Until You're Mine.

 ときどき、自分のなかでうまく処理できない感情の上下動に揺さぶられることがある。
 腕の中のひとを抱きしめるたびにふと感じる、胸の奥を小さな火であぶられているような、足下がふらつくみたいに安定しない幸福と不確かで中途半端な満足感──のようなものに揺り動かされて愕然とする。
 たとえば、よどみなく流れ続いていると信じて疑わない日常という名のベルトコンベアが、明日ふいに途切れるかもしれないとか。またねと送り出した「その次」が永遠に巡ってこないとか。
 一言で不安と言い表すのはどうもしっくりこない。薄暗い灰色で一粒ずつは目に見えないほど細かいのにたくさんになると重く胸を塞ぐなにかが、水底にたまる砂のように、いつもあたりまえに心の底辺に沈んでいる。時折波が起こるとそれらは激しく巻き上げられ、しばらく耐えているとまた静かに元の位置に戻る。ふだんはそんなものがあることすら忘れている。その程度のちいさなゆらぎだと知っている。




 かなりひさしぶりに電波ではなく直接ふれ合える距離まで飛んできたひとは、なにか思うところがあったらしく、こちらの顔を見るなりつい先日けっこうやばめな目に遭ったばかりなのだと唐突に告白した。
 世間一般の超多忙なビジネスマンとほとんど変わらない生活を送る彼だったが、そこはやはり生きる世界が特殊であるから、日の当たる道だけをまっとうに歩いているわけではないようで、時々思いも寄らないアクシデントに見舞われることがあるのだそうだ。早い話がほぼ同規模のファミリー同士のトップ会談の最中に、相手のボスからいきなり銃口を向けられてしまったという内容だった。
 いつもとはまるきり逆の体勢──こちらの膝に頭をあずけてくつろいでいる最中に急にそんなことを言い出すものだから、はじめはまた得意の映画の中の登場人物の話かと思って聞き流していた。なるほど片腕を吊っているのはそのせいかと気づいて、やっと納得した。
 詳しく聞くと至近距離から撃ち込まれた弾丸は幸いにも骨や筋を傷つけることなく、肉を少し削り取っただけで逸れていったのだという。だから重傷のわりに後遺症の心配はないのだと。バカじゃないのどんくさい。
「やられる前にやればいいのに。あなたなら簡単だろ」
「必要のねえ殺しはしない主義なんだ。死体処理とかめんどくせーだろ」
 呆れてものが言えない。

