レインコート

 日本には梅雨という季節があるから、この時期になると連日のように雨が降って、日照時間が極端に少なくなるのはあたりまえのことだ。元から梅雨とはそんなものだと思っているから、例えばこんなふうに下校直前に降り出されると鬱陶しいけれどあきらめるしかない。今朝登校前に手伝いの人に呼び止められて、めずらしくコートなど持たされているというのに傘を応接室に置き忘れてしまい、取りに戻るのが面倒という理由でヒバリはレインコートだけ着込んで裏門への近道である中庭に立っていた。
 今まで晴れていたのに急に降り出したからだろうか。数人いた生徒たちはばらばらと校舎内に走り込んでしまい、あっという間にヒバリの他には誰もいなくなった。賑やかだった放課後の中庭は「水を打ったように」という言葉の通り、一瞬で静かになった。
 ヒバリは決して雨が嫌いではない。
 厚い雲に覆われた灰色の空を眺めていると落ち着くし、嫌味なほど降り注ぐ日光に弱い肌を容赦なく攻撃されるよりは何倍もマシだ。いきなり暑くなって体が参る初夏に比べて若干気温が下がるから、外を出歩くのもそれほど苦にならない。雨は降り出したばかりでしばらく止みそうにないし、傘はなくともコートがあるし、このまま雨の中をぶらぶら歩いて帰ろうか……という気になるくらいには、雨に洗われた夕方の空気は涼やかで気持ちがよかった。
 どうしようか少し迷って、ヒバリはレインコートのフードを目深に被りなおした。雨は嫌いではないが、髪が濡れるとあとが気持ち悪い。
 木綿のフードを被ると視界が遮られて、ほとんど直線方向しか見えなくなった。雨音も少し聞き取りにくくなった。水と灰色しかない世界にたったひとりで閉じこめられてしまったような気分だ。
「────」
 名前を呼ばれたように思った。裏門のほうからだ。
 声のした方をちらりと見遣ると、人気のない道路が続く裏門の向こうにいきなり大柄な影が浮き上がった。さっきまでは確かに誰もいなかったのに、影は空から降ってわいたように急にそこに姿を現したのだった。そしてすたすたと迷いなくヒバリのいる方へと近づいてくる。
 ヒバリはその場で足を止めて、ハタと気づいて慌てて顔を伏せた。来るのがわかっていたと言わんばかりにすぐに目を合わせるのは、あまりにもばつが悪い。
 あの男はこういう時に──ちょうど今のように急に人がいなくなった中庭とか、委員たちが全員出払っている無人の応接室などに──タイミングよく現れることが多かった。嗅覚が鋭いとでもいうのか。うちのボスは神様に特別に愛されているひとなのだと、彼の部下たちがなにかにつけ自慢げに言うのはこういうところかもしれない。
「恭弥」
 もう一度声が聞こえた。やはり空耳ではなかったのだ。
「よかった、間に合ったな。もう帰っちまったかと思ってたんだ」
 顔を上げる必要はなかった。まんまと見つかってしまったことを苦々しく思うのと心臓が走り出すのとは同時だった。
「……何か用? 用もないのに学校には来るなって言ってあったはずだけど」
 毎度のことながら、呆れるほど冷たいヒバリの言い種は現れた人物の苦笑を誘った。地面に跳ね返る雨の音に混じって、肩を震わせて笑い出すのをこらえている気配が伝わってくる。別に怒りもしないし、気を悪くした様子もない。これぐらいでいちいちへこたれているようではヒバリの相手はつとまらないことをとっくに知っているからか、怒るどころか楽しそうだ。
「会いたかった」
 黒光りするリムジンを背に傘も差さずにのんびりと歩いてくるそのひとは、ヒバリの横柄な態度などどこ吹く風で、おどけた調子で軽く肩を竦めている。顔にも髪にも降りかかる雨に顔をしかめ濡れて色が濃くなったブロンドヘアをかき上げると、ゆるい襟元やタンクトップの袖口から炎の先端が見えては隠れた。全身ずぶ濡れだからだろうか。鎖骨から首の後ろまで見事な刺青を彫り込んだ肌色までがいつもよりも褐色に傾いていて、圧倒されるほどの迫力を醸し出している。
 ──思わず目を奪われた。どきりとさせられてしまった。
「帰る前に恭弥にひと目会いたかったから……ってのは、理由にはならねーか?」
 腹立たしいほど颯爽と胸を張ってディーノは言った。
 そうだろうね……と思ったし、朝まで一緒にいただろうとも思ったけれども、口に出すのはやめておいた。学校か自宅にかはわからないが、ディーノがもう一度今日中にどこかに現れるだろうとは思っていた。が、そんなことを迂闊に口走ろうものなら、この底抜けにポジティブなイタリアン・マフィアをますますつけ上がらせるだけだ。
 雨足がさらに強くなったようだ。中庭の低木に落ちる水のリズムが心地よく耳に響いてくる。地面にはところどころに水たまりができかかっていて、煉瓦敷きのエントランスを洗い流す自然のシャワーがヒバリの足下でいったんせき止められ、前方の階段を一段ずつ流れ落ちていった。
 ぴちゃ、と水を弾く音がする。ディーノが階段を一歩一歩上っている──足音がヒバリのほうへと向かってくる。ヒバリは動かなかった。あと二三歩で互いの距離がまったくなくなって、逃げ場を失うのはわかっていた。
 ディーノがヒバリの正面に立った。綿にコーティングを施したフードの天辺を黙って見下ろしている。せいいっぱい抑えた声で、ぽつりと
「今晩、発つから」
「そう」
 そんなことはわかっている。だから昨夜はあまり眠らせてもらえなかった。極端に寝不足なのは誰のせいだと思っているのだ。
「見送りには行かないよ。わかってると思うけど」
「いーよ見送りなんて……って、顔を見た途端に、開口一番に言うコトがそれかよ」
 ホント、恭弥は冷てーのな……と呟くように言って、ぴくりとも動かないヒバリを見下ろし、ディーノは苦笑いを交えたため息を落とした。
「そのコートかわいいな。似合ってる」
 くっと頭を下げて、小さな子供に話しかけているように顔をのぞき込んでくる。
「フライトまでに少し時間があるんだけど、もう一回抱いていい?」
 頬に血の気が上るのを感じながら、ヒバリは無言で首を振った。体の方がディーノを憶えているうちにもう一度するのは苦手なのだ。自制心が働かなくなってしまう。
 長いこと下を向いていて、ようやく思い切って目を合わせると、ディーノは待ちかねたように全開で笑いかけてきた。
 わかってる、意地悪なコト言ってごめんな、と言ってやさしい顔で目配せする。
 決して縮まらない年齢差と体格差と、決して無理強いしない心の余裕と、距離を畏れない意思の強さと。
 ディーノはすべてを持っている。ヒバリはそのどれをも持っていない。
 だからヒバリは答えられない。離れるのはいやだと言えない、素直に感情を表して求めることも自ら手を差しのべることもできない。ディーノが苦しそうに眉を顰めても見ないふりをするしかなかった。
「じゃあキスだけ。最後に恭弥にキスしたい。次にいつ日本に来られるかわかんねーし、」
 言い終わらないうちにディーノの腕が動いて、そっと触れる程度のやわらかさで肩を抱かれた。
 背中を両手で囲うように抱きしめてくる。
 いつものように息が詰まるほどぎゅうっとではなく、ほんのわずかの力で抱かれた。それでもディーノの量感をまともに感じると、動悸で胸が苦しくなる。重なり合う体と体のあいだに雨が入り込んでくるのすらもいやで、つい自分から互いの距離を縮めてしまいそうになった。背中に当たる触れるか触れないかくらいの、かすかな手のひらの感触がもどかしい。
「これスゲーかわいいけど……キスするにはちょっと、邪魔……」
 からかうように言って、ディーノの指がレインコートのフードを後ろへと追いやる。半分ほどが露わになったヒバリの頬にぽつっと雨粒が落ちると、ディーノはそおっと舌を伸ばしてそれを舐め取った。すぐに前髪から滴がしたたり落ちるほどになり、鼻の頭や目蓋を濡らす水を飽きずに追っていたディーノの唇がヒバリの唇にようやくたどりついた。
 ヒバリが身を乗り出して唇を開く。


