狼(D)×きつね(H) 元ネタはコチラ→深い森
冬の森というのは、本当に何もないのだ。
生まれて初めて外の世界で冬を過ごす幼いきつねは、まず冬の寒さに驚き、同時に見たこともない無彩色の景色に驚いた。
目から上だけを巣穴からのぞかせて、そっと表を窺う。冬毛を纏う耳が風に触れてひんやりと痛んだ。空気が凍てついている。昨夜から続いている吹雪は勢いこそゆるんでいるけれど、いつ止むのか見当もつかない。横殴りの雪に頬をなぶられて顔が凍りそうだ。
巣穴からかろうじて見えるのは、枝を縮めて息を潜めるように越冬する森の木々と、触ると震え上がるほど冷たくて固い地面だけ。自分たち以外の生命体が一度に消滅してしまったかのような。雪というものに覆われた森には色という色がなく、雪の届かない背の高い樹木の先に枯れない緑をわずかに残しているだけだった。あとは白、白、白。どこまでも平らな大地には足跡すら見えない。
森に棲む動物たちは、餌が極端に少なくなる冬に備えて餌をたくさん食べて栄養を蓄え、暖かい季節になるまでのただ眠って時を過ごすのだという。それを冬眠というのだそうだ。オオカミがそう教えてくれた。
きつねは前足をそっと巣穴の外へと伸ばしてみた。指をまっすぐ伸ばして爪で地面を掻く。途端に爪先から肘までにぴりりと痺れが走る。びっくりして慌てて手を引っ込めると、後ろできつねの様子を眺めていたらしいオオカミが声を立てずに笑った。
触るとひんやりするのは氷。さくさくの雪がさらに冷えて固まると、こうなるのだそうだ。
「誰もいない」
ぽつりと言って、きつねが穴の縁に引っかけていた手をぱっと離した。下で待ちかまえていたオオカミが、万歳の格好で落ちてくるきつねを受け止める。体重の軽いきつねは、オオカミが広げた腕の囲いの中にぽすんと収まった。
「降りる時はオレを呼べって言ったろ。そんなにケガしてーのか」
「ケガなんてしないよ。ひとりで降りられる」
「わーった。じゃあ今度からは助けねーからな」
オオカミが「うそつけ」という顔でぐるぐる唸った。
怒られるのは慣れっこのきつねは気にしない。たとえどんなに腹を立てていても、オオカミはきつねがケガをしないように始終見張っている。口では冷たいことを言っていても、きつねが危ないと知ればすっ飛んでくるに決まっている。
「外は雪と木しかないね。しーんとしてる」
「そりゃそうだ。ここらの動物はみんな冬眠してるからな。この時期にごそごそ起き出して外をうろついてるバカは、オレとお前くらいだぜ」
「どうして」
「決まってるだろ。冬の森には、餌になる植物や果物が極端に少なくなるからだ。もちろん餌になる動物もな。そうでなくてもみんな飢えてるんだ。こんな時に下手に歩き回ったら、自分より強い他の動物にとっつかまって食われるのがオチだぜ。誰もそんな危険なことはしねーよ」
きつねをそっと地面に降ろすと、オオカミはすたすたと巣穴の奥に戻って、枯れ草で作った寝床を整え始めた。こっちへ来てお前も手伝え、とぶつくさ言っている。
「お前はオレに拾われて幸運だったんだぜ。そうでなきゃお前なんかとっくにその氷の下敷きになって、生きたまま冷凍になってるとこだ。そんで雪が溶けたら、一番にお前を見つけた誰かの栄養になる。それが森の掟ってやつだからな」
「ふーん」
「ふーんかよ。ホントお前は暢気でいいよな……」
オオカミがうんざりと天井を仰いだ。お前にはお手上げだと言わんばかりだ。
「本当にわからないからね。あなたのいう森の動物たちのことも、僕は知らないもの」
「じゃあこれからここで、森での生き方を少しずつ覚えればいい。知ってて損にはならねーから」
「しょうがないね。どっちにしても僕はしばらくここにいなくちゃいけないんでしょ」
きつねがそう言うと、ホントお前はかわいげのねーガキだな、とオオカミはげらげら笑った。オオカミは笑う時に大きな金色のしっぽをぱたぱたと振る癖がある。それを見るたび、僕にはあんな子供っぽい癖はないのにな、ときつねはちょっぴり優越感を覚えるのだった。
