崩れる鉄壁

 ホテルの窓のすぐ真下で、電話をしている少年がいる。
 日が暮れ始めた街頭に立ち、電波だけでつながっている相手の声に熱心に耳を傾けている。先日ファミリーに加わったばかりという少年で、複雑な生い立ちのために感情に乏しく無愛想だという話だったが、今の様子を見ていると心配ないなと、安心した。背中を丸めて話す様子をしばらく見ていて、やはり間違いないと確信を深めた。あの電話の相手はおそらく彼の大事なひとだ。注意して見ていればわかる。あれは部活の帰りだった。すっかり遅くなって、忘れ物を取りに自分のクラスに戻る途中に、とある教室の前を通りかかった。足を止めたのはこんな時間に校舎内に残っている生徒が自分以外にいるとは思ってなくて驚いたのと、ふと隙間からのぞいた室内にどう見ても一人の姿しか見えなくて不思議に思ったからだった。室内に一人の姿しかない理由はすぐに知れた。そのひとは教室の入り口に背を向け、携帯電話を握りしめて耳に当てていた。逆光で、席は入り口に近かったが最初は誰なのか本当にわからなかった。薄暗い教室で電気も点けないで、ぼそぼそと、声を低めて話してた。ほとんど会話らしい会話はなく、うん、とか、わかったとか、相槌みたいな返事しか返してないのは、きれぎれに断片だけ聞こえてくる内容でなんとなくわかる。でも、とそのとき思った。このひとは今、遠く離れた好きなヤツとつながってるんだって。その距離はどれくらいなのかは想像するしかないが、とにかく、携帯電話が発する電波だけが頼りなんだなって。手の中にすっぽり収まるくらいの小さな機械を両手でていねいに包んで、相手の一言ずつにさりげなくどこか冷たく、なのにひとつひとつ肯きながら答えているひとを見ていると、そこから一歩も動けなくなってしまった。あんな頼りない、というかあふれる気持ちが目に見えるような、かわいい仕草をするひとだとは思いもよらなかったせいもある。あの鋭いひとがこちらの気配に気づかないほどなのだ。そのとき急にでかいサイレンが鳴った。下校を促す無粋な騒音。やめろよ。邪魔してやんなって。あんなにうれしそうにしてるのに、かわいそうだろ。そう思ったのとほぼ同時に、手に持っていたスポーツバッグが床にすべり落ち、マイバットがごろんごろんと廊下を転がっていった。そのひとは振り返った。長い前髪の奥からのぞく黒い瞳が見開いていた。そのときだ。なぜだかはわからない。とっさに言ってしまったのだ。
「その電話の相手って、ディーノさん?」
 窓の下で熱心に仕事をさぼっている新入りの頭上めがけて、部屋に備えてあったリンゴを落とす。ぼかんと当たり、ぎょっとしたようにこちらを見上げて、おそらく誰にでも見せるわけじゃないだろう慌てた面を真っ赤に染めた少年に手を振った。あのときあのひとがうっかり見せたのと同じ顔だった。「よお。その電話の相手って、彼女か?」少し離れた場所で警備していた古顔が血相を変えて飛んできて、新入りを怒鳴りつけている。
「あーべつに、責めてるわけじゃねえから怒ってやるなよ。ただもし、その電話の相手が大事なひとだったら、おまえ」
 大切なその手を離しさえしなければ、絶対いい男になるだろうな。実は似たひとを知ってるんだ。そのひとも、昔はいつ見てもいかめしい顔で周囲をむだにビビらせるようなきっつい性格してたなあ。今はどっかの有名なマフィアのボスと一緒に、シチリアで一年のほとんどをバカンスして過ごしてる。あれから時間が経って、明日そっちに着くからって電話してくるくらいには丸くなったぜ。年一回の招集かかってもうすぐここに着くはずだから、お前もいずれは顔を合わせるさ。オレと同じで幹部だし一見怖そうに見えるけど、あれで昔からけっこうかわいいところ、あったんだぜ?