めざせ! あこがれの膝だっこ

 客人との会食を終えると、挨拶もそこそこにオレはホテルの玄関先で待ちかまえていた車に乗り込んだ。このあと夜通し遊ばないかという得意先の誘いはもちろん断った。
「なんだ跳ね馬。えらくいそいそお帰りだな。さては家にかわいいコを待たせてんだな?」
「アタリだ。すんげえかわいい子供が家でオレの帰りを待ってんだ」
途中でデパートの子供服売り場に寄るつもりだから、ぐずぐずしていられない。さっさと用事を済ませて、速攻家に飛んで帰りてーんだよオレは!
はあ?と首を傾げる相手を置き去りに、車は走り出した。
ホテルから並盛デパートまでは十分程度、そのあいだももちろん勉強を怠らない。オレはもう何度読み返したかわからない飼育書を取り出し、最初のページから読み出した。
 運転席の部下がぷっと吹き出す。
「なんだよ。なんかおかしいか?」
「いーや。新米パパの見本みたいでかっこいいぜボス」
「うるっせえよ。しょーがねーだろ。わかんないことだらけなんだから」
 笑われるのは癪にさわるが、正直自分でもどんどんマニアの世界に入ってきてる気はする。
 恭弥がうちへ来てからというもの、オレはどんな時でも飼育書を手放さないし、本の中身を暗記するくらいに読み込んでいる。実はデパートに向かっているのだって恭弥のため。これじゃ笑われても仕方ないかもな。
 今日は普段着を最低一週間分と、ちょっとかわいいよそいき着を数着買うつもりだ。うちに来て一週間になるのに、恭弥はもらってきた当日に慌てて買いに行ったパジャマと、二着のロンパース以外に服を持っていない。それに、新しい洋服をプレゼントしたら恭弥のご機嫌がよくなるかもしれないし。それこそ一石二鳥というやつである。
 生後二ヶ月ほど経って恭弥がもう少し成長したら、家の外に連れ出して散歩させられるようになる。夢は憧れの公園デビューだ。めいっぱい着飾らせた恭弥を抱いて、ぽかぽかの陽気の下を散歩できたらどんなにいいだろう。
 そのためにも、実はオレにはどうしても早急にクリアしなければならない大きな課題があった。


 今朝、仕事に向かう車の中で飼育書を読んでいたときである。オレは楽しみにしているグルーミングの前にとてつもない難関が待っていることに気づいてしまった。
『うさぎとの絆を深めるには、一に行動、二に行動。言葉が通じないぶん、あなたの愛情をペットに伝えるために彼らとのスキンシップは不可欠です。遊んでやったり心を込めて毛並みの手入れをしたり抱き上げてやることで、ペットは言葉ではなく行動で飼い主に守られていると感じ取るのです。』
 そういえばオレはベッドから出す時とごはんの時以外に、恭弥を抱っこしたことが一度もないのだ。
 それ以外で触ろうとすると恭弥はものすごい剣幕で抵抗して、絶対に自分に触れさせようとしない。咬みついたり腕を振り回して暴れたり、まるで敵に戦いを挑むような抵抗ぶり。何度渾身の力で腹を蹴られたことか。本の通りに実践するのは至難の業なのだ。
 ペットの抱き方について、飼育書にはこう書いてある。
『うさぎはとても神経質でこわがりな動物です。個体によってはひとに構われるのが大嫌いで、抱くと暴れる子がいます。もしもあなたが嫌がるうさぎを無理になでたり、抱きたがったり追いかけ回したりすると、彼らはあなたを怖がってなついてくれなくなるでしょう。』
 だっこするのも簡単にはいかないってか。
 さらにリボーンの書をみると、変種ならではのこんな注意書きが記されていた。
『しかし慣れないからといって放っておくと、うさぎはいつまでもあなたに警戒心を抱いたまま。常時緊張した状態が続き、ストレスがたまって健康を害するかもしれません。それに触ることも抱くこともできなければ、ブラッシング・爪切り・シャンプーもできず、一番重要なケアである健康チェックもできません。寒い夜に仲良く添い寝したり、手をつないで散歩するなど夢のまた夢。一生指をくわえてかわいい姿を遠巻きに眺めることになりかねません。』
 この章をはじめて読んだときは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けたものだ。思う相手に振り向いてもらえないなんてせつなすぎる。
「それだけはマジで勘弁してほしいぜ。絶対にいやだっ」
「なんだよボス? さっきから何かブツブツ言ってんだ?」
「い、言ってねえ! 言ってねえから!」
 じりじりしながら読み進む。答えは次ページにあった。
『新しいおうちへ連れてこられたうさぎはとても神経質になっています。最初はケージを掃除するときや、エサを与えるときには必ず声をかけてあなたの存在を知らせてることから始めます。声に反応するようになってきたら、次は徐々に体への接触に慣れさせます。いやがるときは無理せずに、さわる時間を少しずつ長くしていくとよいでしょう。』
 なるほどなあ。読めば読むほど納得である。
 生まれて間もなく、いきなり見知らぬ他人に預けられて警戒しない動物はいない。離乳が済んだばかりの赤ちゃんうさぎを引き取って一週間。まだ一週間しか経っていないのだ。
 しかも恭弥は元々人懐っこい性格をしていない。それで馴れろというのは無理な話だろう。
『なんといっても最終兵器はおやつ。うさぎの大好きな食べ物を用意して、手から渡して与える方法は非常に効果的です。』
 つまり、これって。

「恭弥。あーんしろ、あーん」
「あーん」
 ぱくっ。
「うわ、いてっ。こら恭弥、咬むなよっ」


 てヤツだよな…。
 目の前が急に明るく開けたような気がする。
 口移しは無理でも、飼い主の手から食べ物を与えるなんて、なんか究極のペットライフって感じじゃねえか?
