祈り

 ふと気づくと、いつも視界の端で捉えているひとの姿がなかった。

 新年になったと同時に、はじめて玩具を手にした子供のように毎日電話をかけてきて、来てくれたら絶対ひとりにはしないと約束していた男だ。約束は違えられることなく、むこうの事情など気にも留めない僕ですら、仕事は大丈夫なのかと思い始めていた矢先のことだった。だからさすがに、ああこれは、山積みの書類の前に強制連行されたか、本来やるべきことを奇跡的に思い出したかと、おかしさ半分強がり半分でぼんやり思ったくらいで、気にしたわけではなかった。
 けれど、そうではないことが今、図らずもわかってしまった。
 銀白の世界のまん中で、ほんとうに、偶然見つけた背中だった。
 昨日から降り続いている雪は、世界を隅々まで純白に覆い尽くして、やっと満足したようだ。昨夜までは吹雪だったが、今朝には小降りになっていた。けれど止みそうな気配はない。しんしんと、少しずつ、一点の曇りもない風景を作り続けている。
 どこまでも続く、雪景色。その白の中に、目の錯覚のような点でつながれた一本の線が、はるか遠くの表門ヘと延々と続いている。
「ねえ」
「何だ?」
 答えたのはあの男ではなく、あの男の部下だ。廊下ですれ違うとき、何となく窓の外を見たら、むこうも同じものを見ていたのだ。動きが一瞬止まったからわかる。
「あのひと、どこへ行くの」
「さあなぁ」
 こいつらは、僕に対する物の言い方をもう少し考えたほうがいい。丁寧に喋れというのではない。すぐにばれるようなうそをつくなと言うことだ。自分たちが、いい年をした大人を寄ってたかって過保護にしているような群れなのだというのを、もっと自覚したほうがいい。
 この大雪のさなか、ひとりで門を出て行こうとするあの男の行き先を、一番の部下が知らないわけがないだろう。
「ひとりで行って、戻ってこられるの」
 意味を取り違えられる心配のない言葉を選んだつもりだ。大げさではなく方向感覚を乱されそうに、世界は一変している。部下がほんの少し、考え込むような間をおいて黙り込んだ。そして僕は思う。それを過保護と言わずして何と言うのか。
「まあ大丈夫だろ。毎年、戻って来られてる」
「近く?」
「敷地内じゃねえが、うちの土地だ」
「どこ」
「おまえさんは知ったこっちゃねえと思うが、うちのボスの誕生パーティは明日だ」
 部下が応えるまでに、また妙な間が空いた。
 指のささくれが衣服に引っかかったくらいの、ささやかな違和感。
「聞いてるよ」
 その日だけはどうしてもほったらかしにしてしまうと、心から残念そうに、そして何度謝られたかわからない。忘れられるわけがなかった。
「こっから先は、どうして祝うのが今日...めでたい日の当日じゃねえのかって話になるんだなあ」
 わからない、わかるように話せという苛立ちが、まともに表情に出たらしい。髭づらの部下が僕を振り返って、にっこり笑った。
「昔からのボスの命令なんで、うちはいつもこうなんだよ。当日は派手に祝ってくれるな。静かに過ごさせて欲しいってな」
「聞いていいの」
 短い黒髪にがしがしと掻いて、部下が息を吐いた。
「恭弥はやさしいなあ。これバラしちまうと、ボスが帰ってきたらたぶん、オレは地べたに這いつくばって平謝りだぜ」
 そして、また少しためらったのち、彼はあることを僕にそっと告げた。


