La Dolce Vita

 うさぎが人間の言葉を何となく理解するようになったのは、本格的に暑くなる前のことだった。
 最初に覚えた単語は、『きょうや』。
 自分を取り巻く大勢の人間たちが──特にあの金色の人間がしょっちゅううさぎを見つめてそう呼ぶのを聞いているうちに、ある時ふいにピンときたのだ、あれは自分のことを呼んでいるのだと。それ以来うさぎは『きょうや』という音を誰かが発したら、一応振り向いてやることにしている。ただし、機嫌の悪い時でなければ。
 人間は実に様々な音を発する生きものだったが、注意して耳を傾けていると解る。誰かに呼びかけている時、楽しそうにしている時、怒っている時に出す音は全部違う。うさぎはとても耳がいいので、すぐにその音の違いを聞き分けられるようになった。
 ひとつわかり始めると面白いもので、それからは今までそれほど気に留めていなかったいろんな音が次々耳に入るようになった。次にうさぎが覚えた固有の音は『ディーノ』。これはあの金色の人間のことを指す。他の人間たちが『ディーノ』と呼ぶと金色が必ず返事をするのでわかった。
 ディーノ。
 うさぎはこの音の持つ響きがとても好きだ。
 どこからかこの音が聞こえると、無意識に耳がぴくんとして、つい聞き耳を立ててしまう。『ディーノ』が呼びかけに応える時に出す音も好きだ。たいていは短く「んー?」とか「××××(うさぎはまだ人間の発する複雑な音の違いをうまく言い表せない)」とか、可愛い音で返事をするのが、とてもいい。なぜかはわからないけれども、ちょっとどきどきする。
 実はうさぎは、試しに何度か金色をそれっぽい音で呼んでみたことがある。でも自分ではうまく言えたつもりだったのに、ディーノはちらりとも振り向かなかった。ちょっと悲しくて耳がちょろんと垂れてしまい、それを見た金色がとても慌てていた。
 どういう音を出したら、ディーノはこっちを振り向くんだろう。ディーノに通じるようになるんだろう?
 わからない。
 とても気になる。ちょっとじゃなく気になる。
 気分がイライラして耳はぴくぴく、鼻の頭はしょっちゅうひりひり。振り向け、『ディーノ』。ひらけ、ゴマ!(ちょっと違う)
 そんなある日のこと。うさぎはディーノからいいものを貰った。まん丸の玉の裏側にちょこっとした出っぱりが生えていて、口にくわえると実に気分よく唇にフィットする。ちょっぴり変な匂いがするのが難点だけれど、うさぎはすぐにその贈り物を気に入った。
 うさぎがそれを気に入ったのは、しゃぶるのにちょうど具合がいいというだけの理由じゃなく、その玉を口に咥えた時に信じられないすごいことが起こったからだ。ちょうどお腹が空いておやつが欲しくなった時に『ディーノ』と呼んでみたら、なんと本当におやつが出てきたのだ! あれには本当にびっくりした。
 それからというもの、うさぎが『ディーノ』と呼ぶと、ディーノはちゃんと振り向いてくれるようになった。『なんだ?』みたいに声をかけて、必ずこっちを見てくれる。必ずだ。
 それが面白くて、うれしくて、うさぎはしょっちゅうディーノの後ろをついて歩いては、しつこいくらいに『ディーノ』『ディーノ』と呼びまくった。そのたびにディーノがいちいち動きを止めて困ったように振り向くのがおかしくて、お腹がくすぐられているようで身体がむずむずした。
 呼ぶ音が届くところにいつもいるのが大切だから、なるべくディーノの近くにいないといけない。そう気づいてから、うさぎはどこへ出かけるにも「やだ」と言わないようにしたし、出されたごはんも残さないようにした。ふいに抱き上げられて驚いても、引っかいたり咬みついたりするのは一番ダメ、ぐっと我慢だ。ディーノが悲しそうに首を振って、どこかへ行ってしまうから。すると無性にベッドにもぐり込みたくなってしまう。それではつまらないのだ。
 残念なことに、不思議な玉はもらったその日、あっという間に使えなくなってしまった。玉を携えてちょっとした冒険に出かけたら、なぜか突然思うような音が出なくなってしまったのだった。
 でもなぜか、それから──不思議玉がなくなってしまってからも、ディーノはうさぎが呼ぶと、ちゃんと応えてくれるようになった。
 自分が音を出すのが上手になったのか、ディーノが賢くなったのかはよくわからない。
