雨と記憶

 いつのまにか雨が降り出していた。
 急に空が暗くなり出してから、雨粒が落ちてくるまではあっという間だった。
 フェラーリのフロントガラスに透明の滴が届きはじめ、やがて視界を覆うほど雨足が強くなってから、ディーノはようやく思い出したように、コンパネに手を伸ばしてワイパーのスイッチを入れた。
 たった今目が覚めたように、急に視界が明るくなる。
 この人が学校の駐車場に車を入れ、僕をわざわざ応接室まで迎えに来てから何分経っただろう。教室に辿り着くまで五分、僕をまんまと連れ出すまで十分。不本意だが乗り慣れてしまった助手席に僕が収まってからも、余裕で十数分経っているはずだ。教職員のものでもなく、学校指定業者表示もしていない正体不明の一般車は、校舎内や中庭を行き交う者の目にそろそろ奇妙に映り始めていることだろう。
 そうでなくても目立つ外車をこんなに長時間停めさせておくなんてこと自体、ありえない。どうかしているとしか言いようがない。なのに僕はさっさと車を後にすることもできず、ただぼうっと目の前を斜めに流れていく雨を見ていた。
 曇ったサイドガラス越しに、鬱陶しい雨に晒されて停車しているフェラーリを物珍しそうに眺め、目配せしながら通り過ぎる数人の生徒の姿が見えている。その中でも好奇心の強い者が内部をのぞき込んで、ぎょっと顔を強ばらせて慌てて走り去っていった。うざったさが胃の辺りで渦巻いて、僕はそれを抑えるために、ディーノに見えないようそっとトンファーを握りしめた。とはいえ滅多に見かけない高級外車の助手席に乗っているのが並中風紀委員長だとわかって、驚かない者のほうが少ないだろうけれど。
「おっかしーの」
 隣で黙り込んでいたひとが、ふいに肩を竦めて小さな笑い声を立てた。
「おまえ、マジで他の生徒から怖がられてんなあ。さっきから中に乗ってるのが誰かわかったら、100%の確率でみんな逃げてくぜ。教師まで。すげーな」
「そんな話をしにきたんじゃないだろ。用件を言いなよ」
 僕は有無を言わせずに、浮かれた調子ののんきな声をぴしりと遮った。
「用がないなら」
「用もねえのに、いっそがしいマフィアのボスが帰国寸前にわざわざ会いに来るかよ。ありありだ」
 ディーノが笑うと空気が動く。空気が動くと自然に感じとれるものがある。香りだ。締め切った車内にはどこにも逃げ場がなく、ディーノの存在そのものが人工的な香りと相まって迫ってくる。時間が経つにつれ、そこにある空気がどんどん濃密になっていくようだった。
 急に何かのスパイスのような嗅ぎ慣れない匂いが鼻についた。ディーノがこちらを向いたのだ。
「なに」
「うお、動物みたいだなおまえ。反応早すぎ。まだ何も言ってねえって」
 大げさに肩を揺らし、大げさに表情を崩して屈託なく笑う。年下の僕に対して、まるで同年代のような子供っぽい反応を返すのは作為だろうか。それとも根っからあっけらかんとした性格なのかもわからない。疑いだしたらすべてが怪しく思えてくる。この人が僕に与えたもの、かけた言葉、その何割が真実で、どれほどが塵と同じなのか、知りたい気持ちを抑えこむのは難しい。
「忘れ物……しちまったの、思い出して」
 そして、沈黙を破るのはいつもディーノのほうだ。見えない壁を破るのも、彼。僕じゃない。
「忘れ物? 何を」
「なー。車出していいか?」
 僕の問いには答えず、ディーノが前を向いたままのんびりと尋ねた。手はハンドルにかけたまま。エンジンキーに手を伸ばす様子はない。僕の意思を尊重するという意思表示だろうか。
 僕は畳みかけるような早口で言った。
「話ならここでしなよ。僕は暇じゃないんだ。早く仕事に戻らなきゃならない」
 そんなのは嘘だ。風紀委員の仕事が気になるなら、車を降りて応接室に戻ればいいだけだ。できるものならとっくにそうしている。
 帰る、といってドアを開け、彼のそばを立ち去らないのはなぜか。それは僕だけが知っているわけじゃないのだろう。あと一歩だ。残り時間は刻一刻と少なくなり、距離はぞっとするスピードで縮まっている。あとほんの一歩踏み出されれば、僕は捉えられてしまうだろう。ごまかしようのない強い予感に目の前が暗くなる。
 修行と称して連れ出された一週間あまり、ディーノは笑ってしまうほど献身的に僕を鍛え上げようとした。その熱心さは、最後には彼の部下までがお手上げだと呆れるほどで、ゆうに何百時間というあいだ、僕は彼の熱に浮かされたような瞳の前にさらされ続けた。
