うさみみバレンタイン

 部屋の外で大きな物音がして、うさぎは目を覚ました。
 窓を見上げると、いつものようにキラキラ光る四角い板が目に入る。
 恭弥はあの四角が大好きだ。なぜなら、あれの向こう側には明るい緑や赤やピンク色が広がっていて、見ていると飽きないからだ。時々あれが左右に開いて風が通ると、すこしひんやりするところもいい。それに、四角の向こうはどこか心惹かれるいい匂いがする。
 がたん、がたんと物音は続いている。うさぎが一番最初にいた屋敷もかなり騒々しかったけれど、今度の家も相当なものだ。真っ黒の服を着た人間達がたくさんウロウロしていて、いつも足音が絶えなかった。うさぎはあまり煩いところを好かないのだけれど、逃げ出したくなるほどではないので放っておいている。
 賑やかといえば、この部屋にいちばんよく顔を出す人間がもっとも賑やかだとうさぎは思った。大きな声。大きな体。大きな手。うさぎが憶えている最初の人間はもっと体が小さく、声も静かだったから、あの人間に連れられてここへ来た時はほんとうに驚いて、始終いらいらしていた。それがやっと少し慣れた。はじめはやたらと頭を触りたがったり、抱き上げたがったりするのがいやで冷たくしていたのだけれど、悪い人間じゃないとわかったから、少しだけゆるしてやった。それにあの人間は温かいから眠る時にすごくいい。あれの腹の上に乗って眠るととてもよく眠れることに、うさぎは最近気づいた。ななつ前くらいの夜だろうか。それからはあの人間が明かりを消す頃になると、眠くはないけれど懐にもぐり込むことに決めている。うさぎはなにより温かい場所が大好きだ。
 ぷーん。と、いい匂いがした。なにかな、と思ってごそごそと起きだし、寝床の縁につかまり立ちして外をのぞいた。なにも見えない。部屋の扉は閉められている。うさぎの世界は閉ざされているのだ。
 とても気になる。そういえば今日は明るくなる前に、あの人間が部屋からいなくなってしまった。うさぎはめずらしく夜明けにうつらうつらしていて、人間が出ていくのをほとんど夢うつつで知っているだけだ。何か言い残していったように思うけれど、あんまりはっきりとは思い出せない。うさぎはうーんと考えてみた。うーん。なんだったっけ。
 おぼろげな記憶の中から、金色の毛並みの人間の声を探し出す。よく聞く音は「きょうや」。この屋敷の人間はみな、うさぎにむかって何度もそういう音を発する。うさぎがそれを、たぶん自分を呼んでいるんだろうなあと自覚したのはつい最近のことだ。はじめは金色の声で音をおぼえた。少しすると、他の人間も同じ音を出していることがわかってきた。あれは、自分を呼んでいる音。
「きょうやが──」
 うさぎはぴくりと耳を立てた。黒い頭部から少しだけ飛び出た小さな耳を懸命に伸ばす。といってもそうは伸びないのだけれど、気持ちだけ伸ばす。床に降りたかったけれど柵が邪魔で降りられないので、しかたなく戸口に近い寝床の端までつたい歩きしていき、はしっこに座って柵を握りしめた。以前に寝床からむりやり出ようとして床に落ちて以来、あまり危ないことはしなくなった。おでこにこぶができて痛かったし、金色がこわい顔をしたり抱きしめたり部屋の中を始終うろうろしたりして煩かったからだ。
「──あんまり甘くしすぎると、虫歯になったら困るしなあ」
 金色の声がとぎれとぎれに聞こえている。とても気になる。気になるけれど、すでに世界の果てまで到達しているうさぎには、これ以上どうしようもできない。うさぎはだんだん腹が立ってきた。腹が立つと体のいろんなところがぐずぐずするからすごくイヤだ。耳の先がひりひりするし、鼻の頭が無性にかゆくてたまらない。あの金色のやつはどうしてこんなに気になる声を出すんだろう。ほっぺたが熱い。いらいらする。
 それに、なにこの甘いにおい──。