 でもうさぎには、そんなコトどうだっていい。
 うさぎがお腹が空いたと言えばディーノは食べものをくれるし、暴れたくなったら庭に連れて行ってくれる。天気がいい日は手を繋いで近所をてくてく散歩する。眠くなったらベッドまで運んでもらって、ぬくぬくと幸せに眠る。もちろんディーノの腹の上で。コトコト聞こえる心臓の音が好きなのだ。
「ディーノ」
「なんだよ恭弥。こんなトコにいたのか。探してたんだぜ」
 開けっぱなしのドアの前を横切る金色の姿を見つけたうさぎがすかさず呼ぶと、耳のいい金色が扉の向こうからぱっと顔を出した。ほら、ものすごく気分がいい。呼んだらいつでも飛んでくる。とても気分がいい。
 うさぎが満足げに耳を揺らしていると、ディーノが大きなガラスのボウルを手に持って部屋に入ってきた。
「いいもの貰ったんだ。一緒に食おうぜ」
「なに、それ?」
 うさぎが首を傾げると、ディーノがちょっと笑った。耳がてんでにゆらゆらしてる、とおかしそうに言う。
「お前の好きなイチゴ。日本じゃ今の季節には手に入らねえんだけど、これは特別な。美味そうだろ?」
「!!」
 ボウルの中身をひと目見たうさぎは目を輝かせた。赤いくだものはうさぎの大好物なのだ。早く、早くちょうだいと耳をぶんぶんするうさぎの目の前に、ディーノがことんとボウルを置いた。一粒つまんで、うさぎの口に近づける。
「あーん」
「あーん」
 人間の耳には「むぅ」と聞こえる音を出して口を開ける。
 ぽん、とイチゴが飛び込んできた。甘くておいしい。舌の上でぐちゃぐちゃにして飲み込むと、喉の奥までふわりといい匂いがする。
「あーホント美味い。温室モノとは思えねえな」
 ディーノもうれしそうにイチゴにかぶりついている。うさぎにひとつ、自分にもひとつ。うさぎがイチゴを飲み込んだのを見計らっては、もうひとつ。そこでうさぎはおかしなコトに気づいた。なぜだかうさぎの目には、ディーノの口に運ばれるイチゴのほうがおいしそうに見えるのだ。
 ねえ、そっちのが欲しいんだけど。
 耳を振って訴えてみたけれど通じない。
「ディーノ」
「ん?」
 思いついたら即実行。うさぎは身を乗り出した。
 ディーノの口にちょうどよく収まっているまっ赤に熟れた果実を狙って、ディーノの肩に手をかけ顔と顔とをぐぐっと寄せる。
「ぅお」
 ディーノが反射的に顔を反らせる。うさぎはさらに膝に乗り上げ、ディーノの口に自分の口を近づけた。
 はむっと咬みつく。
 半分囓りとられたイチゴから滴が垂れ、ディーノのタンクトップの胸に点々と模様を描いていく。新鮮なくだものの香りがつんと鼻を衝く。半分をさっさと飲み込んでしまい、もう半分を奪い取る時に唇の表面が微かに触れあった。
 果汁の甘さに惹かれてそこも舐めた。
 ディーノはぎくりとして固まってしまった。
「なに?」
 訊いても返事がないのでもう一度顔を近づけると、突然目が覚めたように、ディーノがうさぎを乗せたままじりじりと後ずさった。
「いきなり、びっくりすんだろ……っ」
 大きな茶色の目をぱちくりさせて、あわあわしている。
 何となく顔が赤い。なぜ?
 うさぎはますますディーノに迫った。
「わー恭弥! 待て、待て!」
「?」
「これが欲しいんだろ?」
「??」
 ディーノが至近距離で目を合わせてきた。眉を八の字にして笑っている。肩を落としてはーっと息を吐いてから、ディーノはボウルから新しいイチゴを取って口にくわえた。
「ん」
 目を瞑ってぐっと顎を上げる。アレをもらえるのだ!
 うさぎはディーノの胸に体重をかけると、ゆっくり顔を傾けていった。ディーノの息が近くなると胸がずきずきして目の縁がじぃん…と熱くなった。舌をつんとつき出して、つるりとしたイチゴの表面をそおっと撫でる。歯ごたえのある果実を口に含んで、味わいながらかみ砕いた。
 うっとりするほど甘い香りを求めて、うさぎは最後にもう一度ディーノの口をひと舐めした。
 もちろん決まり文句も忘れずに。
「ごちそうさまでした♥」

07/9/2インテ初出「続・雲雀恭弥の正しい飼い方。」表紙絵小話。オマケにつけたものです。
本当はイチゴの季節の話じゃないのですが、リクエストしたイチゴがあまりにおいしそうだったので、無理やり話をくっつけてしまいました。