Velo di pioggia

 雨が降り出したのは、まったく想定外のハプニングだった。
 帰国する前にどうしても顔を見たくて、会ってくれるかどうか確信のないまま学校へと車を走らせ始めた直後、数分で空が真っ黒に変わっていったのだ。正門の向かって左手前に作られた狭い駐車場に車を入れ、十数回のコール音の末にようやく電話が繋ったときには、雨はまだ玄関から見えている外来者用の駐車場まで、ほんの数メートルの距離でも傘を持たずに出てこられる強さだった。この程度ならば、おそらくあいつは手ぶらでここに来るだろう。そういう妙な確信だけはなぜかあった。自分の予想が外れていなかったのが喜ばしいことかそうじゃないのか、その判断はなかなか微妙だ。
「どーしてお前はそうなんだよ」
「何が」
「これだけ雨が降ってるんだから、傘ぐらい差してこいって」
「いらない。面倒くさいから」
「そうかよ。風邪引いても知らねーぞ」
 助手席側のドアから滑り込んできた恭弥は、髪や制服を濡らす滴を拭いもせずにあっさり言った。あまりにもそっけない答えだが、これも当然予想の範囲内だ。ポケットからバンダナを引っ張り出して手渡すと、素直に受け取ってごしごしやり出すのだから、まったく気にならないというわけでもないのだろうに。
 ぼんやり外を見ていると、あっという間に土砂降りになった。弾幕を思わせる激しい雨を払おうとコンソールに手を伸ばす。バッテリーを駆動させてワイパーを動かすと、それまで完全に視界を塞いでいた水のスクリーンが一瞬で取り除かれ、煙るような外の景色が現れた。すぐ目の前を通り過ぎようとしていた複数の生徒たちが一斉に振り返る。ひとりなどは中をよく見ようとかなり車に近づいていたようで、こちらと目が合うとぎょっと顔を強ばらせてそそくさと逃げ去っていった。反応が素直すぎて笑うしかない。
「おっかしーの」
 油断していたんだろうか。恭弥が、何、というように肩をわずかに強ばらせた。
「おまえ、マジで他の生徒から怖がられてんなあ。さっきから中に乗ってるのが誰かわかったら、100%の確率でみんな逃げてくぜ。教師まで。すげーな」
「そんな話をしにきたんじゃないだろ。用件を言いなよ」
 用がないなら帰れと言う。ごくあっさりしていて、どこにも取りつく島がない。いっそ見事な切りようについ感心しかけて、そんな場合じゃないことを思い出した。
「用もねえのに、いっそがしいマフィアのボスが帰国寸前にわざわざ会いに来るかよ。ありありだ」
 帰国寸前の慌ただしい日程を睨みつつ、無理をおしてまで会いに来たのにはそれなりの理由があるのだ。大事なことだと思う。少なくともオレにとっては。だから、どうしても会っておきたかった。
「忘れ物……しちまったの、思い出して」
「忘れ物? 何を」
「なー。車出していいか?」
 賭のつもりだった。イエスなら、引く。ノーなら、いく。いいと言われたら、何をするか自信がないから。
 ほんのわずか、恭弥が逡巡する。そして決断する。一秒とかからずに。子供らしからぬ見事な判断力にはいつも舌を巻く思いだ。
 恭弥は本当に不思議な子供だった。年齢相応の幼い部分はもちろんたくさんあるが、それとは正反対の印象を受けることも少なくない。子供らしさがない、などと大人ぶって偉そうなことをいうつもりはないが、こちらの意表をつくような大人びた言動を頻発させるのは紛れもない事実だった。たとえば修行の旅の最終日、初めてキスを奪った時。ああこれで命はないな、となかば諦めていたオレの覚悟は、意外なところで裏切られた。恭弥はキスを拒まなかった。怒り出しもしなかった。意味を尋ねることすらしなかった。まるでこちらの邪心をとっくに察していたかのように、唇が離れたあとにオレを見上げて小さくため息をついただけだった。
 信じられない思いで、その後も何度か試した。いい加減命知らずな自分に呆れる程度には。だが恭弥は、ついに一度も嫌だとは言わなかった。
「話ならここでしなよ。僕は暇じゃないんだ。早く仕事に戻らなきゃならない」
 ノーなら、いく。幻のゲートが一斉に上がる。覚悟の花火も派手に上がる。
「明日帰るんだ。イタリアに」
「そう」
「だから今日は、かわいい生徒の顔を見納めにな。それから」
「忘れ物って、なに」
「ホントおまえはせっかちだな。少しは会話を楽しめよ」
 言いざまシートに体を投げ出し、さりげなく映るようごくゆっくり、一度は止めたワイパーにふたたび手を伸ばした。焦っているように見えないだろうか。恭弥から顔を背け、息を詰めてタイミングを計るあいだ、フロントグラスを覆い尽くす雨量につられ動悸が激しくなっていくのがおかしかった。尻の青い子供かオレは。いや、子供以下だ。
「恭弥」
 返事をするどころか振り向く余裕すら与えないよう、身体を無理やりひねって恭弥のほうへとできるだけ被せる。顎を捉え、相手が息を止める間を狙って顔を近づけた。
 唇を重ねる寸前にわざと歯を立てる真似をして、正気に返る時間差を作っているのが、わかっているのかどうか。恭弥は逃げない。まるでそうすると決めているかのように。これで期待するなというのは酷だ。気が狂いそうだ。
 上唇を舌で何度かなぞり、思わずゆるんだ隙間から先をねじ込む。はじめは頑なに中へ入れさせてくれなかったひとが、ふとした瞬間にすべて明け渡してくれたときの快感といったら。──だが、至福の時間ほど早く過ぎるものだ。掠れた声を空気に混ぜてキスが終わった。恭弥は俯いたままちらりとも表情を崩さない。こちらを振り向こうともしない。去っても行かない。だからおまえは、一体どっちなんだ。
「だから、車出していいかって訊いただろ?」
 言い訳のように早口で言い、もう一度、むっとしてようやく顔を上げたひとの唇と額にかわるがわる口づける。
「忘れ物、これで取り返したから」
 ああそう、とでもいうように、恭弥が車を降りる素振りを見せた。さもありなん。こちらが腕を放すとたちまち離れていってしまう。それも予想通りだった。目の前で閉まる重い鉄が中と外とをあっけなく遮断する。恭弥はすでに遠い扉の向こうだ。
「恭弥」
 もう呼んでも声は届かない。最後に未練がましく追いかけた一言は届いただろうか。それさえもわからないまま乱暴にエンジンを叩き起こした。
「次に会うときには、攫うから」
 我ながら、とっさによく思いついたと思う。もしも聞こえていたら、これで恭弥はオレとふたたび顔を合わせる日を楽しみに待ってくれるかもしれない。オレを咬み殺す理由ができたと思い込んで。負け惜しみの気分を味わわされるのには慣れた。
 宣戦布告のつもりでクラクションを鳴らし、崖っぷちから飛び込むつもりでアクセルをベタで踏み込む。次からは宣言通り、本気でいかせてもらうとたった今決めた。もう振り向かない。

たまにはあおくさいはねうまでもいい。だってまた22歳…っ。
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