 外に出てみると、寒さが身に染みるというほどではなかった。寒いけれど、震え上がるほどじゃない。持っていけと手渡された分厚い毛布(ほかに名称があるのかもしれないが、僕の知ったことじゃない)は、この時点で完全に存在意義を失っている。黙って受け取るのではなかった。
 たった一つしかない靴跡をたどって、新雪をさくさくと踏みしだいて進む。迷いのないような足跡は、まっすぐ森の奥へと続いていた。森というより林だろうか。落葉した樹木がほとんどで、裸のまま重そうな雪に抱かれている。
 林道を進むと、すぐに広場に出た。当たり前だけれどあたりは白一色で、白い小山がいくつも並ぶ庭のような場所に足を踏み入れる頃には、視界がハレーションを起こしていた。まぶしくて涙が滲みそうだ。
 目線の高さに手を翳しながら、同色で塗りつぶされた背景から浮き出る影を目指す。色という色が、白のほかにまったくないのだ。隠れてもいない人を見つけるのはたやすかった。
 彼は、少しうつむき加減で、ある一点をじっと見つめていた。僕が近づいていることには気づいていない。おかしなことだった。こっちに来て以来、彼はいつでも僕を目で追っていた。うぬぼれじゃない。自分でもそう言って、笑っていたくらいだ。その心地にいつしか馴れてしまうくらいに、どこにいても、誰といても、彼の視線を感じないことはなかった。
 そ知らぬふりで声をかけようか、そのまま引き返そうか、柄にもなく迷いを感じたのはそのせいかもしれない。
 結局彼が気づいて顔を上げるまで、僕はまた強く振り出した雪のなかで突っ立ったままでいた。
「どーして」
 おまえがここにいるんだ、と彼は言った。少し離れた場所で、早くも新雪に埋もれそうな僕を見つけて、彼は心底驚いていた。状況を把握しきれていないからか、大声を出したけれど、それは咎める口調ではなかった。ただびっくりして、まずいと気づいたのはそれからだったようだ。困った顔で、ためらいがちに僕を手招きする。ほんのわずか、足が動かずに苛立った。他人の日記を隠れ見てしまったら、あるいはこんな気分になるのかもしれない。
「誰に聞いた?」
「こっちに向かってるあなたを見かけた」
「……そっか」
 嘘じゃない。すべてではないだけで。
 わかったのだろうけれど、彼はそれ以上追求しようとはしなかった。よろよろとおぼつかない足取りで近づく僕を、目を細めて待ちかまえて、手を差しのべながら静かな声で彼は言った。
「これな、親父の墓なんだ」
 ひとつだけ、きれいに雪を払い、厳しい季節に集められるだけかき集めたような風情の、どこか素朴な花束を添えた石版を指さして。
「命日?」
「いや」
 ちらりと僕を見て、聞き馴れない単語を遅れて理解したらしく、彼が否定の意味で小さく首を振る。
「親父が死んだのは今日じゃねえよ。今日は、オレの誕生日。知ってた?」
 聞いてもいないのに散々自分で言い聞かせた事実を、念押しのように言う。そうしながら肩を抱かれて、まっすぐ正面を向くように体を固定された。懐に入ってしまうかと思うほど、大きな躯だった。そして温かい。くだらないことが頭に浮かんだ。やっぱり毛布は必要なかったじゃないか。
「誕生日の決まり事なんだ。親父の墓参り。毎年、見せにくる」
 なにを、と無神経に尋ねる気には、さすがにならない。彼の顔が見えなくなったのはわざとかも、見せたくないからのかもしれないと思った。ついさっきだ。彼の部下から片鱗だけ話を聞いた。彼の体に跳ね馬の刺青が顕れた日。それが彼の父親の命日だということ。彼が生まれ変わった日。それと引き換えに、大事なものを失った日。
 今日は彼がこの世に生まれ落ちた日。
 父親の死後、子供だったキャバッローネはひとつ年を重ねるごとに、必ず父親の墓前を訪れるようになったのだという。部下も連れず、たったひとりで森に入って半日も戻ってこない彼が何を思っていたかは、誰も知らない。見せに来ているのだと知らされたのすら、おそらく僕が初めてであるに違いない。
 僕をしっかり抱き寄せて、しばらくのあいだ、彼は祈りの言葉のようなものを耳元で呟いていた。内容を理解しないまま、彼はいま祈りを捧げているのだと、なぜか僕は確信していた。ときどきぷつっと暗唱を止めて、思い出したように、こめかみに唇を寄せてくる。髪を撫で、抱き寄せた僕の肩をときどき揺する。たぶん、見せているのだ。誰に? 何を? 考えたくもない。それよりも、このいたたまれなさは思った以上だ。やはり来なければよかったと、今さら彼の腕を振り切って帰りたくなった。
 自業自得だ。ほうっておけばいいものを、打ちのめされたこの人を見たさに、僕は自分からここまでのこのこ出向いたのだ。それが相手にどういう意味で捉えられるか、深く考えもしないまま。
 なんて、バカな。情けない姿すらいとおしく感じる心地など、べつに知りたくはなかったのに。


 降り出した雪は、取り払ったはずの石版の上に、はやくも新たな衣を纏わせはじめている。さむ、と彼が震えて、ぼうっとしていた僕にも、ようやく体感温度が戻った。凍えそうだ。
「そろそろ帰ろーぜ。風邪引いちまう」
 冷たくなりかけた手を引いて歩き出そうとするから、とっさの行動で振り払ってしまった。彼は少し意外そうに僕を見て、何とも言えず微妙に表情を崩したあと、僕に背を向け一人で来た道を戻りはじめた。笑ったのか、怺えたのかもわからない。
「ねえ」
 うしろから声をかけ、歩く速度がゆるんだのを確かめてから、体半分捻ったまま完全に足を止めてしまったひとへと、ゆっくり近づく。
「何だよ」
「あなたについていくと迷子になりそうだ。僕が先に行くよ」
「……は?」
 茶がかった翠の瞳が、こぼれ落ちそうに見開く。
「ちょ、待てそれはねえ! ここオレの生まれ故郷だぜ!」
「信用できないな」
「ひっでえな!」
 僕は悲鳴のような抗議の声を鼻で笑い飛ばすと、降り止まない雪に惑わされて、どこかに迷い込んでいきそうなひとの手を取って歩き出した。

「雪の舞う中、消えてしまいそうな背中」
ディノ誕。2009.2.10初出。次回「静寂の雪解け道を」に続いたり、する、かな……?
せっかくハピバなのに、暗くてすまない……!