甘酸っぱいセンチメンタル

 彼と最後に会ったのは二年前の冬。
 決定事項ではあるものの長らく棚上げにされていたボンゴレファミリー10代目就任式典の会場で派手な花火が上がり、多数の仲間の命が奪われた血の降誕祭──。忘れもしない、それから二ヶ月が過ぎようとしていた、庭一面がまっ白な雪に覆われた寒い日だった。

 新しいボスを狙った爆破事件は、同盟のリーダーであるボンゴレと次席であるキャバッローネの関係に微妙ならざる変化をもたらした。個人的には信頼しあい、人となりもよく知る10代目同士ではあったが、両者ともに大組織であるがゆえに様々な陰謀と思惑が交錯する事態をうまく回避できなかった。上位のファミリー同士の全面衝突を避けるためには、それとなく互いの腹をさぐり合い、牽制しつつ距離を置いて何とかバランスを保つしかなかった。
 その頃ヒバリを含む指輪の守護者たちはすでに各自にふさわしい仕事を与えられ、組織のために多くを費やす日々を送っていた。
 獄寺は主として故郷である南イタリア全域を統括する任務を、山本は日本を拠点にしてアジア一帯の小組織の掌握と有望な人材の確保を任され、それぞれに忙しく世界各国を飛び回っていた。笹川はアフリカにある施設で実戦部隊の訓練に明け暮れていた。ランボは元々別のファミリーから選ばれた者であるから、特別な場合を除いてボンゴレのために動くことはない。霧のリングの持ち主である六道骸はあのような性格だから、ボスからの勅命でもなければ細かい仕事には一切関わらないことはわかりきっていて、いざというとき以外は所在すら明確ではなかった。だから残るヒバリが通常の組織の裏の仕事──要人の暗殺や敵対組織の壊滅という任務を負うことが多くなるのは必然だったと言える。
 当時キャバッローネとの目に見えない対立は日を追って深刻化しつつあり、誰かがあの巨大組織の動向に常に目を光らせている必要があった。彼らが少しでもこちらに牙を剥くようなことがあればすぐさま組織に報告し、場合によっては先頭に立ってつぶしにかからなければならなかった。雲のリングを与えられた雲雀恭弥は、自分からその厄介で危険な仕事を買って出た。対組織の鎮圧行動や内部操作は慣れた仕事でもあったし、ヒバリは以前からディーノと師弟の枠を超えた個人的に密接な関係にあり、キャバッローネ本部に自由に出入りすることができたからだ。
 沢田は当初、ヒバリの申し出を頑として拒否した。あなたにスパイのような真似はさせられない、あなたと彼とのことは、組織とは切り離して考えるべきだというのだ。そうでないとあなたが苦しくなるでしょう? 僕はあなたが、自分で言うほど冷酷な人ではないと思ってますから。沢田はヒバリとは別の者を任務に充てようとした。
 ヒバリはそれを許さなかった。親切で友人思いの忠告を笑って無視した。自分よりも適任の者がいるとは思えなかったこともあるし、沢田の甘さを諫める気持ちが働いたせいもある。そんな甘っちょろいことを言っていてマフィアのトップが務まると思っているのか、とヒバリは沢田に食い下がった。君の甘さの代償は僕が払ってあげる。感謝しなよ。そう言って、ヒバリは自らディーノとの関係を利用した。それほど罪悪感は感じなかった。
 ヒバリはボンゴレに対するキャバッローネの反乱が巧妙に仕組まれた情報操作であったことを探り出し、その火種を自ら消すことで事態は好転した。ふたつの組織間の関係は修復され、以前よりも強い信頼で結ばれることになった。
 それとは逆に──事件が解決したその日から、ヒバリとディーノは個人の用件でふたりだけで会うことをしなくなった。ディーノがそれを望んだわけではない、ヒバリがディーノの呼び出しに一切応じなくなったのだった。電話番号を変え、住まいを換え、ディーノがボンゴレの本拠地に現れると知れば即座に外国へ飛んだ。自分の所在をディーノに知らせないよう周囲に口止めをして、キャバッローネと連絡を取る必要が生じたときは必ず第三者を介するという徹底ぶりだった。
 ヒバリがディーノを避け続けているあいだ、ディーノはただ手をこまねいてそれを眺めていたわけではない。一方的に関係を切られたことを不審に思い何度となくヒバリと連絡を取ろうとしたし、行方をくらませても必ず探し出した。とにかく会って話がしたいと、人づてではあったが根気よく説得を続けた。
 沢田の個人宅に身を寄せていることがばれて、押し掛けてこられたこともある。
 そのときヒバリはディーノとドア越しに話をした。今後は会う気がないことをディーノにはっきり告げた──ふたりが直接言葉を交わしたのは、あの日が最後だ。