「そういや天気予報で、今日は夜から急激に冷え込むって言ってたな。恭弥のベッドに毛布をもう一枚入れといたほうがいいかもしれないぜ」
「そーだな。今日はいい天気だなー。くっそー恭弥を散歩に連れていきてえー」
「ボース。店に着く前にコッチに戻ってきてくれよー」


 変種のうさぎは離乳期間に移行すると同時に、人間と生活を共にする上で必要な習慣を一通りしつけられる。できるだけ早く人間との生活になじめるようにとの配慮からだ。
 たとえばトイレのしつけは、うさぎに限らず犬や猫でもまっ先に覚えさせるのが普通だろう。
 次に教えるのは歯磨き。変種は固形物を食べられるようになるのが早い。歯が生えるのが人間の子供と比べてうんと早いからなのだが、つまりそれだけ虫歯になる危険性も高くなる。だから食べたら磨くという習慣は、食事のマナーなどよりも重要なしつけのひとつに挙げられている。自分でできないにしても、小さいうちから歯磨きに慣れさせておくことが大切だ。
 そして風呂。体を清潔に保つという意識を持たせること。これもあたりまえに大事なしつけのひとつである。
 だが、しょせん恭弥は赤ん坊だ。基本的なしつけが済んでいるからといって、何でも完璧にひとりでできるわけじゃない。きちんと成体になるまでは、まだまだ大人の手助けが必要なのは当然のことだ。
 とくに風呂場は誤って足を滑らせたり溺れたりという危険があるから、赤ちゃんのうちは絶対にひとりで風呂に入れてはいけない。リボーンの書ではわざわざ『風呂の入れ方』の項目を別に設けて、写真入りで詳しく解説しているほどの力の入れようだった。
 そこでひとつ問題が発生する。
 今まで恭弥は外に出ることなく過ごしてきたから、食事の時に顔を拭いてやるとか汚れたら手を洗わせるだけで済ませてきたのだが、一週間も経つとやはり風呂に入れないわけにはいかなくなる。そろそろ試す時期だな、と思い始めていたところだった。
 そこであらためて難題にぶち当たった。
 汚れていると自分が気持ち悪いからか、トイレや歯磨きはほとんど抵抗しない恭弥だったが、風呂に入れるには問題が多すぎた。抱っこができないのだ。
 抱き上げようとすると逃げる、引っかく、咬みつくなどは当たり前。無理やり服を脱がせようものなら、殺されるかというほど悲壮な声で鳴きわめく。我慢がキレたオレは、ついに昨夜寝ている恭弥の両腕をタオルで結んで風呂に入れるという強行に出た。
 ──その結果。
 恭弥はむきたてのゆで卵みたいに、つるっつるのぴっかぴかにきれいになった。
 そしてとんでもない無体を働いたオレは、恭弥に完璧に敵視されるようになってしまった。
 ペットを抱っこ。
 それができないと、恭弥を風呂に入れるのはこの先ずっと闘いだ。
 かつてこれほど、赤ちゃんうさぎをこの腕に抱きたいと切望したことがあっただろうか。


 デパートの玄関前で停車すると、オレは急いで車を飛び降りた。ほとんど走りながらエレベーター脇の店内案内板を確認して、五階へ。エレベーターが目的の階に到着すると、脇目も振らずまっしぐらに子供服売り場に突入した。
「生まれたばっかの赤ちゃんに着せる服って、どれ?」
「それでしたらこのロンパース型がいいと思いますわ、お客様。お子様は女の子ですか、男の子ですか?」
 よくぞ訊いてくれました。
「女の子みたいにかわいい男の子だぜ」
「そうですの。まあなんて親バ……コホン。それならこちらの商品がお勧めですわ。色はピンクですが、ほら、よく見るとスーパーマンならぬスーパーベイビィのアップリケがついてるんですのよ。かわいくってカッコイイ。ご自慢のおぼっちゃまにぴったりじゃありません?」
「そーだな。じゃあまずそれをくれ。色違いもあるのか? ならそれも全部な」
「お買い上げありがとうございます。五万二千五百円になります」
「他にもあったら見せてくれ」
