蕩息子の常であった。



 ディーノの住まいは町外れにある、とある診療所兼寺子屋兼道場である。
 子供時分にとある縁で弟子入りして十年、二代前のどこぞのお侍が酔狂で建てたという年季の入った趣のあるお屋敷──雨漏りがして床がちょっと傾いた荒ら屋に師匠と共に住み込んでからは、今年で丸三年が経った。ディーノはそこで師匠から医学を学びながら、弟子として修行という名目でこき使われる日々を送っている。
 いや、──送っていた。
 幽霊でも出そうな無駄に広いぼろの武家屋敷でディーノと生活を共にしていた師匠は、今はいない。出て行ってしまったからである。
 小さい頃からディーノの面倒を見ていた師匠が突然屋敷を去ったのは、かれこれ一年も前のことだ。新しい弟子を教えることになり、当分そちらに移り住むことにしたのだという。急に決まったことらしく、ディーノにしてみれば寝耳に水の話だった。
 ディーノの師匠というのは少々変わり者ではあるが、優れた医者であり学者である。剣術や体術にも精通しており、昔は城で剣術指南をしていたこともあるらしい。その縁で、とある子供の面倒を見るよう頼まれたのだそうだ。
 ──じゃーなヘナチョコ。オレがいねー間、この屋敷をしっかり守れよ。
 師匠はそう言って、出て行くと宣言した翌日には荷物をまとめて、さっさとディーノの前から姿を消してしまった。
 師匠の新しい住まいは同じ並盛町内ではあるが、この診療所とは少し距離がある。お互い仕事がある身では、そうも頻繁に行き来ができるというものではない。顔を合わせるとしても数ヶ月に一度、事実このひと月ほど、ディーノは師匠の顔を見るどころか噂のひとつも耳にしていなかった。
 頼りがないのは無事の証拠、とは言うけれど。
 ──リボーンの奴、元気にしてんのかな。
 傍若無人でよく虐められはしたが、長年一緒に暮らしたのだ。師匠のことは好きであるし、信頼している。恩義もある。いなくなった当初は寂しいとまではいかないが、少しは物足りない思いをしたものだ。
 それが、だ。
「あ、やっべ」
 ディーノは唐突に、往診のついでにわざわざ足を伸ばして実家に立ち寄った理由を思い出した。危なかった。春の陽気につられてうっかり忘れるところだった。
 師匠のいない、自由気ままな、少し侘びしい一人暮らし。
 だったはず、なのだ。
 ──それが今じゃ、まるっきり正反対だもんな……。
 ほんとうに人生、一瞬先は闇。どっちに転ぶかわかったものではない。
 ──まさか、あんなもんが転がり込んでくるとはなあ。
「ディーノ様」
 ──つーか、あのやろ。昨夜は一晩中どこをほっつき歩いてたのか、ちゃんと白状させねーとな。
「ディーノ、坊ちゃん」
 呉服屋である跳馬屋に寄ったのは、他でもない。今日中にどうしても手に入れたいモノがあったからで──。
「ボーォス!」
「うわっ!」
 突然背後から大声で呼ばれ、ディーノは心臓が縮むほど驚いて飛び上がった。
「誰だよ、びっくりすんじゃねーか! ……あ」
 慌てて振り向くと、呆れ顔の男と目が合った。口をへの字に結んだ小柄な男が、怖い顔でディーノをじろりと睨みつけていた。
「あ、じゃありません」
 男がしかめっ面でずずいと前へ出る。ディーノは動揺を悟られないよう、懸命に表情を作って男に笑いかけた。
「ようリコ。元気そーだな」
「いいえ。私は全く元気じゃありませんよ。坊ちゃん」
 男の名前は、リコ。ディーノの天敵である、跳ね馬屋の番頭だ。
「久しぶりに家にお戻りかと思ったら、店にも顔を出さずにこんなところで夕涼みとは。しかし、まあいいでしょう。お帰りくださっただけマシというもの」
 いつもの決まり文句を並べ立てたあと、リコはわざとらしい作り笑顔を見せ、さも当然のようにディーノの腕を取った。
 これは、まずい展開になってきた。ディーノの脳裏に悪い予感が走る。
「ではディーノ様。奥で旦那様がお待ちです。私と一緒に参りましょう」
 案の定だ。こうくると思った。
「あ、や、オレちょっと急いでるから、また今度な」
「おや、これは異な事を。ぼけっと庭を眺めるお暇はおありだったじゃないですか」
 使命感に燃える番頭は、ディーノの消極的な抵抗ぐらいで引くはずがなかった。
「逃がしませんよ」
「いやホント、今日は勘弁……」
 ディーノは迫るリコを遮るように後退った。このまま黙って連れ去られるわけにはいかない。しかしリコは不敵に眉を上げ、一歩、また一歩とディーノとの距離を詰めてくる。じりじり、じりじりと追い込まれ、気づくとあっという間に壁際まで追いつめられてしまった。
「今日という今日は、溜まりに溜まった縁談話のひとつでも聞いてもらえるまで帰しませんからね。お覚悟を」
「や、悪いけどオレは今日、ちょっと用があってここに寄っただけで」
「いやいや。旦那様も手ぐすね引いてお待ちですから、ディーノ坊ちゃん」
 ──それは悪党の台詞だろ!