「見たところ腕以外にやられたところはないみたいだけど、他に支障は?」
「ないな。──あ、ある、ある。恭弥が全然足りてねー。どうりでケガの治りが遅いと思ったぜ」
 こちらが思わず無口になるようなことを口走って、ぴったりくっついたまま離れようとしない。狭い範囲で窮屈そうに手足を丸めて、大きな身体をもぞもぞさせている。顔を見てからずっと、体のどこか一部分より多くを触れ合わせてくるひとは、そうすることで離れていた時間と距離とを強引に縮めようとしているみたいだった。今はこちらの膝に頭を乗せ腹に、というより足のあいだに顔を埋めるようにしている。
 口を開くとくぐもった話し声に合わせて腿から振動がまともに伝わってくるから、くすぐったいというか、じれったいというか、とにかく変な感じになる。それにすることがまるで大きな子供だし。求められているのが単純なスキンシップであればあるほど、つよく抱きしめられたい本心からすれば、それ以上何も仕掛けてこないときの間の悪さというか、居心地の悪さといったらなかった。神経が逆なでされて、いつになく言葉が溢れてくるのはそのせいだと思いたい。
「あなたの大事な部下は同席してたの」
「あーうん。現場には二人ばかりな。あとは外に10人ほど待機させてた。あいつらに何かあったらと思ったら、生きた心地がしなかったぜ。全員ケガもなしに無事に連れて帰れてホッとしてる。けっこうがんばったんだぜオレ」
「ようするに仕事中に油断して殺されかけたってことだろ。自慢にならない」
「そう言い切られると身も蓋もねえんだけど……まあ、そうだな」
「……そいつらがいなかったら、あなたは今ごろ死んでたかもしれない。しょうもない死に方だ」
「あっさりしてんなあ。恋人が殺されかかったっていうのに」
 非難めいた言い方とは裏腹に、うれしそうに笑う彼の気持ちがよくわからない。
 連絡もなしにいきなり学校に現れて、こちらの都合などお構いなしに着替えもさせずに連れ出したと思ったらこれだ。平穏無事なぬるま湯の毎日を送っているいち学生に、ほかに言えることなどあるものか。
 彼の話す内容はたまに突拍子がなさ過ぎて、実感がわかないことが多すぎた。
 ふと気づくとああそうなんだ、それはそうだろうねと、スクリーンの向こう側の絵空事と同じ感覚で肯いている自分がいる。その反面まったく現実味を感じない、見たことも聞いたこともない、接点など皆無の別世界というわけでもないから、実感はないまでもぼんやりと輪郭を想像することはできる。思いは振り子のように常に極端を行ったり来たりして、それでときどき無性に気分が悪くなって、いらいらさせられるのがいやだった。
 それなりに気を遣っているのか滅多に仕事の話をしないひとだけれど、いったん口を開くと彼は細部を曖昧にぼかすようなことをしない。その場で実際に起きたことも感じたことも、たとえ悲惨な結末でも包み隠さず話して聞かせるから、こちらののんきな自己防衛からくる誤解や曲解の入る余地はほとんどないに等しかった。今だってそう。聞けば聞くほどよく戻れたと感心するほどのギリギリの局面が頭に思い浮かんで、ますます気が滅入ってくる。
「そういう──危険なことってよくあるの」
「そうとも言えるしそうじゃないとも言えるな。たとえばうちとボンゴレみたいにうまくいってる同盟ファミリーってのは、意外に少ねえからな。ファミリー丸ごと敵対する同盟に寝返ったり裏切ったりで全面抗争になる、なんてのはそうしょっちゅうあるわけじゃねえが、別にめずらしい話でもないぜ。自分たちの勢力範囲を広げるとか組織をでっかくしてえっていうような野心を持つのは、トップとしちゃ悪いことじゃねェし。キャバッローネは特に名の知れたファミリーだからな、そこのボスの首を取ったっていや、こっちの世界では一躍有名人だぜ。もっともそいつらに同盟からの圧力や攻撃に耐え抜くだけの組織力があればの話だが」
「ふうん。そう」
「なんだよ、そこで止まるなよ。もっと何かしゃべれって。おかえりとか、会いたかったとか、さびしかったとかだいすきとかしようとか、それから、ええと」
「寝言は寝てから言うといいよ。気絶させてあげようか」
 待てそれはいやだと気の抜けた声で笑う。髪に手を入れて梳いてやると、条件反射のように瞼を閉じるのがおかしかった。このひと年はいくつだっけ。実際の年齢を知っていてもそうは見えない。
「時差ボケきつい……飛行機はどうも苦手だ、落ち着いて眠れねーんだよな」