「はじめてのお子様ですか? かわいい洋服をたくさん買って差し上げたいんですね。わかりますわ」
「実は昨日風呂に入れようとして失敗して、へそ曲げられちまって困ってるんだ。だからちょっとずるいけど、モノで釣ろうかなあって」
 そう言うと応対してくれた女の店員は、それはすごくいい方法ですよとにっこりした。
 ああでもないこうでもないと散々売り場の前で悩んで、結局陳列棚にあったロンパースを全部買うことにした。恭弥はどれを着せても似合うに違いない。
「実はもらってきて二週間になるんだけど、今は二歳児くらいの大きさで、一年もしたら5歳児くらいになるらしいから、このさいちょっと大きめの服も買っておいたほうがいいんじゃねえかと思うんだよな。うーんどうしよう……」
「そ、それは、べらぼうに成長の早いお子さんですね……」
 店員の目が一気に疑わしげになった気がするが、かまってなどいられない。服を買ったら次は玩具だ。遊び道具は必要だろう。
「いろいろありがとな。ところで玩具売り場に行きたいんだけど、何階にあるんだっけ?」
 ショッピングバッグが計5袋にもなった赤ちゃん用品を抱えて、オレは颯爽と家路についた。売り場に並んでいるものだけでは飽きたらず、あとで家まであるだけのカタログを持って来てもらうよう頼んでおいたから、数日後には家中に赤ちゃんグッズがあふれ返ることになるだろう。


 大量のプレゼントを抱えて意気揚々と家に戻ると、恭弥は毛布をかぶって部屋の隅の床に寝転んでいた。あんな寒いところで寝ていたら風邪を引くと思ったが、ぐっと我慢して怒らないでおく。相手は分別のない赤ちゃんだ。叱るよりもできるだけやさしく接して、愛情を込めまくったスキンシップへの第一歩を踏み出すことのほうが大事だからだ。
《ペットと仲良くする心得その一。
 出かけるときと帰ったときは必ず声をかけること。》
「ただいま恭弥。おとなしくしてたか?」
 オレが声をかけると、恭弥はごそごそと毛布の下から顔を出した。が、すぐに「なんだ、あなたなの」みたいな顔でむこうを向いてしまった。もう一度呼ぶと反応しなかった。
「恭弥ー。今日はお前にプレゼントがあるんだぜ。ほら、この紙袋の中身はなんだろーな? きょーうーやー」
 パンパンにふくらんだショッピングバッグを振りながら、根気よく続けて恭弥コール。するとようやく三度目で、毛布の下に隠れた恭弥がごそごそ動いた。
 腕で頭を抱えるみたいに体を丸めて……
 じゃなく、いま間違いなく耳塞いだろお前!
「それってすんげーハッキリ『うるせー』って言ってねえか……?」
 もしかすると「眠いのに、いちいち起こさないでくれる」かもしれないと思ったが、どっちにしてもこちらに好意を示す態度とはほど遠い。
《追記。たとえうざがられても決してめげないこと。最初はそんなものです。》
 的確で容赦ないアドバイスが脳裏を過ぎる。
 ていうか面と向かってここまであからさまにうざがられたら、フツーめげるだろ。へこむだろ。へこんだよ。
「恭弥。今日はブラッシングしようか。昨日の風呂、気持ちよかったろ? ブラッシングもきっと気持ちいいぜ」
 毛布のかたまりに動きはない。完全に、無視。毛布をすっぽりかぶって黒い頭をのぞかせもしない。
「……腹減ってねえか? もう一回くらいこっち向けよ」
 声がどんどん硬くなっていくのが自分でわかる。オレは少し焦れてきていた。
 リボーンの書に書いてあった『とくにわがままで気難しい個体』とは、まさしく恭弥のようなうさぎを指している。つまり、より気長に接してやることが大事で、ゆっくり慣らしていかなきゃいけないことはわかってる。
 オレはお前の敵じゃねえし、お前を傷つけるつもりはない。そのことを理解してもらうには、どうすればいいのか。
 言葉を理解しない、抱かせてもくれない、それどころかこちらと目を合わせてもくれない恭弥を相手に、どうやって気持ちを伝えろと?