 などとツッコミを入れる余裕はない。とにかくこの場を逃げ切ることが先決だ。
 相手が今にも掴みかからん形相なのも、無理はないのだ。
 いい年をしていつまでもふらふらふらふらしている頼りない跡取りを捕まえて説教するのは、番頭でありお目付役でもあるリコの大事な役目なのだから。
「今日ここんちに寄ったのには、訳があるんだ。実はオレの古い着物をいくつか貰っていこうかと思ってな」
「そんなもの、ご希望とあらばいくらでも。釣書に十ほど目を通していただいた後でね」
「そんな暇ねーって!」
「だまらっしゃい」
 しどろもどろのディーノの言い訳を一笑に付して、リコがガシッとディーノの腕を取った。縄があったら縛り上げていたに違いない。
「ここで会ったが百年目。覚悟してくださいね」
「リコ。お前、目が怖ェ……」
 絶体絶命。見つかるんじゃなかった。しかし後の祭りだ。
 背後は庭、目の前に番頭がいては逃げ場がない。まさか裸足で逃げるわけにもいくまいし。
 ──参ったな。こいつはさすがに逃げ切れねーかも。
 ──時間に遅れたらあいつ、やっぱ怒るかなあ。
 ちらりと、ディーノの頭の片隅に、ちんまりと縁側に佇む小さな姿が浮かんだ。
 もうじき日が暮れる。いつまた、どこへ消えてしまうとも知れないあれと、今夜こそ夕餉を一緒に取ろうと決めているのだ。待っていてくれればいいのだが。
 ディーノは諦め気味にため息を吐いて、ちらりと奥の座敷に目をやった。障子の向こうに知った顔がいる。もう一人のお目付役のロマーリオだ。髭面の男は心から気の毒そうに、しかし腹を抱えて大笑いしている。
「何だよ、ロマーリオ。笑ってねーで助けてくれ」
「すまんが坊ちゃん。その問題に関しちゃ、オレもリコには逆らえないんでな」
「冷てぇな。つーか坊ちゃんはやめろって。……あっ」
 恨みを込めてそちらを睨みつけてから、ふと庭へと視線を移し、──ディーノは声を上げた。
「何ですか急に」
「すまねーリコ。ちょ、っと、あれ」
「あれ?」
 訝しむリコをやんわり押し退け、ディーノは躊躇なく裸足で庭に降りた。
 庭のほぼ中央に植えられた、ごつごつした枝が自由に枝を広げる樹木に駆け寄る。それは手の届く枝にあった。あんな遠くからよく見えたものだ。
 ──もしかして、呼ばれたのかもしれねーな。
 今にもこぼれ落ちそうなそれに、ディーノはそっと手を伸ばした。



 風がやさしく流れている。時は夕刻。日が翳るとさすがに少し肌寒いけれど、寒すぎるというほどでもない。
 雲雀は寂れた元武家屋敷の古びた縁側に腰を降ろして、段々と暮れゆく春の気配を楽しんでいた。
 この家に住み着いて以来雲雀はもう数え切れないほど同じ場所に座り、同じ景色を眺め続けているというのに、季節や時間や心の在りようによって様々移り変わる庭の様子は、いくら眺めても飽きる気がしない。
 遠くに聞こえるのは物売りの声だ。しかし風に紛れてよく聞こえなかった。わずかに耳に届いた抑揚に聞き覚えがあるような気がする。以前買い与えられた美味しいものの思い出が、雲雀の頭の隅をちらりと過ぎっていった。
 そうこうするうち次第に声は遠くなり、耳を澄ませないと聞こえづらくなった。どちらに向かうのか確かめようと思ったが風の音が耳についてどうにも気が散り、音を上手く追うことができない。
 気づくと、声はすっかり聞こえなくなっていた。
 雲雀は丸めた爪で苛々と耳を掻いた。
 ひとの声というのは、雲雀にとって決して聞き取りやすいものではない。けれど雲雀の意識がどうしてもそちらに向かないのは、それとはまた別の理由からだった。
