僕が赤ちゃんだった頃、だいすきだったひとの話。

 ぽぽん!  と、世界が変わった。


 うさぎが目を開けると、アーチ型の壁が見えていた。
 手が届かないほどの遠くだ。丸い壁なんておかしすぎる、と気づいたのはすぐだった。ベッドから落っこちたのだろうか。おしりがちょっとずきずきしていて、目の前と頭の中がくわんくわん揺れている。
「む」
 一瞬何が起こったのかわからなくて、うさぎはじっと辺りを窺いながら身を起こした。
 くるりと周囲を見渡してみる。
 テーブルと椅子の脚、チェストの下の隙間、長椅子の脚と床の隙間。……がよく見える。なるほど、床に倒れていたらしい。壁だと思ったアーチは天井だった。
 壁面にはびっしりと本が並んでいて、その前に梯子が立て掛けられている。あそこから落ちたのかもしれない。根拠はないが、身体に残る衝撃の強さから何となくそう思った。
「……む」
 そんなわけはない。
 うさぎはさっき昼寝を始めたところで、ふかふかのベッドの上に気持ちよく寝転がっていたのだ。ベッドが急に梯子に変わるなんてヘンだ。
 うさぎがこのうちに来てまだ間がないので、部屋の様子をすごくはっきり覚えているわけではないけれど、この部屋は違うというのはわかる。
 うさぎがいた部屋にも本はたくさんあるけれどここまでたくさんではないし、見えるところに梯子もない。部屋のにおい何となくも違う。うさぎはすんすん鼻を鳴らしながら思った。とりあえずここは、いつも金色と過ごす部屋ではないようだ。
 でも、だからといって、まるっきり違う場所というのでもないような。……何だか混乱してきた。
 むーんとしばらく考え込んでから、うさぎは意を決して、ドアを目指して床をハイハイで進み出した。ここでじっとしていても始まらないからだ。
 まずはあの金色のひとを捜そう。この不可解な事態はあの顔を見れば解決する、きっと。強くそう思った。


● ● ●


 しかし、第一の障害はすぐにやってきた。
 部屋の扉を開けるのにひどく苦労したのだ。
 一生部屋から出られないかと思った。ドアにほんの少し隙間が空いていることに気がつかなければ、本当にずっと閉じこめられたままだっただろう。
 けれどとにかく、くたくたになりながらも、うさぎはようやく最初の部屋からの脱出に成功した。
 あの金色の──ディーノだ。あれがいないと、こんなにも移動が不便だとは思わなかった。起きるときも食事のときも風呂に無理やり入れられるときも、うさぎは必ずディーノに抱き起こされて目的地までひとっ飛びするのだ。ディーノの目を盗んで脱走する以外に、うさぎが自力で長距離を移動することは滅多にない。
 だからたくさん歩いたおかげで、もうすでにうさぎの膝小僧はこすれて痛くなっている。
 あれはどこに行ったんだろう?
 たまに長いこといなくなるときがあるけれど、たいていの場合あれはうさぎがいてほしいときに必ずいいタイミングで現れる。ベッドから出たいときとか、とてもお腹が空いたときとか、眠くて眠くて、誰かにちょっぴり甘えたくなっているときとか……。
 そういうときディーノはすぐに気がついて「恭弥」と優しい声で呼んで抱き上げてくれるので、うさぎは抵抗しないでおとなしくしている。
 そうしておいて、床に着地した瞬間を狙ってすかさずダッシュ!
 すると三回に一回は、大成功でカウチの下に潜り込める。
 腹の立つことに、ディーノもなかなかすばしこく、三回に二回は捉まってしまう。そのスリルがけっこう楽しくて、実は最近では逃げる目的ではなく、追いかけっこをするために脱走をくり返しているうさぎなのだ。
「んむ」
 ちがう。うさぎははっとして、誰もいない廊下の真ん中でぷるぷる首を振った。ぼうっとしている場合ではない。ここはどこだという話だった。
 ディーノを捜さなければならない。
 うさぎは気を取り直して下の階を目指した。
 階段を一段ずつ慎重に降りて、次はひとつ下のフロアを探検する。廊下は上も下も同じような景色だった。けれど、やっぱり、とうさぎは思った。壁面の模様に見覚えがある。ここはさっきまでいたのと同じ家だ。
 家の中はしーんとしていた。
 人っ子ひとり姿が見えない。うさぎが暮らす家ではいつも誰かしら黒服の人間がうろうろしていて、誰もいないことの方がめずらしいのに。
 身長が足りなくて閉じている扉を開くのは無理なので、うさぎは長い時間をかけて入れる部屋を探しては、中をひとつずつ探検した。といっても閉まっていない扉のほうがうんと少なかったから、のぞける部屋はごく一部に限られていたが。
 どかーんと広くて、大きめのテーブルと椅子ともうひとつ、黒光りする大きな屋根付きテーブルのようなものがあるだけの部屋とか(うさぎはピアノというものをまだ知らなかった)、どかーんと広くて、カウチとソファセットがあるだけの部屋とか。
 どの部屋も、ちらっと中を見ただけで端っこまで探検しようとは思わないほど、とにかくどこもかしこもだだっ広い。
「んむぅ」
 うさぎはだんだん探検に飽きてきた。五つ目くらいの部屋を見終えたところでいやになって、廊下の真ん中に座り込んでうむうむ唸った。ディーノどころか誰も飛んで来ない。
 金色のひとはどこへ行ってしまったんだろう。