子ぎつねの世間知らずぶりはすさまじく、オオカミに何度頭を抱えさせたか知れない。けれどもきつねが何か突拍子もないことを口走るたびに、オオカミは時に呆れながら、時におとなぶってきつねをからかいながら、根気よく森での暮らし方について説明してくれた。このオオカミに拾われたお陰か、きつねにとって今まで縁のなかった森の暮らし──寒さが厳しい冬はオオカミが言うよりずっと快適で、決しておそろしいものではなかった。
そもそも子ぎつねは、季節というものに実感がない。
きつねが生まれ育った(と信じている)場所には冬というものがなく──冬に限らず春も夏も秋も、きつねは生まれてからずいぶん長いこと、四季が移りゆくさまをその目で見たことも、実際にそれを肌で感じたこともなかった。
以前に棲んでいた場所で、最初の記憶にあるのは灰色の壁。きつねと同じような、あるいは全く違う姿をした四つ足の動物たちがひとつの場所で頭と頭を擦り合わせるようにひしめいていて、けれどもそこにいる誰もが互いの存在など目に入らないように、ただぼんやりと時を過ごしていた。そこは暗く暖かく常に生きものと食べものの匂いに満ちていて、時間の流れも、季節の移り変わりもないような場所だった。
ある日二本足の動物が数人やってきて、数えきれないほどの動物たちの群れの中から数匹を選んでつかみ出した。その選び抜かれた何匹かの中から、さらにきつねだけが一人、灰色の壁のむこうへ連れ出された。「ここから出て、おまえは自由になるんだな。かわいそうに」新入りの子供の隣で何日も眠ったままだった老狐が突然目を開け、扉の外へと消えていくきつねをじっと目で追って言った。気の毒そうに自分を見つめるしわくちゃの顔が、今もきつねの脳裏にくっきりと焼きついている。
あの年老いたきつねは寒いからではなく、ただ眠いから寝ていたのだろう。目を開けている時のほうが起きている時よりうんと少なく、彼がまだ生きているのかも、ついにそうではなくなったのかもわからない時があった。
あの場所での眠りはオオカミのいう冬眠とはどこかが違った。彼らは厳しい冬を乗り越え暖かい春を迎えるために、──生き抜くための手段として眠っていたのではない。ものを知らないきつねだったが、それだけは誰に教えられなくてもわかっていた。あそこは誰にとってもただ与えられた餌を食べ、自分の呼吸を途絶えさせないようにするためだけの場所だ。そこに希望はなかった。
「あなたは。冬眠しないの」
「しねえんじゃなくて、できねーんだよ。食わさなきゃすぐに死んじまうよーなガキを一匹飼ってるんだ。おちおち寝ていられるかよ」
「それ、僕のことを言ってるの」
「ああお前のことだ。わかったら、オレが持ってきた食料は何でも文句言わずに食えよ」
寝床の支度を終えたオオカミが、カラカラに乾いた実を子ぎつねの目の前にいくつか放った。冬に入る直前に、最後に取っておいた杏だ。干からびた木の実は新鮮ではないが食料にはなる。先日オオカミがどこからかこの実を取り出してきて、これが巣に残している最後の食料だと言っていたのを思い出した。
鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅ぎ、きつねは抗議の意味を込めてオオカミを斜め下からじろりと睨んだ。
「でもこのかちかちの木の実は嫌いだよ。まずいもの。匂いもないし、噛んでも噛んでも味がしないから、食べてる気がしない」
「っ、て、めーは…なあ……っ」
水分が抜けすぎた木の実は何の味もしないどころか舐めても舐めても柔らかくならないし、咬みちぎるにも大変な労力が要る。食べられたものではなかった。
けれど餌を獲るのがほぼ不可能になるこの時期に、まともな食べものが手に入るだけ恵まれている。オオカミは口を酸っぱくしてそう言うけれど、きつねにはそれがよくわからない。
「お前が冬でも飢えなかったのは、人間の屋敷で飼われてたからだ。あいつらは寒い季節にじゅうぶんな食料を蓄える方法を知ってるからな。だがオレたちは違う。この森では、自分で食料を手に入れられない奴は生きられねえ。目の前にあるものを食わなけりゃ死んじまうし、餌を恵んでくれる親切なヤツなんかそういない。誰も助けてなんかくれねーんだぜ」