 小さな頭をくるりと巡らせ、家主を目で捜してみる。
 ……いない。
 家の中に他の人間の気配はなく、しーんと静まり返っている。夕刻が迫り、しかし明かりの落ちたままの部屋は、奥のほうが不気味に暗かった。
 この屋敷には、家主と雲雀しか住んでいない。だからいつもわりと静かではあるのだが、同居人である家主が早起きして出て行ったらしく、今日は朝からずっと物音一つしやしない。
 昨夜は夜通し近所を歩き回って警戒していたから、雲雀は家主の姿を昨夜から見かけていなかった。夜回りを終えて家に帰ってきたときには、家主はもう出掛けた後だったのだ。
 しかしまあいい、ひと眠りしたらあの男を相手に戦おうと思っていたのに、起きてみればこの通り。家の中にはまだ誰もいない。一応確かめてみると、家主の愛用の草履が表になかった。
 途端につまらなくなり、雲雀はだらりと姿勢を崩すと、縁側の一番陽の当たるところを選んでそこに転がった。だらけた暮らしは雲雀の本意ではないが、遊び相手がいないとやる気が出ないのだ。闘う相手がいないのにやる気を出せと言うのが無理な話だ。
 ──早く帰ってくればいいのに。
 耳の裏のふわふわ楽しみながら、ぼんやり思う。雲雀がこんなに退屈しているのだから、さっさと帰って来るべきなのだ、あの男。
 ──帰ってきたら、どうやって遊ぼうかな。
 玄関先で待ちかまえて一気に飛びつき、ぐちゃぐちゃにしてやるのはどうだろう。
 あの男、きっと驚いてひっくり返るに違いない。その姿を思い描くと、雲雀は少しだけ愉快になった。



 小橋を渡りきった向こう岸、ディーノはお堀に沿って家路を急いでいた。左手に小さな風呂敷を抱えて、芝居小屋の前を通り過ぎる。白抜き文字で看板役者の名が染め抜かれた派手なのぼりに目をやると、どこからか娘たちのはしゃいだ声が聞こえてきた。
「今日は雲雀さん、お休みなんだそうよ」
「あら残念。あたしたち、雲雀さんを観にきたのにねえ」
「明日は出るって、座長の百蘭さんが言ってたわよ」
 雲雀というのは一座の中でもとっときの役者で、芝居にはそれほど気を引かれないディーノでも名前くらいは耳にしたことがあるほどの人気役者だ。
 一座に身を置いたのはつい一年ほど前、それより以前はどこで何をしていたのかもわからぬ青年だという。人気商売なのに愛想の一つもせぬ、素性も知れぬ謎めいたところがなぜか若い娘らに受けがよく、一座に加わると瞬く間に一番人気に躍り出たそうだ。
 きゃらきゃらと鈴が転がるような楽しげな声音を後にして、ディーノは人混みをすり抜け足早にお堀端を進んだ。
 ここいらの桜並木はいまだ蕾が固いようで、二三日うちに花が綻びそうな気配はない。それなりにたわわに花芽はついているものの、それらが開きはじめるのはもう少し先になりそうだった。
 ディーノは家で待つあれと、手ぬぐいに包んで懐にしまったものを思い浮かべた。そうっと、袷の上から手のひらを宛がう。少しは気に入ればいいのだが。
 すぐ近くで物売りの声が聞こえていた。四五軒先に魚売りの桶がちらりと見えた。
 ──そうだ。今夜は魚を買ってやろう。
 少し贅沢すぎるかも知れないが、たまには馳走してやるのもいいものだ。



 雲雀の退屈加減はそろそろ頂上に達していた。
 目が醒めてからこちら、もう何時間待たされただろう。
 あの男は一向に帰ってこない。待つのに飽きて、やはりまた行方をくらませてやろうかと、少々拗ね気味に思っていた矢先。
 がらりと、表の古びた引き戸が軋む音がした。
 ──帰ってきた!