 以来ディーノは無理にヒバリと会うことをやめ、その代わりにありとあらゆる手段を講じてヒバリの所在を常に追い、元気でいることを喜んでいると沢田を通してくり返し伝え、ときにはマスコミまで使って派手なパフォーマンスをしては、ヒバリに自分の無事を知らせてくれるようになった。
 彼がヒバリを心から思ってくれていることは、会わなくなって二年経った今でも少しも変わっていない。自分たちしか知らない記念日や誕生日、クリスマスや聖バレンタインの日といったお決まりのイベントごとに、豪華な品物と季節の花束をそのときどきの住処に必ず届けてくれることでそれはわかる。
 ディーノからの贈り物が届くとヒバリはすぐにそこを引き払い、別の住所に移る。それからまたしばらく音信不通の日々が続く。そのあいだ、折に触れて沢田や他の幹部たちから跳ね馬の華やかな活躍ぶりを聞かされ、暦の上で次の記念日が巡ると、新しい住まいにまた彼から贈り物が届けられる。この二年間はずっとそういうイタチごっこの繰り返しだった。

『ああ、ヒバリ! いいところに来たわ。あなたに届け物があるのよ』
 帰宅を知らせておこうとヒバリが階下の部屋を覗くと、ヒバリの母親よりも少し年が上に見える初老の大家は、今ちょうどあなたの部屋に行こうと思っていたのよ、と明るい声でヒバリを呼び止めた。
『すごく背が高くてモデルみたいな男の人が来てね、これを、あなたにって』
 両手に手製のパイを乗せた皿と、大きな届け物を抱えてよろよろとドアに向かい、それらを一度にヒバリに手渡そうとする。受け取ったヒバリの両腕もいっぱいになり、ヒバリが持ち帰った旅行鞄は大家の部屋に置き去りにされることになった。あとで引き取りに来るからと言うと、洗濯物があるならついでに預かっておくと言ってくれたが、それは丁重に断った。トランクの中には一般人には無関係の物騒なもの──銃や押収した危険な薬物などは一切入っていないから、勝手に中身を開けられても支障はないのだが。
 ヒバリがここに住み始めてからまだ半年経っていないが、この女性の親切にはずいぶん助けてもらっている。越してきた最初の晩にディナーに誘われ、たまたま気が向いて誘いに応じて以来、独身者のひとり住まいの不便さをほとんど感じなくてすむくらいに、何かと世話を焼いてもらっていた。以前までの暮らしではありえなかったことだ。
 ある程度以上の地位にあるマフィアの幹部が一般社会で暮らすさいには、うかつに他人と関わってはならない。それは危険度から言っても心情的にも、結果的に周囲の人間を傷つけずにすませるための鉄則である。といってもヒバリは元から人付き合いが得意というわけではないし、他人と距離を置くことは苦にならない。むしろ好都合だった。
 そういう意味では、ヒバリが新しい引っ越し先にこの部屋を選んだのは失敗だった。
 ほぼ定期的に住居を移る時期にちょうど仕事が重なってしまい、ほとんど時間をかけられずに急遽決めた部屋だったから、大家の素性や人物像を調べるヒマがなかったのだ。この女主人がこんなに親切で人懐っこい性格だと知っていたら、まずここは選ばなかっただろう。ヒバリにとっては家など屋根があって床があって最小限の生活道具があって、雨風をしのげればそれでよかった。明日か明後日には出ていかなければならないことを残念に思うような部屋に住みたくはない。
 ヒバリがありがとう、と言って笑いかけると、大家は白髪の混じり始めた髪を揺らして微笑み返してくれた。心優しいひとは使用済みの衣類の詰まったトランクと大事な預かりものを無事に交換できて、おおむね満足したようだった。母親という人種は皆こういう感じなのだろうかと、ふと思う。日本にいるヒバリの母も洗濯物が大好きだった。
『あのひと、お名前はなんて言うのかしら? 本当にすばらしくハンサムなひとよねえ。ヒバリのお友達?』
 ヒバリが暇を申し出るまで、不意の訪問客の話題は尽きなかった。ディーノはここでも見た目は華やかだが気取りがなく、誰にでも人当たりがよく、初対面の人間をすぐに虜にしてしまう不思議な魅力を遺憾なく発揮したようだった。
 僕は部屋に戻るから、あとで、と簡単な別れを告げて階段を上がりかけるさいに、大家は軽く首を傾げながらこんなことを言っていた。
『あのひとのお顔ねえ、以前にどこかで見かけたことがあるような気がしたの……そんなはずないのに、不思議よねえ』
 そのはずである。彼女は思い出せないだけだった。