● ● ●


「ううー」
 あてずっぽうで歩き回るうちに、うさぎはとうとう現在地がわからなくなってしまった。どっちを向いても同じに見える。頭が混乱してもうここがどこだか、自分がどこに向かって進みたいのかもわからない。
 三つ目の階段をクリアする直前、折り返し途中の踊り場でうさぎはぺたりと床に座り込んだ。
 かなり歩いた。なのにディーノはどこにもいない。
 膝が痛くて、もうこれ以上前へ進めない。かといって元来た道を戻る気にもならない。ディーノのにおいもしない。途方に暮れ、もういい、どうにでもしてという気分で、うさぎはその場にころんと横になった。
 すごくいらいらする。あれはいつだって、必ずうさぎのそばにいるべきなのだ。でないとすごく不便だし、──正直に言うとちょっとだけ、心細かった。
 ああそう言えば、とうさぎは思い出した。
 今日は朝から家中の人間が何となくバタバタしていて、朝ごはんが終わってからうさぎはずっとほったらかしにされていたのだ。たくさんいる黒服たちは揃って忙しそうに走り回っていて、もちろんディーノも同じだった。たまに思い出したようにうさぎの顔を見に来るものの、すぐにまたどこかにいなくなってしまう。
 つまらないなと思い、うさぎは庭に出ていつものやつ(樹齢百年の大木)を相手にトンファーを振るっていたのだけれど、家にいるはずのディーノは姿を見せず、いつものようにニコニコほめてもくれないので、やっぱりつまらなくなってすぐにやめてしまった。
 そのうちなぜか見覚えのある大勢の人間やうさぎたちが集まってきて、家の中は一気に騒然となった。その中にはうさぎの好きな赤ん坊もいたけれど、その他はみんな目障りだ。  群れるのが何よりきらいなうさぎは、ぷりぷりしながら邪魔者をトンファーで追い払おうとして、その中の一匹とあやうくバトルになりかけた。前にやり合ったことのある一匹は、今日はうさぎともう一匹のケンカを止める役目を買って出て、腹が立ったのでぽかりと一発お見舞いしてやった。
 そこで大人の邪魔が入り、ディーノが姿を見せないことにも苛々して、うさぎは怒りながら自分の部屋に立てこもった。
 それからしばらくは部屋で絵本を読んでいたのだけれども、それも飽きてしまって、ついに癇癪を起こしたうさぎは大声でディーノを呼んだ。思いっきり大声で。
「恭弥!?」
 するとどこからともなく、ディーノはすっ飛んできた。
「どうした? すげー声だったぞ?」
 大きな目をさらに丸くしてうさぎに飛びつくと、手加減なしにぎゅうぎゅう抱きしめてきた。うさぎがぽかぽか頭を殴ると、いてて、と顔を顰めたけれど嬉しそうだった。
「ごめんごめん。誰もかまってやんねーからつまんなかったんだな。今日はお前をびっくりさせる用意をしてるから、みんなちょっと忙しくしてんだ。一人にして、ごめんな」
 くすくす笑いながら、うさぎの耳元にこっそり囁くディーノ。
 うさぎは満足して、長い耳をぱたぱたさせてディーノの首筋のにおいをくんくん嗅いだ。今日のディーノは全身からいい匂いがしていた。いつもとはちょっと違う、香ばしくてあまーいにおい。ディーノはじっとして、うさぎが満足するまでにおいを嗅がせてくれた。それからベッドに連れていってもらって昼寝をしたのだ。
 うさぎが呼んだらディーノは来るはずなのだ、絶対に。
「ディーノ」
 見たような、知らないような高い天井を見ながら、最初は小さな声で呼んでみた。
「ディーノ」
 呼んでは耳を澄まして、足音が聞こえないか確かめて、音が聞こえないとわかるとまた呼んだ。
「ディーノ」
 だんだん声が大きくなっていく。うさぎは知っている。うさぎが呼んでも、ディーノが振り返るのは数回に一度くらいだ。それでも呼んだ。
 あれに会いたい。うちに帰りたい。
「ディーノ!」
「いた! 恭弥っ!!」
 うさぎは飛び起きた。ディーノの声だ。
 手すりの間から頭を出して、落っこちそうにぐらぐらしながら階下を見る。
 誰かが階段を駆け上がってくるのが見えた。
 大きな身体。軽やかな足音。金の髪!
「ディーノ!」
「あぶないっ!」
 ディーノが叫んだときには、小さなうさぎの体はふわわんと宙に浮いていた。
 ぐらりと頭が前に傾いたと思ったら、次の瞬間にはダイヴしていた。小さなうさぎは手足を前に投げ出したまま、ひゅーんと空中を落ちていった。
「恭弥っ!!」
 ディーノが手すりから身を乗り出した。
 上に向けて両手を差し出す。その手を掴もうと、うさぎは手を伸ばした。腕を突き出した拍子にバランスが崩れて、体がくりんと一回転した。ディーノが見えなくなる。
 どすん!
 うさぎは背中に衝撃を感じた。
 ふわりと体が持ち上がって、心配そうにのぞき込む碧の瞳とぶつかった。うさぎの目の前にぱらぱらと長い金色が落ちてくる。
 ディーノが、はーっと息をついた。
「今度も、間一髪だったぜ……!」
「さすがボス! ナイスキャッチ!」
「よかったーっ! 恭弥ぁっ」
 階下から、安堵のどよめきと歓声が上がった。