 それはのぼせた錯覚を起こすにはじゅうぶんすぎる時間だった。今でも、できるならもう一度くらいあのときに帰りたいとさえ。──楽しかったのだ。
「明日帰るんだ。イタリアに」
「そう」
「だから今日は、かわいい生徒の顔を見納めにな。それから」
「忘れ物って、なに」
 僕は目を伏せ、声に感情が出ないようできるかぎり短く言った。
「ホントおまえはせっかちだな。少しは会話を楽しめよ」
 苦笑を浮かべて、ディーノがハンドルからぱっと手を離した。勢いをつけてシートに身体を預け、ますます雨が強まった窓の外に目を向ける。考え込む顔で口元に手の甲を押しあて、それからふと思いついたように手を伸ばしてせっかく動かしたワイパーをまた止めた。
 途端にフロントグラスに、ぽつぽつと雨粒が張りついていく。視界がゼロになるのはあっという間だった。
 どちらからともなく、きっかけか答えを待つような長い沈黙が落ちた。
 ディーノの言って欲しい台詞はわかるような気がしたけれど、それは僕が口にしていいものじゃないこともわかっていた。引き留めるような素振りを少しでも見せたらつけこまれる。わずかでも隙を与えたら足下から崩される。
 あれだけ一緒にいれば、離れるときにせっかく慣れた心地いいベッドを取り上げられるような、深刻ではない喪失感くらい感じるのは普通だろう。ことさら深い意味を求めるほどのことじゃない。好きだとか大事にしたいとか、ありふれていて耳に心地よいきれいごとを並べ立てるひとの本意を探る価値もない。
 ──本当にそう思うなら、こんなところに僕をただ閉じこめていないで、もっと他に。
「恭弥」
 唐突な呼びかけにはっとして顔を上げた。眠る前に必ず僕の視界を塞ぐ、大きな手。血の通う温かさを伝えるディーノの手のひら。目蓋を覆うのかと思ったそれは予想に反して僕の顎を捉え、もう片方の手で僕の肩を押さえつけ、互いにほとんど身動きが取れない苦しい体勢のままディーノは僕の唇を噛んだ。
 最初はわざと硬い歯をあて、それからやわらかい唇で触れてきた。その感触の心地よい差にこちらがぼうっとなるのは計算の上だ。もう何度もやられている手なのに未だに慣れない。
 二度、三度と角度を変えて唇を押しつけあうあいだ、執拗に上唇をなぞっていた舌が隙間を割って進入してきた。歯を食いしばって防ごうとしたけれど、歯列をていねいに舐められているうちにそれもばかばかしくなって許してやった。
「……ぅ、ふ、っう」
 顔と顔が近すぎて息を上手く吸えない。鼻から抜ける甘ったれた息をもらしてしまったのは、外からの雑音に気を取られたせいだ。ざああ、と耳に迫る強い雨音で現実に引き戻された。そのとき、わかった。ワイパーを止めたのはこのためだったのだ。ずるい大人はこれだから。
 一回目のキスが終わる。僕は顔を上げられない。恥ずかしさではなく、腹立たしさから。この人は一体ここをどこだと思ってるんだ?
「だから、車出していいかって訊いただろ?」
 僕の心を見透かしたように言い、ディーノが僕の頭を抱き寄せる。選んだのは僕だとでも言いたげに。選んだのも、拒まないのも、僕の意思だと。
 もう一度唇がふれた。ちゅ、と映画の効果音のような音が鳴る。耳が熱くなった。
「忘れ物、これで取り返したから」
 それからディーノは前髪の上から僕の額に口をつけて、さよなら、と低い声で愛おしむようにささやいた。


 行けよ、というように腕の力をゆるませたディーノを押し返して車を降りた。外は土砂降りだった。雨はたちまち髪を濡らし、ぽたぽたと頬に垂れて首筋を伝い、制服のシャツに内側から灰色の染みを作る。
 ──次に会うときには、攫うから。
 鼓膜を苛む雨の音に脅迫めいた口説き文句が、叩きつける雨粒に彼独特の洗練された甘い香りが洗い流されていく。ずぶ濡れで校舎にたどり着く頃には、どちらも夢で見た記憶ほどしか残ってはいないだろう。それが寂しくてならない。『次』が早く来ればいいのに、と思わずにいられない。こんな自分を僕は知らない。
 振り返りたいのを我慢して走り出した僕の後ろから、まっ赤なフェラーリがクラクションを鳴らして追い抜いていった。

ディーノさんがヒバリを雨の中に放したのは、離さないと今ここで攫っていっちゃうからです。 原点に還って、なりかけのもどかしいディノヒバ。
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