 うさぎは金色を呼んだ。たまらなくなって、気がついたら声が出ていた。つかんだ柵を揺らして、声の限りに呼んだ。金色のなまえを。
「ディーノ!」
「恭弥!?」
 どたどたどた……と大慌ての足音が止まったかと思うと、部屋の扉がどかんと開く。金色だった。
「なに暴れてんだおまえ! すげー鳴き声だったぜ。何かあったのか?」
 うさぎはびっくりして、きゅう、と言ったきり黙ってしまった。金色が見慣れない恰好をしている。ちょうどうさぎがごはんの時につけさせられるような前掛けをして、頬には茶色いものがべっとりこびりついている。手にはマグカップ。水やジュースをもらう時より少し大きめの。
「それ、なに?」
 うさぎが訊いても金色のはきょとんとしている。金色にはうさぎの言葉は通じないのだ。またいらいらしてきた。鼻の、頭が、かゆい。
「そうそう、これな」
 金色が一歩前に進んだ。少しずつうさぎのほうへと近づいてくる。金色の匂いがちかくなってうさぎはうれしくなった。声だけじゃなくて、このにおいがすぐそばにないとイヤなのだ。いつものように指をくれと前足を差し出すと、金色は少し迷って、手ではなくマグカップをうさぎの鼻先にそっと近づけた。
「これ、なんだかわかるか?」
 うさぎの興味は、目の前に出されたカップにすぐに引き寄せられた。くんくんと息を吸いこんでうっとりした。いい匂いがする。これはきっとおいしいものだ。
「今日はバレンタイン・デーっていって、好きな人にチョコレートをプレゼントする日なんだぜ。おまえにはチョコそのままはまだ早いから、溶かしてミルクをたっぷり入れてホット・チョコレートを作ってみたんだ。いい匂いだろ?」
 金色はうさぎを寝床から抱き上ると、腕に抱えたまま自分も一緒に床に座った。いつものごはんの時のように、自分の膝のあいだにうさぎの小さなおしりと足を具合よく乗せる。
「舐めてみな。うまいぜ」
 うさぎにはわからない鳴き声でそう言って、手に小さなスプーンを握らせる。うさぎはカップの中の茶色くてとろとろで粘っこいジュースをひと匙すくった。そうっと口に運ぶ。まず匂いを嗅ぐと金色が、こわくないって、とくすくす笑った。やさしい響きのその音に安心して、うさぎは勇気を出してスプーンにはむっと咬みついた。
 お い し い。
 あまくて香ばしいとろとろが口の中で溶けていく。
 二口め、三口めと夢中ですくっては、舐めた。唇や顎のまわりがべとべとになったけれど気にせず舐めた。
「こら、あんまりがっつくなよ。ダメ。もっとゆっくりな」
 金色が少し声を低めて言い、うさぎの手から大事なスプーンを取り上げた。なんていじわるをするんだろう。うさぎは怒った。きぃ、と声に出して抗議してから金色の手からスプーンを取り戻そうと腕を伸ばした。ふと、うさぎの目に金色のほっぺたにこびりついたものが映った。うさぎはスプーンの存在をすっかり忘れて、金色のひとの頬に吸いついた。ぺろぺろと舐めた。カップの中身と同じで、甘い。
「……きょうやー。行儀悪い……」
 うさぎの体がふいっと持ち上がって、少しのあいだ見えていなかった金色の顔が目に飛び込んできた。妙な顔をしている。困ったような、でもうれしそうな。その顔はなに、とうさぎが首を傾げると、金色はふっと目を細めて、今度は自分から顔を近づけてきた。うさぎの鼻の頭にちゅっとキスして、それから言った。

「Non potresti mai immaginare. quanta felicita` hai portato nella mia vita! Buon San Valentino...Kyoya」
(あなたには全く想像もつかないでしょう。どれだけの幸せをあなたが私の人生にもたらしてくれたか! よい聖ヴァレンティーノを。)

07年2月、イベントの無料配布より。その後拍手にて公開。08年2月サイトにて再々公開。