「じゃあ今寝れば。夕食までにはまだ時間があるから」
「…………」
「そのままで寒くないの。毛布は」
「んー…いい、………」
 しゃべり疲れたのか、気づくと目を閉じてしまっている。こちらの問いかけに返事をするのも億劫そうだ。負傷した腕を下にしないように、だらしなく寝そべったまま当然のようにこちらの腰に回した腕で自分の身体を固定して、本気で眠る体勢に入っている。このまま寝ていいかとか、形だけでも訊ねる気もないらしい。ぼんやりしながら動かす唇からもれてくるのはたわごとばかりだ。
「明日はどっか遠出しようぜ。海までドライブとか……つーか、ふたりっきりになれるならどこでもいい。恭弥のこと好きにいじりてー。マジで限界きてるんだって、食わせて、がうう」
 片腕しか使えないひとが何を言ってるんだか。
「却下だね。片手運転の車になんか絶対乗らないし、腕のケガが治らないうちは触らせない。それとシャツの裾を噛むのやめてくれないかな。子供みたいだよ」
「うっそつめてー……。せっかく、生きて帰っ……、きた、の、に……」
 期待していたほどの抗議の悲鳴は上がらなかった。よほど疲れていたのだろう、話の途中で語尾がどんどんかすれて声は消えてゆき、やさしい寝息に取って代わられてしまった。
 危なかったと本人が言うんだから、本当に危なかったに違いないのだ。すると胸にじわじわと腑に落ちないものが──自分は怒っているのかと思ったけれどもちがう、どちらかというとそれは悔しさに似ていた。
 しばらく見ないあいだに、ひとの知らないところであっさり命を落としかけた。
 もう二度と会うことも、こうして腕を絡めあうことも、口をきくことすら叶わなかったかもしれないのだ。勝手にいなくなるのはゆるさないとまでは言わないけれど、やはり少しは腹を立ててもいいような気がする。時間とか距離とかいう、現在の自分ではどうあがいても絶対的に抗えないものがあることに我慢がならない。けれどもその他のマイナスの感情はどこからも沸いてこなかった。今日こうして会えたという満足感のほうが大きかった。少しまいっているけど元気そうだし、甘えたいときは本気で遠慮なく甘えてくるからわかりやすいし、日本にいたって明日はどうなっているかなんて誰にもわからないし、それ以上自分の深層心理を探るのはやめた。意味がないし疲れるだけだ。
 未来に何が起こるかわからないというのは真実というより、実感だった。
 こっちに来ているなんて知らなかったから、まずはじめに驚きが顔に出ないようにするのに苦労した。会った途端に「帰れ」とか口走ってしまうくらいには動揺して、用意された車に乗り込むきっかけをつかむまでがさらにまた大変だった。
 差しのべられた手を素直に取るのはくるしい。抑えこまなければいけないものがたくさんありすぎる。
「んっ…………」
 ひとの膝の上で、寝返りをうてないからか少し苦しそうにため息をもらす。その拍子に欧米人特有の細くて腰のない金髪が形の良い額から滑り落ちた。伸ばしっぱなしで手入れされていない髪が示すのは多忙なひとの余裕のなさと、長い長い空白の期間だ。会えないときの息苦しさやもの足りなさや、ちょっとだけどうでもよくなりかけていた甘ったるい愛おしさが今日で一度リセットされて、またゼロから始まる。

「ディーノ、……眠った?」
 起こさないように、ほとんど声にならない声でつぶやいてみる。
 昨日までは目に見える近くにいなかったひとだ。
 今日はあたたかい体温を直に感じられる距離にいる。
 そしてもっともっと先の──確実でない、訪れるかどうかもわからない明日は。
 目が覚めて、朝いちばんに目に飛び込んでくるのが太陽の光でもしわくちゃのシーツでもなく、このひとの姿であればいいと思う。それからのことはあとでゆっくり考えればいい。

 しがみつかれている不自由な体勢のせいで体が強ばり、大柄なひとの重みで早くも足が痺れてきた。1時間くらいは寝かせてやるつもりだったけれど、どこまで我慢できるかすでに怪しくなってきてる。
 というか、なぜ黙って膝枕なんかしてやっているのかが、まずわからない。
 自分で自分がおかしくて、無防備すぎる寝顔から目が離せなくて、込み上げてくる笑いを噛み殺しながらふと見下ろすと、
「────ぅ、や」
 気持ちよさそうにうっとりと微睡むひとが、いやでも聞き覚えのある名まえをぽつりと呼んだ。

遠距離レンアイっぽい?
お疲れあまえんぼディーノとバランスして、ヒバリさんがいつになくしおらしい。