 マフィアといえどその仕事の多くはトップビジネスマンと変わりなく、投資や資源開発や関係企業の海外進出に明け暮れている。ディーノの表の顔は財閥キャバッローネの若き当主であり、祖国の経済界を引っ張る中心人物のひとりなのだ。イタリアで暮らしていれば、新聞の経済欄などで見かけることもあるだろう。
 ヒバリは疲れたため息を吐いてカーテンを閉めきった部屋に入り、まっ白なバラの花束と大層なラッピングの品物を居間のテーブルの上にそっと置いた。仕事で一週間ほど留守にするあいだ、大家に頼んで掃除と換気をしてもらうのを忘れていたから、部屋の中の空気はどことなく湿って埃っぽかった。すぐに窓を開けて空気を入れ換えないと、てきめんに喉をやられそうだ。けれども一度椅子に腰を降ろしてしまうと、動くのが億劫になってしまった。今度の任務はハードで、完了までに思っていたよりも時間がかかった。無断で何日も家を空けると大家が心配するからと思い、仕事をすませたその足でとんぼ返りしてきたせいで、体力が回復しきっていないのだ。
 ヒバリは暗い部屋で、テーブルに置いた大きな箱に手を伸ばした。花束を脇に退け、紙箱の上から丁寧に結ばれたリボンを外し、きれいな色の包装紙を取り除いて中身を取り出す。
 箱の中には大小の包みがふたつ重ねて入れられていた。両方取り出し、まずは大きいほうを開けてみる。中はグレイがかったベージュ色が美しいパシュミナのスロウだった。これから冬に向かうから使えというのだろう。ヒバリが風邪を引きやすいことをずっと心配していた彼らしい選択だ。もうひとつの包みはプラチナ製のリングとペンダントのセットだった。指輪の表面には飾りがなく、裏に記念日の日付と、名の知れた貴金属店のネームの刻印がしてある。少しの隙間をあけて「Tu sei cosi` speciale, 恭弥へ」という控えめなメッセージが刻まれており、贈り主の名前はなかった。ペンダントの裏面にも同じ刻印が施されていた。
 いい香りを放つ皿が存在を主張している。大家が持たせてくれたオレンジのパイだ。
 ヒバリがこのパイを好きなことを知っている大家がよく作ってくれるのだが、初めてこれを食べさせてもらったときは、冗談のようだが本気で感動した。これがディーノがよく言っていたいわゆる『ママの味』というものかと納得してしまうほど、不思議に懐かしい味がしたのだ。ヒバリはそれ以来好物になったパイを指でつまんで、濃いオレンジ色の切れ端とめくれた表面の皮をまとめて口に放り込んだ。
 澱んだ空気のせいだろうか。火の通ったオレンジはいつものように甘酸っぱく、パイ皮はよく焼けていて香ばしかったが、一口めでひどい喉の渇きを感じた。水が欲しかったがキッチンまでのわずかな距離が遠くて、席を立つ気にならなかった。ヒバリは飲み物をあきらめて、手の甲でいい加減に口を拭った。しばらく手の中で転がしていた指輪には自分の体温が移っている。しばらく眺めてからはめてみた。指輪は左手の中指にちょうどいいサイズで、大きさのわりに重さはそれほど気にならない。飾り気のないシンプルなデザインもヒバリの好みだ。これなら普段につけるのに邪魔にならなくていい。プレゼント魔を気取るだけあって、ディーノは昔から贈り物の趣味がよいのだ。

 いいえ、彼は違います。友達などではありませんよ。
 思わず彼女に告白してしまいそうになった。
 いいえ、違う、あのひとは友達なんかじゃない。


 今までに一度だけ たったひとり   心から



『そうですね……ひょっとしたら、一度くらいテレビで見かけたことがあるかも知れませんね。彼、テレビ俳優をやっているらしいから』
 別れ際にバカなことを言った。もしも今夜のニュースがイタリア財界やそのバックグラウンドに触れる話題を取り上げたら、すぐにもばれてしまうような、浅はかな嘘。咄嗟の思いつきは大失敗に終わった。これで本当に、朝になるまでに黙ってここを去らなければならなくなった。
 毎回同じことをくり返しているから、出ていくときの手順は慣れたものだ。今夜中に荷物をまとめて、家財道具は適当に処分してくれという手紙を添えて、向こう半年分の家賃程度の金を大家の目につきやすいところに置く。そしてそこに暮らした住人だけが、さよならも言わずに忽然と消える。それですべてが終わりになる。ディーノのように、目指す相手を捜し当てる術を持たないひとの目から逃れることは簡単だった。
 ヒバリは椅子から立ち上がって、家具の少ない小さな部屋を見渡した。ここに来てから唯一購入したアンティークの大鏡はできれば大家に譲りたいが、彼女の部屋に入れるには大きすぎるかもしれない。売れば相当の金になるから、残していっても迷惑にはなるまい。ディーノからもらったばかりの純白の花束と、あたたかいスロウも置いていこう。どちらもとても美しいものだから、女性ならきっと喜んでくれるだろうから。