「恭弥」
 もう一度名前を呼んで、オレは膝立ちで一歩、また一歩と寝ている恭弥へと近づいた。あたたかいお日様が降り注ぐのどかな部屋に緊張が走る。恭弥はぴくりともしない。
 もう膝が背中に当たるくらいの距離まできている。
 もしかしたら、これは。いけるかもしれない。毛布の下に隠れた頭をひっぱり出して、そっと撫でるくらいなら許されるのかも。
 オレはドキドキしながら、恭弥にむかって手を伸ばした。
 びくっ、と。
 毛布の内側に電流が流れたみたいに。
 ふわふわの赤ちゃん毛布ごと、小さなからだが床から数センチ浮いた──ように見えた。
「恭弥、お前……」
 目の前の毛布がぶるぶる震えていた。


「ちゃおっす。どうだ、ヒバリの様子は?」
「よお……リボーンか」
 出迎えたオレをひと目見るなり、リボーンがからかうように唇を引き上げた。あからさまにおもしろがっている顔だ。
「どーした。えらくしょげてるな」
「そう見えるか?」
「お前は昔から、ウソがつけねー性格だからな。わかりやすいぞ。ヒバリは思ったより手強いらしいな。お前のそんな顔を見るのは修業時代以来だぞ」
「わかってんなら皆まで言うなよ。ホントあんたって奴は容赦がねえな」
 わざわざ確かめたオレがバカだった。
 リボーンとは長い付き合いだ。部屋中に漂うどんよりした空気に気づかれないわけはないし、それを見逃してくれるほど甘いひとでもない。
「キャバッローネの跳ね馬ともあろう者が、たかがペット一匹手なづけられなくてどーする。情けねーぞ」
「そういうな。つうか笑うなよ。オレは本気で落ち込んでんだからな」
「そいつはよけいに見物だな」
 リボーンはあっさり言うと、部屋の中を見回した。
「ヒバリはどうしてる?」
「別の部屋にいる。仕事から帰ったら床で寝ててな。ベッドに戻そうと思っても抱き上げさせてくれねーから、そばに毛布を何枚か敷いといたら、さっきのぞいたらそこで寝てた」
 案内しろというので、師匠を連れて恭弥をおいてきた部屋に向かった。そっと扉を開ける。
 ころんと丸いシルエットのミルク色の毛布に、窓からの光が注いでいる。恭弥はあいかわらず床で寝ていた。ぽかぽかと暖かそうなその姿を入り口付近から遠巻きに眺めた。よく眠っているようだ。
「さっき」
「ん?」
「──」
「なんだ? 言ってみろ」
「恭弥に触ろうとしたんだ。メシとか寝るときとか必要な場合じゃなかったが、もうそろそろ馴れてくれてんじゃねえかと思ってたんだけどな」
 リボーンが笑って言葉尻をさらう。
「咬みつかれたか」
「咬む?」
 思いがけなく自嘲気味の笑い声が洩れたことに自分で驚いた。なんてこった。
「そんなのしょっちゅうだぜ。それくらいでこんなに落ち込まねえよ。つーかその方がまだマシだ」
「じゃーなんだ」
 ふう、ふうという寝息が聞こえている。呼吸に合わせてゆっくり揺れるかたまりを見ていると、ふいに細い針で突かれたような鋭い痛みが胸を襲った。
「こいつ、オレを怖がって震えてた。まるで取って食われると思ってるみたいにな」
「怖がる? ヒバリが、お前をか?」
 リボーンが振り返ってオレを見た。
「そいつはおかしいな。ヒバリは極端にわがままで気の強い性格だが、そのぶん怖いもの知らずだ。飼い主の言うことに逆らうことはあっても、人を怖がって震え上がるよーなかわいいタマじゃねーぞ」
「でも実際にああやって、毛布にくるまったまま出てこないんだぜ。オレが近づいたら本当に、目に見えるほどガタガタ震えて……だから、そのまま置いて出てきちまった」
 中折れ帽が動いた。思案顔でオレと恭弥を交互に見比べている。
「ふん」
 リボーンは小さく鼻を鳴らすと、オレの肩を飛び降りてスタスタと恭弥に近寄った。
「ヒバリ。聞こえるか。オレだ、リボーンだぞ」
 名前を呼びかけながら、小さな毛布のかたまりの中に手を突っこんでかき回す。次に頭を覆っていた毛布を剥いで、出てきた恭弥の額や頬にぺたぺたと手のひらを押しつける。
「おい、大丈夫か。無茶すると恭弥は暴れるぞ」
「心配ねえ。ヒバリは抵抗しねーぞ」
「ホントかよ」
 リボーンの乱暴なやり方にも驚いたが、もっと意外で、さらにショックだったのは、恭弥がそれを嫌がらなかったことだ。それはおそらく触っているのがリボーンだからで、オレが同じコトをしたらただではすまない。
「やっぱオレは飼い主失格ってことか?」
「違うぞ」
「──え?」
「ディーノ。お前ヒバリに何かしたか」
「なんかって」
「水浴びをさせたとか、上着を着せずに外に連れ出したとか、急激に体を冷やすよーなことをしなかったか」
「体を……?」
 思い当たることがあるとしたら、あれしかない。
「昨夜はじめて恭弥を風呂に入れたんだが、上がって服を着せる時にスゲー暴れて、ちょっと手こずった。ソファの下に逃げ込んで出てこなくなっちまって」
 捕まえて引きずり出すまでに十分ほどかかった。しょうがないから、暴れ疲れるまで好きにさせた。ベッドに放り込んだのは、恭弥がぐったりしておとなしくなってからだった。
