その手を

しろく  ほそく  すらりとした  その手を指を

はじめて目にした瞬間に恋をした








 他人とは違う特別な何かを労せず手に入れている人の常として、ヒバリも例に漏れず自分をあまり大事にしていない。
 ディーノが気に入っている人形のような手など、その最たるモノだ。爪は割れる、はがれる、手のひらはタコやマメがつぶれて固まり、治ったと思ったらまた別のどれかがつぶれるという、恐怖のローテーションを延々繰り返している。彼がトンファー使いというのがいけない、かわいそうなくらいに酷使されまくっているのだ。
 ヒバリの場合手というパーツに限らず、自分全般に無頓着と言える。骨を折られた、腕を切られたと言っては医者の世話になっているらしい。一体どんな学生生活を送っているのだか。

 そう、表面的にはこれと言った危険のなさそうなこの国で、ヒバリはなぜかしょっちゅう危険な目に遭っているのだ。ディーノの知る限りでは黒曜中との一戦で、彼は肋骨を3本持っていかれる重傷を負っている。それ以前にも他校の不良学生や街のゴロツキたちとのいざこざなどは、それこそ日常茶飯事だったそうだ。ディーノよりもヒバリとつきあいの長いツナや山本たちが口を揃えてそう言うのだ。
 かくいうディーノも師匠に頼まれてヒバリを特訓した時に、それこそ半端なくボッコボコにして(当然同じだけやり返されたが)あのきれいな子供を血みどろにさせたことがある。けれども当人はキャバッローネのボスに叩きのめされたことにムカついて死に物狂いで反撃してきたとしても、自分の体に傷をつけられたことを苦にする様子は全くなかった。気にもしていないようなのだ。そしてその傷が癒える間もなく、次はザンザスたちとの指輪と首を賭けた決戦が始まった。
 傷が残ったらどうするんだ。
 特訓が終了した直後、見かねたディーノがとにかく先に病院に行って怪我の手当てをしろと言うと、ヒバリは断固としてそれを拒否した。それどころかなぜディーノがそんなことを言うのかが、本気で理解できないようだった。女の子じゃあるまいし、傷の一つや二つあったってかまわない。飾りだよ。手についた自分の血を舐め取りながら平然と言うのだ、わずか15の子供が。あれには驚くというより呆れた。
 見えるところ以外の場所まで目にするような間柄になった現在では、ディーノはヒバリの身体のあちこちに、数え切れないほどの古傷とか生傷が刻まれていることを知っている。確かにこれだけ傷だらけなら、今さらかという気もする。
 でも、だからこそ、少しは大事にしてくれとディーノは思うのだ。
「こんなにひどい状態になってるのに特訓してくれとか言ってみたり、そういうことするなってホント」
「マメくらいでガタガタ言うなんて、あなたって本当にへなちょこだね」
「言ってろ、どSマゾっ子」
 ディーノに手を取られて水道水でざあざあと手のひらを流されながら、ヒバリは無表情に言い返す。つい先ほどまで、ふたりは学校の屋上で一戦交えていた。トンファーを弾き飛ばし顔面めがけて襲いかかるディーノの鞭を、彼はそのまま素手で受け止めたのだ。ディーノが鞭を引く間もなかった。したたかに打ちつけられた手のひらは裂けて鮮血が流れ出し、華奢な手首までを覆う学校指定の白シャツをみるみる朱に染めた。
「あ。切れた」
 さすがに眉を顰めて「痛い」みたいな顔をしたけれど、ヒバリは声も上げなかった。あーあというようにひらひらと手首を振って、自分の足下のコンクリートにぽつぽつとできた赤い染みを見回してから、おもむろにディーノに向けて手を差し出した。そして言った。
「それにマメがつぶれた、みたいだ。──気持ち悪い。血でベタベタする」
「バカ……恭弥」
 ぽつりと言って、不思議そうに首を捻る。平然としているヒバリの代わりに、ディーノの方が頭を抱えてしまったほどだ。