● ● ●


「ったく、ひやひやさせんなっての…」
「ふん」
 階段の一番上に腰掛けたディーノの腹に俯せでぺたっと張りついて、うさぎは非常にくつろいでいた。
 ものすごく疲れていたし、まだ少し胸がどきどきしている。さんざん歩き回ったうえに予期せぬ空中ダイヴまでしてしまい、へとへとで一歩も動けなくなってしまったのだった。
「ランボのやつが、図書室で恭弥と会った途端に十年バズーカが誤動作したって言うから飛んでいったら、お前はもうどこにもいねぇし。真っ青になってファミリー総動員で探したんだぜ? ホント恭弥はちいせぇ頃から無茶ばっかしたよな。恐いものナシっていうかなー」
 ディーノが音を発すると体が振動して、その揺れがしがみつくうさぎにもやさしく伝わる。同じ揺れだった。
 いつものディーノだ。何となく見慣れたディーノと様子が違うのはきっと気のせいだろうと、うさぎは思った。
 金色が少し伸びている気がするのだけれど……。
「もう五分は余裕で経ってるよな。これじゃいつになったら元に戻るんだか全然わかんねーな。つーか道理であの時、恭弥がなかなか見つからなかったはずだぜ。入れ替わりに今の恭弥が向こうに行ってるんじゃ、そう簡単に尻尾をつかませるはずねーしな」
 ホント人騒がせなやつ…と言いつつ、ディーノは何となく嬉しそうだ。うさぎがトンファーで遊んでいるのを見ているときのように、ニコニコしている。
「まーいいか。パーティには間に合うように戻ってたし、そのうち戻るだろ」
「なに?」
 温かくて、ほっとして、眠くなってきた。うとうとしながらうさぎが訊くと、ディーノが、ん?と聞き返す目で訊ねてくる。すぐに、にこっと目を細めた。
「ああ。なんでもねーよ。昔はこんなにちっちゃかったんだなって、思い出してただけだ」
 大きな手で頭を撫でてくる。通じた、みたいだ。
「すげー懐かしいな。今日はこどもの日っていって、日本では男の子の節句なんだ。変種のうさぎは成長が早くて赤ちゃん時代に誕生日を祝ってやれねーからって、あの日はリボーンとかツナとか他のブリーダーたちと一緒に、プレゼントとケーキを用意して盛大にお祝いしたんだぜ。そう言えばみんなで写真も撮ったよな。あの時の写真、どこにあったっけ」
 ディーノが途切れなく何か話している。うさぎにはよくわからないけれど、ディーノの発する音は好きだと思う。どきどきして、そのうちとろんとして、必ず眠くなってしまう。
「ともかくパーティの準備ができて、さあお前たちを呼ぼうぜってなってから恭弥が行方不明になってることに気がついて、大騒ぎになったんだぜ?」
「む……」
「眠そうだな、恭弥」
 笑いながら頬を撫でてくる指が唇をかすめたから、舐めた。
 ちゅう、と先を軽く吸ってみる。そうしながらもう、うさぎは半分夢の中だ。ディーノがもう片方の手で背中をぽんぽん叩いてくれている。うさぎはますますくったりディーノにもたれかかった。眠くて力が入らない。
 ディーノの声がずいぶん遠くなっている。
 指を咥えたままもちゃもちゃ口を動かすと、笑って別の指で鼻の頭を撫でられた。
「眠ってていいぜ。向こうへ帰ったらいいものが待ってるからな。それまでおやすみ、恭弥。また会おうな」
 くらりと眠りに落ちながら、そうか…とうさぎは気がついた。このディーノはディーノじゃない。抱き方が違う。ディーノよりもうんと上手だ。おしりの支え具合なんか絶妙だ。
 でもやっぱりディーノに間違いない。においが同じだから。
 うさぎはディーノの出す音が好きだ。においも好きだし姿も好きだ。きらきらしてるから。うさぎはきらきらしたものが大好きなのだ。
 見ているとだんだん胸がどきどきして、ほうっと安心して、背中を抱いてもらうと、ほら、あっという間に眠くなる。


