気まぐれな君

 学校から直接この部屋に来てからというもの、恭弥はずっと本を読んでばかりいる。片足を組んだ同じ姿勢でゆったりと背もたれに身体を預け、リラックスした様子で読書にふけっている。ほとんどは難しい顔をしているけれど、時折思い出したように頬をゆるめたりするところを見ると、読んでいるのは簡単なペーパーバックのようだった。
 会話はなく、のどかな時間だけがゆっくりゆっくり過ぎていく。寝室のドアは開いていて、それはオレがわざとそうしておいたのだが、恭弥はそちらに見向きもしない。ああこれは、今日はする気がないんだろうなと、オレは諦めの境地で少し離れた窓際のテーブルに置いたパソコンの画面を睨んでいる。早く見ろとうるさいメールボックスを開いて、案の定の大惨事にうんざりする。仕事先からのメールが12件。上から順に開いて目を通して、衝動的に全部まとめてゴミ箱に放り込みたくなった。どれも急ぎの返信を要するモノばかりだ。なんてこった。
「恭弥」
 どんよりした気分のまま呼ぶと、いちおうは声のするほうに視線をくれる。返事はない。目が合うと『なに』という目で睨まれて、なんとなく、怠けていることを叱られているような気分に陥った。
「あーべつに、呼んだだけ。すまん、邪魔した」
「仕事?」
 めずらしく目の前でパソコンを開いていることを言っているのか。そう、仕事は山ほど残ってる。こうして話しているあいだにもまたも嫌味な合成音が鳴り、液晶画面の中央でダイアログボックスが点滅して、もう一件、新着メッセージの到着を告げた。やらなきゃいけないことをいろいろ抱えたままこっちに飛んできて、あわよくば会ったその日に日頃の欲求不満を解消させてもらえるかも、なんて甘っちょろいことを考えてた男への報いだ。
「忙しいの」
 ふたたび本に目を落とし、興味なさげな口調で恭弥が尋ねた。
「あーまァ、そこそこ忙しいな。今、中東の石油プラントの開発に関わってるんだ。泥水を被ってない資金を調達するために必要な拠点だから手が抜けなくて、最近はこいつにかかりっきりだ」
「かたいね」
「たまには」
 なんか、どっと疲れてきた。
 オレははるばる日本まで来て何をやってるんだろ?
 世界中でいちばん好きなひとが目の前にいて、そこで息をして、わずかでもこちらに視線を向けているっていうのに。
 ふと、今この場の会話とはまったく関係ないことが頭に浮かんだ。
「なあ、腹空かないか? ルームサービスでも頼もうか……」
 ぱたりと、恭弥が手に持っていた本を膝の上で閉じた。
「お腹空いてるの?」
「そうでもねーけど、なんか、別のことがしたくなってきたっつうか」
「そんなコトしてるヒマ、あるの」
 正直に告白しようか。明日の朝までに決済しなきゃならない案件が5つほど、あるんだ。
「ここでこのまま1時間がんばっても、はかどらないように思えてきた。気分転換しなきゃやってらんねえ」
 ああもう、そんなあからさまに呆れた顔されてもな。お前がそこにいる状態で仕事に集中するなんて、無理。無理すぎる。やってらんねえ。
「あなたはときどき、子供みたいだね」
 恭弥が本をソファの上に置いて、すっと立ち上がる。顔は笑っている。恭弥は歩き出した。まっすぐ前を向いたまま俺の前を素通りして、開け放たれた寝室の扉の前に立った。ゆっくりと振り返る。
「ねえ」
 きっちり締めているネクタイを片手でゆるめながら、恭弥が後ろ向きに一歩後ずさる。もう一歩、さらにもう一歩。こちらの気を逸らさないように、ときどきうっすら笑いかけながら。やがて膝の裏がベッドの縁に当たると、細い足をぽんと前に投げ出して、清潔なシーツの上に仰向けに寝転がった。
 恭弥の身体は一瞬で沈んでいき、澄んだ声だけがまっすぐに届いた。
「気分転換のための1時間、無駄に過ごさない方法って、知ってる?」
 オレは反射的に椅子から飛び上がった。
 ついさっきまではそんな気はさらさらありませんて顔で、物欲しそうに見つめるオレを頭から無視してくれたくせに。だからといってそっちに行ってもいいのか、なんてうっかり訊いたら、思いがけなく突然現れた天国への扉は泡と消える。気まぐれなひとは得てして気難しいものなのだ。
 パソコンの電源を落とす時間すら惜しんで、オレは飛ぶように机の前を離れた。気分屋のひとの気が変わらないうちに、早くあそこまでたどり着かなきゃならないから。
 やっぱりやめた、遅いよという不機嫌な声は聞こえてこない。恭弥が勝手に決めたタイムリミットまで何秒ある?
 恭弥とオレを隔てる距離は、あとほんの数メートル。
 天国の入り口まで、あと数歩。