「ホントすげーボロボロ……子供の手とは思えねー」
 ディーノがため息混じりにこぼすと、ヒバリは赤く腫れた自分の手を見下ろしながら、つまらなさそうに鼻を鳴らした。またこの人はバカなことを…とでも思っているのだ。向かい合わせで床に座らせ「見せてみろ」と迫ると、ヒバリは素直に両手を上に向けてディーノの方へと差し出した。指の付け根にひとつ残らずマメができている。そこがまた残らずめくれて、血が滲んでいた。
「うっわひでえな……こりゃ今の練習でできた傷じゃねーだろ。最初から痛かったんじゃねーのか?」
「別に。慣れてるから気にしてない」
「気にしてって……そーいう問題じゃねーと思うけどなあ」
「あなただって手を使うだろ。同じようなものじゃないの?」
「年季が違うってのはあるが、オレはお前ほどはひどくないぜ。ほら、きれいなもんだろ」
「……へえ。ホントだね」
 そう言ってディーノが手のひらを見せてやると興味津々で覗き込んできて、自分の手のひらと真剣に見比べているヒバリの姿は、妙に子供っぽくてかわいらしい。
「ちょっと我慢しろ」
 保健室からかっぱらってきた消毒液を手に取って、清潔な脱脂綿で傷の上をそろそろとなぞる。かなりしみているはずなのに、ヒバリは顔色ひとつ変えなかった。
「痛かったら言えよ」
「トンファー握ってたら、こんなことはしょっちゅうだよ。使ってれば知らないうちに治ってるから、いちいち薬塗ったりとかしないし」
「だからってこんなになるまで放っておいたら、化膿して大変なことになるぞ。特に夏場は気をつけねーとな。膿んだらそのぶん治りが遅いし、傷が残る。不必要な傷がいくつあっても勲章にはならねーぜ。その傷を狙われて弱みになるだけだ」
 真っ赤になった皮膚は爛れているというほどではないが、三日は得物を扱わない方がよさそうだ。こんな手で武器を握ったりしたらせっかく乾きかけた皮がめくれて、また大惨事になってしまう。それに本当に痛いし。職業柄大けがには慣れているディーノだが、マメ程度の些細な怪我のもたらすわずかだが明確な痛感を想像すると、思わず身震いがする。知らずにため息を洩らしてしまった。
「前々から思ってたんだが、恭弥は自分に無頓着すぎる。もう少し自分を大事にしてやれよ。ていうかこれはオレのせいだが、そうじゃなくて、」
「別にあなたのせいじゃないよ。相手してくれって言ったのはこっちだ」
「違う。恭弥が傷つくとオレが痛えって言ってんだ」
 手を取って、うっかりすると互いの息すら掛かりそうなほどの距離にいるのだ。ヒバリがわずかにでも肩を揺らせたら解る。ぎょっとしたように、体を強ばらせたりしたら。ざまあみろガキ、とディーノは心の中でほくそ笑んだ。本気の大人をなめてもらっては困る。
「いつも言ってるだろ。好きだ好きだ大事だって。信じてなかったのか」
 ヒバリは黙っていた。ディーノは握りっぱなしだったヒバリの手を、自分の口元に引き寄せた。
 心を込めて、そこにキスする。
 かさついた手のひらの表面を舌でていねいに撫でて、小さな音を鳴らしてもう一度唇を押しつける。爪先が逆半月状に欠けた人差し指を軽く口に含むと、鉄と塩を同時に舐めているみたいな味がした。
「あまり無茶はするな。自分を痛めつけるな。平気な顔をするな。痛い時には痛いってちゃんと言え。オレに。そうしたら」
 きれいな手。きれいな体。強い心。本気で惹かれた。この少年をどうしても手に入れたいと思った。こうしてヒバリの一部分にでも直に触れて、間近で声を聴いていると、最初の特訓の時の皮膚がヒリつくような感覚──昂揚感のようなものが胸に蘇ってきて苦しい。
「そうしたら?」
 ヒバリが目を上げずに問い返す。答えを待たれているのだと思うと、焦って声が震えそうになった。口ほどにもないとはこのことだ。
「またこうして傷口を舐めて治してやるよ。手でも足でも、痛みが取れて傷が全部癒えて恭弥が泣きやむまで。一晩中でも。どう?」
「咬み殺されたいの」
 すかさず却下してから、ヒバリは何かを考え込むように黙り込んで
「あんまり甘やかさないでくれる。癖になるから」
 うっすらと表情を崩す。今にも微笑みそうな顔を隠すように、前に倒れ込んできた。
「痛いよ、ディーノ。すごく痛い。泣きそうだ……」
「泣け、泣け。思いっきり泣いていいぞー」
「うるさい」
 泣くわけないだろ……と拗ねたように言う。初めて名前を呼んで、ディーノの肩に額を預け、ヒバリはたまらないように肩を震わせて笑い出した。
 ディーノが初めて耳にする、打ち解けた笑い声だった。

片思いD。「狡い男」とセットで。既成事実はアリっぽい。そのまま押し倒さないのは、オトナの自覚と心意気(と、やせ我慢)。