つまり贅沢を言いたければ、自分の餌は自分で獲ってこい。そういうことだろうか。生きて命を繋ぐために餌を獲る。次の季節が巡るまでひたすら眠る。傷を癒すために傷口を舐める。この森では、すべての行動にはそうするだけの意味があるのだ。そしてオオカミのように大きく強くなければ、ここでは一日と生きてはいかれない。そんな大変なところなのに、オオカミはこの森での暮らしを愉しんでいるように見える。それが不思議でならない。
「ふーん……」
きつねが難しい顔で黙り込むあいだ、オオカミはきつねが放り出した木の実を口に入れてもぐもぐやっていた。
しばらく口の中で温めたものを、地面に敷いたてのひら状の葉の上に吐き出す。
「ほら食えよ。ちょっとは食べやすくなってっから」
きつねは言われた通り一粒拾って口に入れ、少しずつ噛んでみた。かさかさしていた木の実はオオカミの唾液で湿って、ほんの少しだが柔らかくなっている。飲み込む時もそれほどつらくはなかった。もちろん何の味もしない。目ではしつこく「まずい」と訴えてみたが、少なくとも口には出さなかった。
「とりあえずそれ食って待ってろ。ちょっと出てくる」
オオカミがそう言って立ち上がった。きつねは口の中に残った実を慌てて飲み込んで尋ねた。
「どこへ行くの」
「外だ。秘密の餌場に肉を隠してあるから取ってくる。大人しくしてたら、ご褒美に少しわけてやる。とっておきのだから美味いぜ」
「僕も行くよ」
「ダメだ」
「どうして」
「餌場に行くまでに急斜面があるんだよ。お前は絶対降りられねえような、すげーところだからな。危なくて連れて行けるか」
「でも一緒に行く」
「絶対、ダメだ。連れていかねー」
あきらめずに食い下がってみたが、オオカミはどうしてもきつねの願いを聞き入れなかった。
「どうしてあなたにできることが、僕にできないの」
「お前が子供だからだろ」
「どうしてあなたはこの森に棲んでるの」
「昔……お前と同じくらいの時に仲間とはぐれてこの森に迷い込んだんだ。それからずっとここにいる」
「どうしてあなたは、大事な餌を僕にくれるの」
オオカミが足を止めて振り返り、きつねをじっと見つめた。目が笑っている。
「どうしてだろーな。それは自分で考えろよ。春になるまで時間はたっぷりあるから」
オオカミはきつねの返事を待たずにふたたび走り出した。見事な跳躍で穴の上縁に飛び移り、大きな体を持て余すことなくするりと穴をくぐる。あっという間だった。追いかけようとしたが間に合わない。思いきり助走をつけて入り口の縁に飛びついて、つるつる滑りながらきつねがようやく穴の外に顔を出した時には、オオカミの姿はどこにも見えなかった。オオカミの残した足跡は巣穴を離れるにつれ、まばらな森の木々の間に吸い込まれるように消えていく。
外に出たいな、ときつねは思った。あの人と同じように自由に森を駆け回れたらどんなに気分がいいだろう。
きつねは穴の縁にしがみついて上を見上げた。森の木々のさらに上空に明るい太陽が出ていた。ひさしぶりの快晴だった。雪は止んでいた。吹雪が止んだら空は晴れるから、とオオカミが言っていたのは本当だった。きつねが知らないことを、あのオオカミは何でも知っている。
早く帰ってくればいいのに。一人で待つのは苦手だ。
きつねはくんくんと鼻を動かしてみた。雪のにおいもオオカミのにおいもしなかった。知らない世界にたった一人で取り残された気分だった。
「あっ」
油断したら手が滑って、きつねはそのまま巣穴の緩い斜面をずるずる滑り落ちた。地面に尻餅をつく。
「いたっ……」
くらくらするのを我慢して起き上がる。
衝撃で穴のまわりの雪が一緒に落ちて、きつねの周囲に小さな雪山ができていた。
「いつもならディーノが助けてくれるのに……」
口の中でぶつぶつ言っても返事はない。きつねのわがままを笑いながら聞いてくれるひとはいないのだ。
ひとりはいやだ。早く帰ってきてよ。待つのに飽きる前にあなたがここへ帰ってきたら、固くてまずい木の実でも文句を言わずに食べるから。
きつねは毛皮についた雪を手で払いのけ、偶然にできた氷山の頂上をすくって口に入れた。真新しい冬の象徴はきーんと冷たくて、ぎゅっと瞑った目の裏が痛くなって、我慢したのに間に合わなくて少し涙が出た。
こぎつね成長物語(…)第二弾。なんかだんだん違う路線になってきたような…。
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