「なるほど、それだな。間違いねえ」
 リボーンは無表情にオレを睨みつけた。目線と顎の先で見ろと促す。
「ヒバリはお前を怖がって震えてたんじゃねえ。もっと近くで、床に這いつくばって毛布の下をよく見てみろ。へなちょこのお前にだってすぐにわかるはずだぞ」
 おそるおそる近づくと、寝息だと思っていた呼吸が平常よりもずっと荒いことに気づいた。小さな赤ん坊の形をした毛布の端を持ち上げる。さっきと同じ体勢のまま、恭弥は一ミリも動かなかった。
 ──動けないのだとわかった。
 汗まみれで過呼吸気味に喘ぐ赤ちゃんうさぎ。確かにひと目見ればわかる。恭弥はかたく目を瞑り、まっ白の頬を血色よりも濃い紅色に染めていた。前髪が汗で湿って額にぺったり張りついている。
 恭弥がぼんやり目を開けた。オレの気配には気づいているようだが、黒曜石のような瞳の焦点は合っていない。すぐにまた瞼を閉じてしまった。ひー、ひーという耳障りな音が恭弥の喉からひっきりなしに洩れている。
「風邪だな。ヒバリは風邪をひいてる。完全にお前の管理不行き届きだぞ、ディーノ」
 もっともな指摘をされてぐうの音も出ない。頭がまっ白になった。
「人間の環境や病気に耐性のねえ赤ん坊にはよくあることだ。だが、こいつはちょっと厄介だぞ。高熱が出てる」
「すまん、リボーン。まさかあれぐらいで風邪引くとは思わなかった。オレのミスだ」
「殊勝だな。だが、お前は謝る相手を間違ってるぞ」
 返す言葉はなかった。
 床に横たわる恭弥を抱き上げて、ベッドへと運ぶ。腕一本でじゅうぶんなほど小さなうさぎを抱えると、実際に腕に感じるよりもずっと熱くて重かった。抵抗できないくらいまいっている子供の体はまるで焼けた石みたいだった。
 ぼんやり開いた手のひらに指で触れると、赤ん坊の習性か小さな指を一本ずつ折って握ろうとする。
「ごめんな、恭弥。ホントにごめん。もうひとりにはしねーから」
 反応がないからといって放置せずに、そばにいてやればよかった。そうしたら恭弥が具合を悪くしていることにもっと早く気づけたかもしれない。触れさせてはもらえなくても、部屋を暖かくしてやるくらいのことはできたはずだ。
「病気になっちまったもんはしょーがねー。できるだけ早く治すことだ。変種の病気に詳しい医者を呼んでやるから、お前は自分のできることをしろ。何のためにお前にヒバリを預けたと思ってる」
 ピシャリと言うと、リボーンはぴこぴこハンマーへと変化させたレオンでオレの頭をポカッと殴った。
「赤ん坊ってのは大人が思うよりずっと弱いんだ。それは人間もうさぎも同じだぞ。誰かが必死で守ってやらなきゃ、ひとりでは生きられねー存在だってことを忘れるな」
「…ってェー……」
 痛いのは──殴られたからじゃない。
「落ち込んでるヒマはねーぞ。しっかりしやがれ。ヒバリを助けてやれんのはお前しかいねーんだからな」
 カメレオンの姿に戻ったレオンを帽子の鍔に乗せなおし、リボーンは部屋を出ていった。
「今夜はつきっきりで看病しねーと、命が危ねーぞ」


 何度目か、恭弥の頭に乗せたタオルを取り替えるときに額に触れると、まだ熱かった。
 最初はひんやりしているので熱が下がったのかと期待するのだが、しばらく手のひらを乗せていると、たちまち平熱よりうんと高い温度が戻ってくる。タオルを外すたびに試してみるのだが、何度やっても同じだった。布に含ませた水分が一時的に熱を奪っているだけだ。
 リボーンが呼んだという獣医はすぐにやってきた。
 変種のうさぎの、しかも生後一ヶ月未満の赤ん坊にはうかつに投薬できないのだが、急の発熱に効果のある自然成分の薬剤ならあるのだそうで、それを投与するかたわら脱水症状を抑えるために点滴が行われた。恭弥のあの細い腕に注射針を通すときはかわいそうで見ていられなかった。
 だが、おかげで呼吸は目に見えて楽そうになったし、顔色もずいぶんよくなった。
「あと何かしなきゃなんねえことがあったら、教えてくれ」
 治療を終えて帰り支度をしていた医者が往診鞄のファスナーを閉めながら、考え込むように首を傾げる。
「そうですねえ。まずは部屋やベッド周りを暖かくするなどして、徹底した温度管理を心がけてください。濡らしたタオルや冷却ジェルなどを使って、とにかく一刻も早く熱を下げること。それから汗が引くときに体温を奪われますから、それを避けるために一時間おきに着替えさせること。それぐらいでしょうかねえ」
「わかった。気をつける。他にはないか」
「ああ、それと、もうひとつ大事なことがありますね」
「なんだ?」
「言わずもがなですが、ペットに対する愛情ですよねえ。病気のときは特に、できるだけ彼のそばから離れないようにしてください。具合が悪いときって、大人だってひとりでいると何となく寂しく感じるでしょう。赤ちゃんならなおさらだと思いませんか? もちろん動物だって同じです。目を覚ましたとき不安にならないように、飼い主であるあなたが常にこの子の目の届くところにいてやってください。大丈夫。ただの風邪ですから、一生懸命看病してやればすぐに良くなりますよ」