 雲雀が表に転がり出ると、家主がかまちに上がりかけたところだった。
「お、恭弥。お出迎えか? 今日はえらく素直だな」
「どこへ行ってたの? 僕に断りもなしに出掛けるなんて生意気だよ」
「はいはい。わかったわかった。さては寂しかったか? わかったからそう鳴くなって。つーか見ろよ。今日はお前の喜びそうなものを買ってきてやったんだぜ」
 ほら、と言って家主が雲雀の鼻先に何やら湿った紙包みを翳した。くん、と鼻を動かしてみるまでもなく、途方もなくいい匂いがした。
「何これ」
 訊かなくてもわかる。これは美味しいものだ。
 雲雀はちょっと機嫌がよくなった。
「なら、早くそれを寄越しなよ。食べてあげるから。そのあと僕と戦うんだよ。わかってる?」
「待て待て。食うのはもうちょっとあと。オレと一緒にな。今夜はお前と飯を食うの、楽しみにしてたんだからな」
 家主はきらきら笑って雲雀から美味しいものを取り上げると、また土間へと降りていく。瓶から水を一杯掬いあげると、ごくごくと上手そうにそれを飲んだ。
 ひとしきり渇いた喉を潤してから、くるりと雲雀に向き直る。悪戯小僧の顔つきで、手にした包みをガサガサと降った。
「これ、誰かに捌いてもらってくっから、もうちょっとだけ待ってろよ」
「また、行くの?」
 胸がどきりとした。雲雀は不満いっぱいに鼻を鳴らした。
「早く帰ってこないと咬み殺すよ?」



 その晩は、ゆったり暖かな風が吹いていた。どこからともなく花の香りが漂ってきそうな。けれど昨夜見回った限りでは、お堀端の桜はまだもう少し咲きそうにない。仕方ない。今夜はもう少し遠くへ足を伸ばしてみようか。
「月が綺麗だな」
 家主の男は上機嫌で、わずかなアテを肴に杯の中味をちびちび口へと運んでいる。皿にならべた中のひとつふたつを雲雀の前にちょんと置いて、雲雀が口を付けると嬉しそうに眼を細めたりしている。
「なー恭弥」
 きょうや、というのが呼び名のようだ。何度か同じ音で話しかけてくるから、嫌でも覚えてしまった。
「お前の名前、どこから取ったか教えてやろうか」
 家主はとても機嫌がいいようで、雲雀を膝に乗せたがるから手の甲をかりっと引っかいてやった。家主はいて、と顔を顰めたが、気にした様子もない。
「お堀端の前の芝居小屋に、可愛いのにすんげー愛想がなくて、群れてる奴を見るとタコ殴りにするよーなかわいげのねーじゃじゃ馬がいるんだ。お前見てたら、なんっかそいつを思い出してさ。それで恭弥ってつけたんだぜ。……いてて。爪立てんなよ」
 ぽつりぽつりと話しながら、前足の次に頭を撫でてくるから、また引っかく。人間ときたら、少し甘い顔をしてやるとすぐにこれだ。群れるやつらはこれだから。
「お前がうちに来て、もう一年か。早いなあ」
 わずかに湿り気を含んだ風が鼻先を撫でていく。こそばゆくなり、雲雀は前足で鼻面を掻いた。ああ、うんざりする。明日は昼間、どうしても出掛けなければならない用がある。雨は毛が濡れるから好きではないのに。ごしごし。
 雲雀を見下ろして家主が笑った。
「恭弥が顔を洗ってら。明日は雨かな」
 そしてふと、何かを思いだしたように、「あ」と声に出して腰を上げた。ばたばたと土間に降りていく。
「危ねえ。忘れるところだったぜ」
 落ち着きのない家主は、またばたばたと騒がしくして、小さな平椀を抱えて戻ってきた。
 上機嫌で雲雀の脇に腰を降ろすと、懐から手ぬぐいを取り出した。手のひらに乗せ、ごそごそと開いている。
「今日、うちの庭で見つけたんだぜ。お前のためにと思って、一枚もらってきた。ほら」
 そう言って家主は雲雀の目の前に置いた椀に、ひらりと、ひとひらの花びらを落とした。
 中に張られた澄んだ井戸水に、淡紅色の花弁がふうわり、くるくる、遊ぶように踊る。桜の花だ。
「一番桜の花びらだぜ。綺麗だろ?」
「まあまあかな」
 水に浮かんだ桜の花びらが、くるくる、ゆうらり。
 うん。悪くない。
 空にはちょっぴり欠けた月が浮かんでいる。にわかに雲がかかって白っぽく翳んでいる。やはり明日は雨になる。
「いいにおい」
「そっか。気に入ったか。あんがとな恭弥」
「にゃあ」
 雲雀が花びらを避けてひんやりした水を舐めると、それを見ていた家主が楽しげに笑った。

2010年3月、HARU15にて発行無料配布冊子。またも人間×ドーブツです。懲りてない。