● ● ●


 風がさわさわと鳴っている。音という音もなく窓からゆるやかに吹き込み、部屋中に春の陽気を運んでいる。ぽかぽかの日射しが頬に当たって暖かい。ここはどこだろう。何となくからだがふわふわ不安定な気がして、うさぎは目を開けた。
「……!」
 宙に浮いていた。
 違う。半分宙に浮いている。──それも違う。うさぎは廊下に面した窓枠にちょこんと座ったまま、目が覚めた。
 足下を見下ろしてみる。
 高い。床は足が竦みそうなほどのはるか遠くだ。落ちたらさぞ痛いだろう。ふと疑問に思った。手も足も届かないような高さなのに、どうやってここまでよじ登ったんだろう。
 くるりと振り向くと、遠くに町の景色が広がっていた。
 うさぎがはじめて見る外の世界だ。きれいだった。うさぎは初夏の風に吹かれながら、しばらくうっとりと外を眺めた。
 あそこへ行ってみたい。いつか、ディーノと。
「……!」
 うさぎはハッとして、またぶんぶんと辺りを見回した。
 そういえばディーノがいない。さっきまで膝の上でうとうとしていたのに。うーんと、うさぎは首を傾げた。
 今日はヘンなことだらけだ。ディーノが消えたり現れたり、金色が伸びていたり迷子になったりと大忙しだ。
 とにかく探そうと、うさぎは思った。ディーノを捜そう。
 さっきと同じように大声で呼んで、歩き回って探せばディーノはきっと見つかる。うさぎのことを見つけてくれる。
 思いついたら善は急げだ。高い窓枠から飛び降りようとして、うさぎは勢いよく身を捩った。
 ぐらっときた。
 頭が後ろに引っ張られた感じだ。そのままふわわん、と小さな体が窓の外へと踊った。何かにつかまりたくても手が届かない。バランスを取ろうと、うさぎは手足を振り回した。
 するとよけいに身体が揺れて、どんどん後ろに傾いていく。
 そして、なすすべもなく。
 落ちた。
「恭弥!!」
「!!」
「そのまま落ちろ! 大丈夫だ!」
 姿は見えない。でも声がする。体が軽い。耳のそばで風が鳴っている。落下している。
「──ディーノ!」
 どすん!
 次の瞬間、うさぎはディーノの腕の中に収まっていた。
 二回目だからそれほどびっくりはしなかった。ちょっとくらくらが強かったくらいで。
 ちょっと、息も止まったけれど。
「あっぶねー…! 間一髪……っ!」
「さすがボス! ナイスキャッチ!」
「よかったーっ! ヒバリさん!」
 大勢の人間たちが口々に叫ぶ声が聞こえている。見ると知った顔がうさぎとディーノの周囲を取り囲んでいて、たいへんな騒ぎになっていた。赤ん坊もケンカになったうさぎもいる。うさぎはびっくりした。──というか。
 う。
 う。
 うるさい。
「群れるな! 咬み殺す!」
「うっわ恭弥、暴れんなっ。落ちるって!」
 急に唸って暴れ出したうさぎを、ディーノが大あわてでしっかり抱えなおした。ぎゅうぎゅう抱きしめてくる。
 うさぎは動けなくなった。
「う」
 しめつけられて苦しいからじゃなく、ディーノのにおいが近かったからだ。
「うむぅ」
「お。大人しくなったぜ」
「今さらびっくりしたんじゃねーか? なにせ三階の窓から真っ逆さまに落っこちたんだからな。しかし無事でよかった。ヒバリちゃんがケガでもしたら、うちの坊主が泣くからな」
「ったく人騒がせな暴れん坊主だなー。元気よすぎだろ」
「まーいいじゃねーか。今日は少しくらいやんちゃしても許される日だぞ。こどもの日だからな。子供は元気が一番だ」
「赤ん坊のお前が言うな!」
「うるせーダメ弟子。お前こそまだまだ子供だぞ」
「まあまあ。ケンカすんなって。恭弥も見つかったことだし、早くパーティを始めようぜ。プレゼントもあるしケーキも用意してあるんだぜ。もちろんツナとランボにもな!」
「ホントですか? よかったなランボ!」
「うっははーい! ランボさん、ケーキもプレゼントも大好きだもんねー!」
 わーい、と走り出した人間たちを見送ったディーノがにっこり笑って、腕に抱えたうさぎを振り返った。鼻のあたまでうさぎの黒髪をかき分けて、おでこにすりすり先を擦りつけてくる。
「どこ行ってたんだよ。探したんだぜ? 勝手にいなくなったりすんなよなー。心配すんだろ」
 めっと顔を顰めるけれど、出す音はやさしい。
 やっぱり同じだ。抱き方はさっきよりもこっちのほうがちょっとぎこちないけれど、同じディーノだ。変わりはない。
 ディーノはもちろんひとりだけれど、いつかまた会える気がする。
 もうひとりのディーノにも。いつかまた、きっと。
 人がいなくなるのを待って、うさぎはぎゅうっとディーノの首にしがみついた。
「いて」
 ディーノのほっぺたにごつんと頭突きすると、ディーノはいていて言いながら何度もうさぎの頭を撫でてくれた。
 小さな冒険は終わって、うさぎはようやくディーノのところに戻ってきた。
 うさぎは意気揚々と言った。
 だいすきなディーノに届くように。
「ただいま」




