つい先日、ヒバリの唯一と言っていい弱点がディーノにバレた。
ディーノの愛車で移動する途中に、長い桜並木のある道を通った時のこと。ヒバリは迂闊にも窓を全開にして、外を流れる風景を眺めていた。花の香りに気づかなかったわけではない。100メートルくらいの道路の両側に植えられた桜の木は一本残らず見事に満開で、気づいた時にはすでに避けようがなかったのだ。
自分の愚かさを呪いながら、ヒバリはフェラーリのシートにしがみつくようにして気を失った。
ディーノの腕に抱かれたまま目が覚めたのは数分後だった。いつもであれば容赦なく罵声を浴びせるところだが、あまりの苦しさにそれどころではなかった。それが逆にディーノを不安にさせたようなのだ。
「あの香りにしろ姿にしろ、とにかく桜の花の気配がするだけで体が痺れて身動きが取れなくなる。生まれつきの体質じゃない……あとづけの、後天性のものだよ。いまいましいよね」
それは以前に胡散臭い保険医と関わったさいに、あり得ない病原菌に感染させられたからだった。隠している訳ではないので、ヒバリはそのときの事情を正直にディーノに話した。
その名も『サクラクラ病』。ふざけた病名だろう?
「それでおまえは桜がダメになったのか。かわいそうに。日本人はみんな桜が好きなんだろ?」
「別に、好きでも嫌いでもない。……油断して変態医者に妙な病原菌をもらったコトにムカついて、それからあの花には近づかなくなっただけ。でも、そうだな……忘れてたけど、あいつには一度たっぷりお礼をしなきゃね。死にたくなるくらいに」
「恭弥って……怖いコト考えてると、てきめん顔が輝くよなー……」
浅い呼吸を繰り返しながらそんなことを言うものだから、ディーノは苦笑するしかないようだった。
イタリア人のディーノは、日本の桜というものに昔から強い憧れを抱いていたのだという。
「じゃあそのサクラクラ病の中和剤でもない限り、恭弥と花見は一生無理ってことだろ。体の具合が悪くなるんじゃ困る。傍を通るだけで辛いんだもんな」
「花見がしたければひとりで──じゃなく、仲良しの部下がいるだろ。あいつらと行けばいい。誰と見ても桜の花の美しさに変わりはないよ」
「実は今、あいつらがツナたちに教わって、その先の公園で花見の席をセッティングしてくれてんだ。チャンスだからうまいこと言っておまえを連れ出せって。恭弥に振られたからって、じゃあ代わりにおまえたちと騒ぐかってわけにはいかねーだろ」
「人聞きの悪いことを言わないでくれる。振ってない。不可抗力だよ」
ヒバリが思わず言い返す。顔がムッとしていたのだろうか。ディーノは少し意外そうに、
「恭弥、もしかしてけっこう、桜、好き?」
真顔でそんなことを問われて、言われた本人のほうがあらためて考え込んでしまった。
以前は花が咲いていようが一晩限りで散ろうが、気にしたことはなかった。あの花の存在を強く意識したのは妙な病気にかかってからだ。
確かに、ディーノの言う通り自分は桜の花に惹かれているかもしれない。
「わからないな。でも、気にはなる」
それにあの、儚げな淡い色の花びらはきれいだ。美しいと感じる。口に含んで噛み砕いたらどんな味がするだろう。
ふと、くだらない考えが頭に浮かんだ。
「もしかしたらそれが抗体になって、サクラクラ病が治るかも」
「なるほどな……よし、待ってろ」
ディーノはそう言ってフェラーリを路肩に止めると、車を飛び降りて今来た道を逆の方向に走っていく。しばらく待っていると、息を切らせて戻ってきた。
「ほら。あ、っと、……大丈夫か?」
一瞬躊躇うように強く握り込んでから、手のひらを開いて上に向け、ヒバリのほうへゆっくりと差し出す。そこには一枚の桜の花びらが乗せられていた。
「近くでは見られなくても、花びら一枚くらいなら平気かと思って、持ってきた。試しに食べてみるか?」
ヒバリは驚いて、車の窓から身を乗り出した。自分よりもはるかに年上のディーノがあんな戯言を本気にするとは思っていなかったのだ。
違う。そんなのはどうでもいいことだ。それよりも、もっと他に心に引っかかることがある。
「まさか、……あそこまで走って戻ったの? 車があるのに、わざわざ?」
ディーノは答えない。当然だ。ディーノが桜に弱い自分を乗せたまま、車であの場所に戻るとは思えない。
「きれいだろ。花びらを食べたからって病気が治るとは思えねーが、恭弥に見せたかった。でも食ってみたらめちゃくちゃうまかったりしてな」
「それどころか一発であの世行き、かもね」
「じょ、冗談きついぜ、恭弥」
「僕が冗談を言うような人間に見える?」
「……だよなー……」
ヒバリは頬に笑みを浮かべて、目の前に広げられた手のひらの上のピンク色の花びらと、途方に暮れるディーノの顔とを交互に見つめた。
「──恭弥? どうした?」
「なんでもない」
ディーノが戻ってきた道の先が透き通るような薄紅色に染まっている。この花びらはかつてあの中の一部だった。なんてきれいな花だろうか。
あの桜並木のある場所までずいぶん離れてしまっていたというのに、脇目も振らずに飛んでいった。なんてお人好しな人だろう。マフィアのボスともあろう男が。
「食べさせてよ」
「え?」
「あなたが中和してから食べさせてくれたら、平気かもしれない」
ヒバリの口から出たのは、自分でも思いがけない言葉だった。キスしてと自分から言っているようなものだ。ディーノが固まってしまったのも無理はない。
「オレが……?」
「早く。花びらが風で飛んでしまうよ」
わかった、とディーノはまじめくさった顔で肯くと、口を開けて小さな花びらを舌の上に乗せた。それを見届けてから、ヒバリがゆっくり目を閉じる。すぐにディーノの唇がヒバリの唇を深く覆った。軽く吸いながら、舌でくすぐるようにしてヒバリの口を開かせる。熱い舌先がもぐり込んできた。
期待していたほどには、花の香りはしなかった。花びらの感触も感じない。やはり寸前でディーノが躊躇したのかも知れない。彼はひどく心配性だから。
けれども、桜に酔った時のように頭の中がくらりとする。良い気分だった。
「桜の花びら舞う中で」
シャマルがくれた解毒薬が一時的な効果でありますように。(2006.4.6 日記ログより再掲載)