「──そうだな。うん、それもわかった。今日はいろいろ世話になったな。ありがとう」
 お大事に、と言って医者は帰っていった。
 昼間デパートに寄ったときは普段着とよそいきの服しか買わなかったので、恭弥を診てもらっているあいだに部下に頼んで分厚い靴下と肌着を買ってきてもらった。医者に言われるまでもなく、苦しんでいる恭弥を置いて出かけるわけにはいかない。
 次の着替えの目安は三十分後だ。もちろん大量に汗をかいたらもっと早くに服を取り替えなくちゃならないが、さっき触って確かめた限りでは、一時は全身から吹き出すようだった汗はやっとピークを越したようだった。だがそれで安心してはいられない。汗を掻くと熱は下がるがそのぶん消耗するから、体力の少ない赤ん坊には危険だ。こまめに水分を補給してやることも必要だった。やることは山のようにある。
 それでも、オレが恭弥にしてやれることなどたかが知れてる。目の前で恭弥がどんなに苦しがっても、体をさすってやることはできても痛みを代わってやることはできない。
 時間は午前三時を回っている。恭弥の表情が変わらないことを確かめてから、オレはベビーベッドの脇に置いた椅子に腰を下ろした。体から力が抜けてはじめて、思っていたよりも疲れていることに気づく。そういえば二時間以上立ちっぱなしだった。
「ボス、少し休憩しろよ。オレが代わるから」
 背後で扉が開いて、ロマーリオが顔を出した。すたすたとベッドに近寄って、手に持っていたマグをオレに手渡す。コーヒーのいい香りがするとホッとした。湯気と一緒に肩の力が抜けていくのがわかる。
「あんたがこれぐらいで倒れることはねえだろうが、あんまり根を詰めるのもよくないぜ。こっちの神経がまいってると、子供ってのはそれをちゃんと感じるもんだ。恭弥にもよくねーぞ」
「これぐらいヘーキだ。心配すんなって」
「ボス……気持ちはわかるが」
「ついててやりてーんだよ。頼む。ここにいさせてくれ」
 ロマーリオの言いたいことはわかるが、譲るつもりはない。意地を張っているわけでもない。何もしてやれることがなくても、恭弥のそばを離れたくなかった。オレの気持ちが伝わったんだろう、ロマーリオは「しょうがねーな」と言ったきり、あきらめたようにオレの隣に座った。
 しばらくふたり並んで、黙って恭弥の寝顔を眺めた。
「リボーンさんが言ってたよな。人間の生活環境に慣れてねえうちは、こういうことはよくあるってよ。だからあんま落ち込むなよ、ボス」
「ああ。わかってる。心配かけてすまねーな。外にいる奴らにもそう言っといてくれ」
 入れ替わり立ち替わり、ドアの隙間からそっと中の様子をうかがっていたうちで、部屋に入ってきたのはロマーリオだけだ。他の仲間はやきもきしながら、寝ずの番をしているんだろう。黒服の男たちが落ちつきなく廊下を行った来たりする様子が目に浮かぶようだった。
「なんの。こんなのは心配してるうちに入んねえよ。それより恭弥の着替え、手伝おうか」
「ああ。頼む」
 抱き起こした恭弥の体を横から支えてもらい、湿った服を脱がせて新しい服を着せかける。それから汗で湿った体を拭いた。
「恭弥。水、飲むか?」
 耳元に顔を近づけて言うと、小さな頭がぴくりとした。
 うさぎは言葉を話せないし、こちらの言う意味をちゃんと理解しているとは思えない。それでも何か話しかけると、ほとんどはうつらうつらしている恭弥が必ず反応を示してくれるのがうれしかった。俺の声がわかるのかもしれない。
「ゆっくりな。ちょっとずつ飲め」
 もう一度ベッドに寝かせて、水がしたたるくらいに湿らせた指を口まで持っていくと、恭弥は薄目を開けて確かめてから、指先から落ちそうになっている水滴をそうっと舐めた。
 きゅ、きゅ、と鼻にかかった鳴き声のようなものを洩らす。
「うまいか? やっぱ喉乾いてたんだな」
 水の入ったカップに指を浸しては、唇の上に少しずつ滴を垂らしてやった。何度かそれをくり返すうちに、オレの指が口元に近づくと、恭弥は両手でそれを引き寄せてちゅうちゅう吸うようになった。
「おっ、すげえ。けっこう元気だな。指いてー」
 その仕草があんまりかわいくて、こんな場合なのにオレは夢中で恭弥の口に水を運んだ。水を飲み終わったあとも、恭弥はオレの指を握って離そうとしなかった。
「──」
 恭弥がふっと目を開けた。覚醒したんだろうか。何かを探すみたいに、黒い瞳が意思を持ってきょろきょろする。意識はかなりはっきりしているようだ。
「恭弥、苦しくねーか?」
 声をかけると、恭弥は今はじめてオレに気づいたみたいに、パッと目を見開いた。唇がむにゃむにゃ動く。
「ん? なんだ?」
 大きな目がぱちぱちと瞬く。のぞき込むとオレの動きを視線で追う。すがりつかれているみたいでどきっとした。