(オマケ)

 パーティの食事メニューには洋食と、デザートに大きなイチゴのケーキが用意されていた。
 広いテーブルにはおとなの口に合うよう本格イタリアンと、子供が喜ぶ洋食系メニューまでをたっぷり揃えてある。キャバッローネ家のお抱えシェフの自信作だ。
 とりどりの前菜、数種類のパスタ、肉料理に魚のグリル、ワインとチーズ。子供たちが喜ぶ甘口カレーに、ケチャップで絵を描いたオムライス。ロールキャベツになぜかタコさんウインナーまである。
 その中で、特にうさぎの気に入るひと皿があった。
「恭弥、これ好きか?」
 うさぎがあんまりそればかりを夢中で食べるので、慌てて追加を頼んだくらいだ。甘いデミグラスソースのかかった肉のかたまり。挽肉というより肉の欠片がごろんごろん入っている。
 おいしい。噛むとじゅうっと肉汁がしみ出してきて香ばしく、ふんわり草っぽい香りまでが気に入った。
「それ、ハンバーグっていうんだぜ。薄切りの牛肉を包丁でていねいに叩いてミンチにしたって言ってたから、歯応えと舌触りが違うんだってよ。美味いか?」
 はんばーぐ。
 なぜかその単語だけは、ハッキリ聞き取れた。
 そうか、このおいしいものをはんばーぐというのか。
「はんばーぐ」
「こーら。口にいっぱい頬ばったまましゃべるんじゃねー。行儀悪いぞ」
 ディーノがちょっと怖い顔で、つんと鼻を押してくる。
 うさぎは素直に黙った。おいしい「はんばーぐ」を取り上げられたらいやだったからだ。
 ディーノにハンバーグの皿を持ってもらい、ひと切れずつ口に入れてもらってもぐもぐやっていると、後ろのほうでわあっと大きな声が上がった。
 見ると、どこからか横長の木の机と椅子が運び込まれていた。机の上にはこれまた横に長いガラスケースが乗っている。
 ねじりハチマキ姿の男が中に入っている。よく見るといつも少年剣士を連れてくる男だった。
「あれはスシカウンターっていうんだぜ。山本のおやっさんの本職は寿司職人なんだ」
 ススィー、とディーノが耳打ちしてくれたが、うさぎには何のことだかさっぱりだ。
「そんじゃオレが今から腕によりをかけて、旨い寿司を握ってやっからな!」
 男は得意げに腕まくりすると、ものすごい勢いでガラスケースの中の魚を捌き始めた。タタタタッ、と小気味よい包丁の音が響いて、みるみるつやつやした切り身がまな板の上に並べられていく。
「おおーっ! すげーっ!」
 男の見事な包丁さばきに人々が感動していると、包丁男はチチチ、と立てた人差し指を格好つけて振って見せた。
「まだまだこんなもんで驚いてちゃいけねーぜ。そんじゃ今から握っから、そいつをまァ食ってみな。たまげるのはそれからだぜ」
 言うが早いか、いつの間にか用意した桶の中に手をつっこんで白飯をひとにぎりすくい出す。それを手の中できゅきゅっと軽く握ると、さっき捌いた魚の切り身をささっとその上に乗せてカウンターに置いた。