 表面をごく軽く押しつけただけで、唇はすぐに離れていった。


「じゃあな。元気で。また、会おうな」
 ディーノの姿が見えなくなって、黒い車の影が雨に飲み込まれてしまうまで、ヒバリはその場に立ちつくしていた。


 あたたかな体温が去ってしまうと、頬を叩く水の温度がよけいに冷たく感じられる。
 拭っても拭ってもひんやりしている。思い切ってフードを取り払うと雨は髪から首を伝って服の中まで流れ込んでゆき、いくつもの滴が肌の上を伝い落ちていった。
 ディーノの気配が消え去ったあとには冷たい雨だけが残った。
 ヒバリは濡れて張りつく髪を払い、自分の顔に手を当てて、甲で濡れた頬を何度もこすった。
 ただふれ合うだけでは物足りないと感じるくらいに、唇や頬や背中といった──ディーノが触れていったところが彼のぬくもりをしっかり覚えている。
 違う、昨夜はもっともっといろんなところを触らせたのだ。
 ヒバリはディーノのくれた指や肌や唇やそのほかの感触までをぜんぶ、赤面するほどはっきりと思い出してしまった。
 それでわかった。強引にしなかったのは絶対にわざとだ。
 ヒバリは消えた影を追うように前方を睨みつけ、かたく唇を噛みしめて止まない雨の中を歩き出した。
 どうしようもなく──ディーノにしてやられた気分だった。

「冷たい雨に頬を打たれて」
ちなみにヒバリさんのコートの色は赤。なんと黒じゃないのです。