 そういえばうさぎって確か夜行性だよな、とぼんやり考えていると。
 ──掴まれたままの指が引かれた。
 オレの指を支えに、恭弥はベッドの上でころんと寝返りをうった。
 こちらに顔が見えるように横向きになって体を丸め、さっきまでしゃぶっていた指先に自分の鼻をくっつける。くんくんという音が聞こえてきそうな感じで頭が小刻みに動いた。においを嗅いでいるらしい。
 掴まれた手をパーの形に開くと、今度は親指と小指をハンドルみたいに握ってぐいぐい引っ張る。思わずこちらが顔をしかめてしまうくらいすごい力だ。
 次は手のひらに鼻を近づけて匂いを確認する。
 くん、くん、くん。
 動けないまま、数秒が過ぎた。
「恭弥?」
 ロマーリオと思わず顔を見合わせた。その隙にも手のひらがずっしり重くなっていく。
「おい、恭弥──」
 じっと目を凝らして見つめていたはずが、気づくと、恭弥は目を閉じていた。
 オレの手を枕代わりに頭の下に敷いたまま。
 片手でつかめてしまう小さな頭がころんと前に傾いた。そのままの体勢でまったく動かなくなった。
「眠っちまった、のか……?」
「そうみたいだな。体が楽になったんじゃねえか?」
「だと、いいけど」
「だって起きねえもんなあ……ほんとに本気で眠ってるぞこれは」
 感心したのか面食らっているのか、ロマーリオの呟きもどこか頼りない。
 つうか、なんか…これって──。
「おーおー。しっかりしがみついてんなあ。こりゃ恭弥が目を覚ますまで動けなくなっちまったなあ、ボス」
 椅子に座り直すあいだも、恭弥が目を覚まさないか、我に返って手が離れていかないか心配でたまらなかった。目が離せなくて隣を振り向くこともできない。
「恭弥にとっちゃ食事も風呂も、たとえ病気だって何もかもが初めての体験だもんな。やっぱ最後は本気で自分を守ってくれるひとを頼りにしてら。見ろよ、すげえ安心した顔して寝てるぜ。ちっともわかってねえようにみえて、ちゃんとわかってるんだなあ」
 ロマーリオがからかうように、小声で囁きかけてきた。
 そうなんだろうか。自分自身では、まだいまひとつ実感が沸かない。でも俺の手の中にある恭弥のぬくもりは本物だ。
「風邪が治ったら、すっげーおしゃれして一緒に散歩に行こうな、恭弥。だから、早くよくなれ」
 ロマーリオが出て行ってから、ようやく、つぶやきほどの小さな声が出た。
 一緒にでかけて、遊んで、たくさん眠って、早く大きくなれ。たまには抱っこもさせてくれればうれしいかな。
 そして、ゆっくりでいいから、いつかオレを好きになれ。
 すげー大事にするから。オレのものに、なってよ。
 気の早い願いを込めて柔らかい黒髪を撫でると、恭弥は満足そうに小さなためいきをもらした。深く眠りながら。


 オレは着替えをさせる手をいったん止めて、体半分外へはみだしている恭弥を持ち上げて片膝に乗せなおした。
「こーら恭弥。じっとしてろ。そんなに暴れると落ちるぞ」
 むっとした表情で見上げる恭弥に笑いかける。首のボタンを止めようと手を伸ばすと、賢いうさぎはわかったのか、きゅっと目を閉じてさらに顎を上げた。
「よし、ドレスチェンジ完了っと。今日の服は隣町にできた新しい店で買ったんだぜ。デザインかわいいし、肌触りがいいだろ。どうだ、気に入ったか?」
 終わりの合図に顎の下をくすぐると、膝の上で居心地悪そうにもぞもぞする。精いっぱい我慢している顔だ。あんまりしつこくすると怒るから、この辺でやめておこう。
 せっかくの快気祝いの贈り物なのに、ヒバリは新品の服には興味がないらしい。オレの指が目の前を行ったり来たりするほうが気になるようで、それをこっちに貸せと腕を突き出してしきりにアピールする。つかませてやると、ものすごく真剣に時間をかけて匂いを嗅ぎ出した。いちばん確実な方法で確かめて安心したのか、そのまま口に入れようとする。
 具合が悪いときに指で水をやったからか、恭弥はオレが何かの拍子に自分に触ると当然のように「その指をよこせ、咬ませろ」と要求するようになった。すっかり咬み癖がついてしまったようだ。
「咬んでもいいけど、こないだみたいに強くは咬むなよ。あのあと血豆みたいになって痛かったんだからな」
 めっ、と睨みつけても、恭弥は一向にこたえていない。何食わぬ顔でオレの指を咬んだりしゃぶったりしている。
「着替えとごはんがすんだら、ちょっとだけ庭に出てみるか? 風邪で寝てるとき、お前ずっと寝ながら窓の外を見てただろ。ちょっと寒いけど、あったかくしたら大丈夫だよな。上着も買ってあるし」
「ボース。メシだぜ」
「おっ。メシだってよ、恭弥。うまそーだな。早く食おうぜ!」
 いったん膝から降ろして、小さな手を引いて食事に使っているテーブルに移動する。恭弥はいやがらずにおとなしくついてきた。
「見ろよ。すげーな。今日はお前の好物ばっかりだぜ」
 ふんふんと鼻を動かす恭弥を抱き上げる。