「さあたらふく食いな! 野郎ども!」
「ひいー! うっまそー!」
 パーティ会場は一気に最高潮まで盛り上がった。
 皆が一斉にカウンターに群がると、次々握られていく寿司を奪い合うように端から平らげていく。餌を投げ込まれたピラニアの群れみたいだ。
「恭弥は? どれが食いたい?」
 ディーノに抱っこされてカウンター前まで行き、うさぎは中に並べられたネタをじっくり眺めた。どの魚もつやつやぴちぴちしている。どれもおいしそうだ。
「おーヒバリちゃんはどのネタが好みなんだ?」
「恭弥は寿司がはじめてだからな。あっさりした味のがいいかなあ」
「なるほど。そーだな、じゃあ鯛なんかどうだ? こいつは養殖ものだが特別のルートで仕入れてっから、そんじょそこらの養殖とは味が違うぜ!」
「じゃーそれにするか! な、恭弥?」
「へい、おまち!」
 とん、とカウンターに寿司がふたつ置かれた。
 ──な、と言われてもわからないので、うさぎは素直にハチマキ姿の男がにこにこしながら目の前に置いた魚とごはんのサンドイッチに手を伸ばした。さっきのハンバーグがおいしかったから、これもおいしいに違いないと思ったのだ。
 うさぎ用の寿司は、他のものよりちょっと小さめに握られている。口が小さいからだ。
「恭弥、恭弥」
 ディーノがにこにこしながら自分の口に人差し指と親指を近づけて、しきりにぱくぱくやっている。こうして食べろと教えているらしい。
「一口でぱくっといくんだぜ。そのほうが絶対旨い!」
「醤油つけな、醤油。サビ抜きにしてあっからよ」
 ひと口で、ぱくっ?
 ──ひと口で、ぱくっ。
「!!!」
「ははは! そんなにうまいか! よかったな!」
 最初のひと口を飲み込まないうちから夢中で次を要求するうさぎを眺めて、ディーノとハチマキが大笑いしている。
 赤身の魚や貝やイクラなどいろいろ食べてみたうちで、白っぽい色の魚が好きらしいというのがわかった。味がさっぱりしていて、いくらでも食べられそうだ。
 うさぎがいたく寿司を気に入ったのがわかり、竹寿司の大将はかなり気をよくしたようだ。ご機嫌にこう言ってくれた。
「そんなに寿司が気に入ったんなら、またいつでもうちに食べに来りゃあいいさ。ヒバリちゃんなら大歓迎だぜ!」


 というわけで、その日からうさぎにはふたつの大好物ができた。「はんばーぐ」と「ススィー」だ。
 はじめて食べた鯛がおいしくてずっと鯛が一番好きだったのだが、その後竹寿司に遊びに行ったおりに「かんぱち」という魚を食べさせてもらい、うさぎはそっちのほうが鯛よりももっと好きになった。
 それと、ヒラメのエンガワ。これも特有のこりこり感がたまらなく好きだ。
 それから何かの記念日になると、キャバッローネ家の食卓にはどんなメニューの時も必ず「はんばーぐ」と「ススィー」が乗るようになった。

issued:08.5.04/update: 11.3.21