君と僕との適切な距離

 夜も更けた頃、かわいいけれど憎たらしい弟子が突然ホテルの部屋に現れた。
 最初は驚いたディーノだったが、リングの話をくわしく聞かせろというから喜んで彼を迎え入れたのは、今から30分ほど前のこと。それからというもの、ディーノは思いがけなく自分を試される羽目に陥った。つまり。

 ヒバリをどう扱っていいかわからない。
 リングの話を聞くためだけに、家に戻らず自分に会いに来た理由がわからない。
 そんなことをぐるぐる考え込んでいる自分が、いちばんわからない。

 考えたら自分たちはこの数日間、ずっと寝食を共にしていたのだ。夜中に特訓したこともあったし、早朝にヒバリが寝ているところを叩き起こしに行ったことだってある。相手は子供だが男だから最初から気を遣うつもりなどなかったし、戦闘にはマニアックでも他のことには意外に無頓着なヒバリの性格も幸いして、実際に気を遣う必要もなかった。
(だから、恭弥がこんな時間にオレの部屋に来てるからって……べつに緊張する必要は)
 ──ないはずなのだが。
 ヒバリがここに現れてからというもの、ディーノは部屋の中を──ソファと窓際と寝室の戸の前を順番に辿る永久運動をくり返している。
 ソファでくつろぐ気分にはならないし、窓から見えるのはつまらない夜景ばかりだし、寝室の前はなんとなくいちばんやばい気がしたので近寄れない。自分の部屋で居場所を見つけられずに徘徊するなんて間抜けもいいところだ。
「あなた──動物園のクマみたいだよ」
 とは、さっきヒバリに言われた台詞だ。ヒバリの真意は読めなかったが、落ち着きのないこちらの様子を揶揄されているのは確かだった。
 当のヒバリはディーノが勧めたソファの中央に細い身体を預けて、腹立たしいほどゆったりとくつろいでいる。
 そうだった。ソファに座るのをためらうのは、ヒバリがそこにいるからだ。
「まずは何から訊きたい? リングの由来からでいいか」
 ソフトドリンクを差し出しながら言うと、ヒバリは少しためらってから、ディーノに向けていた視線をソファのサイドテーブルへと外した。そこに置けということらしい。
 固いな、と咄嗟に思う。正直、ムッとした。
(近づけたら襲われるとでも思ってんのかよ)
(ていうか、そんなはずねーだろ)
 それこそとっくに寝顔や寝姿まで拝んでいるのだ、襲いたければもっと前にチャンスはあった。そうしなかったのは──。
(そんな気がなかったからに決まってんだろ!)
 なのに、言えない。どうかしている。こんな子供相手に。
 言われた通りにサイドテーブルに飲み物を置くときにちらりと盗み見ると、ヒバリはかたく唇を結んでそっぽを向いていた。
 きれいな横顔だ。仕事柄日本人と会う機会は多いが、ヒバリの持つ中性的な顔立ちと雰囲気はやはり年齢的なものだろう。まだ誰にも明け渡していない大切な部分をどこかに隠し持っている。
「なにを──」
 見ているの。
 突然に、ディーノの意識の中にこわい声がすべり込んだ。もちろんヒバリだ。ハッとして、目を上げると、疑わしげというか、あきらかに非難の色を浮かべた黒い瞳がこちらを見ていた。瞬きをする速度にまで目を奪われる。一回、二回。長いまつげが震えるように上下する。
 もっとよく見ようと、ディーノは思わず一歩前に──。
「来ないで」
 ヒバリがぴしゃりと言い放つ。ディーノがぴたりと足を止める。ぐらりと上体が傾き、慌ててテーブルに手をつくと、釘付けだった黒い目がまた少し大きく映った。
 ディーノは無意識に自分とヒバリとの距離を目で測った。ソファの中央より向こう側。あいだにテーブル。距離にすれば半歩、いや一歩はじゅうぶんにある。
 手を伸ばそうとしても、ここからでは届かない。
「あぶないよ、コップ。傾いてる──こぼれる」
「あ、ああ……そうだな。やばかった」
(助かった……)
 心底そう感じるのは、ヒバリが急に身を固くしたのは、こぼれかけたグラスの中身のせいではないように思う。
 ディーノはコトン、と音を立て、手に持っていたグラスをテーブルの上に置いた。知らずにため息がこぼれる。ヒバリがほっとしたようにソファに身を投げ出した。さっきまでの警戒感は影を潜め、どこか気の抜けた表情を浮かべている。こんな子供らしい顔もするのだ。
「そうだな。じゃあまず、大空のリングの話からしようか……」
 ディーノはそっと息を吐いて、慎重に一歩後ずさった。