 席に着くときはまず俺が椅子に座って、オレの膝のあいだに恭弥が座る。二人羽織の体勢といったら通じるだろうか。ここ数日で定番になった食事スタイルだ。
 オレを背もたれにした恭弥がスプーンに手を伸ばした。
 柄をグーで握って皿の中の食べ物をすくい、口に持っていく。好物のやわらかい煮込み野菜をもしゃもしゃと食べ始めた。今日の昼食メニューはミネストローネにパンを加えてとろとろに煮たもの、パプリカのマリネ、それにタマネギのタルトだ。デザートはりんごのハチミツがけ。恭弥はりんごが大好きなのだ。
 夢中で食べているのを眺めていると、ふいに恭弥がスプーンを放り出した。
「こら。何やってんだよ。ダメだろ」
 新しいスプーンを持たせようとしても、どうしてもいやがる。自分で食べものを口に運ぶのが急に面倒になったのか、オレの手にスプーンを押しつけて「食べさせろ」といってきかなかった。
「しょうがねえなあ。今日だけだぞ」
 悪い癖をつけてしまって失敗したと反省する一方で、うれしいのも本心だ。ほんの数日前までは、着替えのときに押さえつけておくのすら大変だったのに。
「ほら。口開けろ。あーん」
「──」
 子供サイズのスプーンの先を唇の隙間に少しずつ差し込む。きれいに舐めとるまで待って、そっと引き抜くタイミングまでバッチリだ。
「あー。またかよ」
 恭弥の口から引っ張り出したスプーンの先に煮込んだいんげん豆がひとかけ残っていた。恭弥は豆があんまり好きじゃないみたいで、食べ残すことが多いのだ。指でつまんで自分の口に放り込むと、こちらを見上げている恭弥と目が合った。かわまず口を動かす。
 すると、横取りされたと思ったんだろうか、むっと顔をしかめて不満を訴えてきた。
「なんだよ。お前がいらないっつって残したんだろ?」
 当たり前だが、恭弥は無言で睨むだけだ。くっきりしたふたつの宝石でオレの口元をじっと見つめている。
「豆、うまいぞ。食うか?」
 ふと思いついて、ひょいと顔を近づけると、恭弥はちょっとびっくりしたのか後ろによろけた。背中を片手で支えてやり、さらに頭を下げる。するとやはり困惑顔で顎を引く。
「いいんだな。食わないなら、オレが食べちまうぜ?」
 恭弥の細い腕がオレの腕をつかんだ。ぐっと伸び上がって顔を近づけてくる。おおっと思って半信半疑で顔を傾けると、ほどなくあたたかいものがそうっと唇に触れた。
「んっ……」
 すぐに飲み込めるくらいにかみ砕いたインゲン豆を慎重に口から口へと移す。
「おおー……っ」
 後ろで固唾をのんで見守っていた部下たちのあいだから、安堵と冷やかしが入り交じったどよめきが起こった。思ったより美味かったようで、恭弥はうれしそうだ。口をもぐもぐ動かしながら、もっとくれと袖を引っ張っている。
「よしよし、えらいな。ちゃんと飲み込まなきゃダメだぜ。あーんしろ、あーん」
 言われた通りに恭弥が口を開ける。中に食べ物が残ってないことを確かめてから、次のひと口を与えた。今度は恭弥の好きなニンジンにする。スプーンを使わずに口うつしで食べさせると時間がかかるのだけが難点だな……なんて、以前と比べれば贅沢な悩みだよな。
 突然の病気から回復したあと、オレと恭弥の関係は少し変化した。
 警戒心がすっかりなくなったわけではないだろうが、恭弥はオレのことを少なくとも敵ではないと認めたようだ。快復してからはよほど機嫌が悪いときでなければ膝に抱いてもいやがらなくなったし、ふいに頭を撫でても咬みつかれなくなった。まさかこんなに早くなついてくれるとはオレだけじゃなく仲間の誰ひとりとして思っていなかったらしく、どんな手練手管を使ったんだと散々からかわれた。
「うっわー……なんか見てられねえっつうか。ペットっつうよか恋人みたいだな」
「ったく、甘やかすにも限度ってもんがあるだろ。しょうがねえなあ、うちのボスの親バカっぷりはよ。これじゃ先が思いやられるぜ」
「うるっせえなあ。いいだろ、ちょっとくらい。見ないふりしとけよ」
「見えるとこでいちゃついてんじゃねーよ!」
 賑やかな笑い声が起こる。
 親バカ上等、笑わば笑えだ。
「散々苦労してやっと懐いてきたんだから、これぐらい許せよ……って、あれ?」
 恭弥の頭を撫でていた手に何かが触った。感触を頼りに髪をかき分けて確かめてみる。恭弥がなに、という顔でオレを見上げた。くるんと振り向いた頭の両側から、黒髪と同じ艶のある黒い毛で覆われた先の丸い小さめの耳が、ぴん、と飛び出している。
「そっか……自分じゃ気がつかねえよな」
 もらってきたときよりも耳が伸びて、だいぶ目立つようになってきた。変種のうさぎの成長の早さに舌を巻いた。恭弥は確実に大きくなってる。それが何よりもうれしい。
「おしっ。抱っこの次は散歩に挑戦だぜ!」
「その調子だ。がんばれ、ボス!」
 野望は尽きない。恭弥との夢のペットライフはまだ始まったばかりなのだ。

update: 06.12.3-21(四話目以降はオフラインにて発表)