「──はい? 開いてますよ」
 ヒバリはノックの音に顔を上げた。窓から差し込む日の光はなくなっていて手元は暗く、肉眼では指輪すら見えにくくなっている。
 軋んだ音を立てて扉が開き、隙間から大家の女性が顔をのぞかせた。
「ヒバリ、あなたに電話が入っているんだけど……」
 思いがけない言葉だった。とっさに顔色を隠せなかったのだろうか。大家はためらい、おずおずとした様子で先を続けた。
「というか、たぶんあなたのことだと思うのだけど、名前が」
「名前?」
 つい聞き返しながら、どきりと胸が鳴る。大家が訝しい目でうなずく。
「キョウヤ、……が、いれば取り次いでほしいっていうのよ。キョウヤって、あなたのことよね? 名前が違うのにおかしな話だけど、届け物のこともあるし、昼間の彼に声が少し似ている気がしたの。それにあなた以外に、うちに電話の取り次ぎを頼むひとはいないんじゃないかと思って」
 ヒバリは一瞬、返事に迷った。この部屋を借りるさい、大家にはヒバリという名をファーストネームとして教えている。その他の場所でも、知人にも、下の名前を呼ばせることを無意識に避けていた。
 この世で血のつながった家族以外に、ヒバリのことを「キョウヤ」と呼ぶ人間はひとりしかいない。
 今までに、あの声でしか呼ばれたことはない。
 ディーノの声でしか。
 ヒバリは静かに言った。少し声が震えたけれど、気づかれるほどではなかったと思う。
「すみません……よくわからないけど、人違いじゃないかな。僕はキョウヤという名前じゃないし、携帯電話を持ってますから、用事があれば友人たちは皆こちらに直接かけてきますよ。大家さんの電話番号も教えていないし」
「でも……」
「人違いですよ。わざわざありがとう」
 大家の女性は、思わず、というようにふたたび口を開きかけてやめた。他人の事情に立ち入らないでおこうと思ってくれたようだった。もしやヒバリの気が変わるまいかと、ほんの少しの間を置いていたが、やがて、そうなの、わかったわ、とだけ言って静かに立ち去った。ヒバリは彼女の気遣いに感謝した。あとで旨いパイの礼とおやすみを言いに、彼女の部屋を訪ねよう。預けっぱなしのトランクを引き上げてこないといけないし。身軽な旅とはいえ、鞄くらいは必要だろう。
 大家が階段を下りていく足音が聞こえなくなってから、ヒバリは小さな声で「さよなら」と言った。僕のためにも、元気でいてね。あの日も──ヒバリはディーノの足音が遠離っていくのを扉越しに聞きながら同じことを言った。今日はあのときほど胸は痛まない。彼女はいつか忘れてくれるひとだからだ。
 ヒバリは指にはめたままだった贈り物をそっと外して、ベルベット張りのケースにしまった。これでいくつめになったかと、ディーノから届いたプレゼントの数を思い浮かべる。人にあげてしまったいくつかのものはもう手元にはないが、持ち歩けるサイズのものはすべてトランクに入れっぱなしにしてある。邪魔になって捨ててしまったものはひとつもない。ディーノの物の選び方が上手なおかげだ。
 もしかしたら、これが。
 そうなのかな──と、ディーノから離れてからヒバリは何度も考えた。彼からの贈りものが届くたびに、何度も。ただ寝るだけの関係でいたときは知らなかった。
 長いあいだ聞いていない声をふと思い出すとか。
 贈られたものをどうしても捨てられないとか。
 いささか感傷的すぎるけれども、そう遠くはないどこかで彼が見ていると思えば、真夜中にひとりでトランクを引きずっていてもそれほど寂しくはないな、とか。
 これが「恋をしている」ということかもしれない。
 それを確かめる気持ちにはまだなれない。トランクの車輪が濡れた石畳の上をガタガタと滑る。周囲に物音がないから、今にも折れそうなキャスターの軋みがよく響いた。小さなふたつの車輪からヒバリの腕へ、腕から上半身へと振動が伝わり、胸に下げた銀色のペンダントを揺らしている。夜中だが、大通りに出ればタクシーくらいは拾えるだろうか。そこで車にぶつからなければ、あきらめて駅まで歩きだ。それにどうせ朝まで列車は動かない。
「まだ凍死するような季節じゃないし、まあいいか……」
 ──そうだな。死ぬ前に一度くらいは会いたいかな。
 ひどい音を立てるトランクを引きずり、苦笑しながら、ヒバリは明るいほうへ向かって坂道を下り始めた。