free bird

 お抱え刺青師が行方不明になったという報せがディーノの元に届いたのは、彼らが電話で話してからわずか数時間後のことである。
 報せを聞いたディーノが電話をかけ直すと、数時間前までは繋がっていた彫師の携帯電話は電源が切られ、不通のアナウンスを繰り返すだけになっていた。本人を呼び出すのを諦めたディーノは、続いて本国の自宅に電話を入れ、彫師の所在を確かめるよう部下に命じた。
「そうだ。今すぐあいつの屋敷に行って、家の中がどうなってるか確かめてくれ。探して欲しいものがある。それが見つからなかったら、あいつはもう」
 鳥籠から飛び立ったあとだ。
「ちくしょう、やられた……!」
 絡まっていた結び目の一端が解けると、すべてが面白いように一つの結論へと繋がっていった。彫師との会話のあいだずっと気になっていた背後の雑音は、フライト予定時刻を告げる空港のアナウンスだ。なぜあの時、すぐにそれに気がつかなかったのか。
 ディーノは沈黙した電話を握りしめて待った。
 顔色を変えて部下に指示を飛ばすディーノの様子を、雲雀はしばらく黙って眺めていた。やがてきれいな黒い瞳でディーノを見つめ、目が合うと静かに口を開いた。
「鳥の絵を彫ったひと、いなくなったの」
「や、ちょっとどっかに出かけてるだけじゃねえかな。あいつ気まぐれだし」
 それは嘘だ。ディーノの元で過ごした10年のあいだ、彫師がディーノに断りもなく屋敷を空けたことは一度もなかった。思いつきのでまかせが通じる雲雀ではない。案の定ぴしゃりと返された。
「そんな泣きそうな顔で言っても説得力ないよ」
「……厳しいな」
 ディーノは笑って答えた。そして、まだ笑う余裕がある自分に安堵した。弱みを見せたくない人がそばにいる。だから大丈夫、持ち堪えてみせる。
「あいつ、いなくなっちまったみてーだ」
 まだ信じたくない気持ちがディーノの胸の奥でくすぶっていた。言葉に出してしまうと取り返しがなくなるのが怖かった。気のせいにすぎなかった不吉な予感は現実となり、いやでも目を逸らすことができなくなる。
 それでもどうにか口にすることができたのは、雲雀がそばにいてくれたおかげだ。
「気まぐれな鳥が、とうとうオレの庭から飛んでいっちまった」
 彼はおそらく、もう二度と戻らないつもりで出て行ったのだ。
 ふたたびディーノの携帯電話が鳴った。電話の向こうから返ってきたのは、「屋敷中探したが、彫師の姿はどこにも見あたらない」という部下からの報告だった。



 彫師の突然の失踪から帰国の目途がつくまでの間、ディーノが何もしなかったわけではない。
 すぐさま部下に命じていなくなった彫師の消息を追わせたし、命令を受けた部下たちはイタリア国内だけでなくかなりの広範囲に渡って、あの根無し草のような男を必死になって捜し回ってくれた。
 けれども本名や過去の経歴、世界中のどの組織と繋がっているのかすらもはっきりしない男を当てずっぽうで探す手だてなど、本来ないも同然だった。それは海中で小指の先ほどの小さな宝石を探し当てるのにも等しい。始めから不可能であることは誰もが知っていた。
 部下たちは敬愛するボスのために全力を尽くした。
 結果的に目指す男の行方を突き止めるまでに至らなかったのは、──だから、決して彼らの責任ではない。



 彫師がやはりイタリアを出国していたという情報がもたらされたのは、彼がディーノの元に最後の電話をよこした三日後のことである。それをディーノに伝えたのは、ディーノと同じく彫師とつき合いの長いロマーリオだった。
「一旦フランスに入国したとこまでは何とか足取りを追えたんだが、そこからの行き先がさっぱりだ。あの辺りの組織のつながりからいうと最終的な目的地は中東じゃねえかと思うが、残念ながらオレたちはそっち方面に太いパイプを持ってねえからな。受け入れ先が隠そうと思えばあの男の一人や二人、どうにでも匿える。あっちが知らせるつもりにならなきゃ、あの男の消息はオレたちの耳には一生入ってこねえだろうな」
「だろーな。あいつのやりそうなことだ」
 追跡の末、彼はディーノとの会話を終えた直後にイタリアを離れていたことがわかった。だが、調べがついたのはそこまでだった。フランスの主要空港を出た時点で彫師の足取りはぷっつりと途切れ、その後の行き先を突き止めることができないまま時間切れになった。帰国日が目前に迫っていた。
「オレがすぐに動けねーことを知ってて消えやがったな。ホント性格悪いったらねえな、あんにゃろめ」
 そうでなくてもディーノは多忙の身だ。明確な裏切りの証拠でもない限り、自分の意思で消えた彫師の追跡を最優先にするわけにはいかない。
「それにあいつは正式なキャバッローネ・ファミリーの人間じゃねーし。消えたくなったら好きにすりゃいいって、最初から言ってあったしなァ。こんなことなら、ぶん殴ってでも誓いを立てさせとくんだったぜ」
「それができねーのが、オレたちのボスのいいところだろ?」
「それ褒めてねーよ」
 苦笑で応じる以外にどうしようもない。完敗だった。
 今回の失踪はこちらの動向や現在位置、さらにはイタリアに残る部下の情報収集能力までを計算に入れた計画的行動だろう。意地悪くそつのない、彼らしいやり方だ。
 彫師が行方をくらましてから五日後──予定通り仕事を終わらせ帰国したディーノは、自分の屋敷に寄る間も惜しんで無人の家に向かっていた。
「そんなに急がなくても、着替えぐらいしてから来りゃいいのに。あいつがいなくなってからここは閉鎖して誰も出入りさせてねえし、念のためずっと見張りをつけてあったってよ。ボスに言われて探し物をした以外には、中も手つかずのままだって言ってたぜ」
「わかってるって。仕事道具がすっかり消えてるなら、今さら急いだっていねえものはいねえよなァ。わかってるけど、自分の目で確かめねえと気がすまねーんだよな。あいつのことだ、気まぐれで何しでかすかホント予測がつかねーし」
「まァなあ」
 彫師のことをよく知るロマーリオがため息混じりに呟く。
「鴉は喜ぶだろうけどな。あんた愛されてたから。ホント今までよく我慢してたと思うぜ、あの放浪鳥が。面と向かって言ったことはなかったが、オレはいつだってあいつに感謝してたんだぜ。つってもあいつは鼻で笑うだろうがな」
 ディーノが目で促すと、ロマーリオはおどけた仕草で肩を竦めて続けた。
「なんだかんだ言いながら、あいつはボスをずっと心配してたからな。うちに何か問題が起こるたびに、あいつが知り合いに片っ端から連絡しまくってたのを知ってるか? キャバッローネの跳ね馬はまだ半人前だから、一人前になるまで力を貸してやってくれってよ」
「ん。ボンゴレの九代目がよく笑ってたぜ。キャバッローネの結束が固いのは知ってるが、血の誓いを立ててない雇われ刺青師までがボスに過保護ってのは珍しいって」
「そうだ、ああいうのをまさしく過保護っていうんだよな」
 笑い合って進むうちに、目的の場所に着いていた。
「あー。マジでいっちまったのな…あいつ」
 ディーノが明かりの落ちた屋敷の窓を見上げて呟いた。
 もぬけの殻になった館の玄関は閉じられていた。
 艶のある木製の扉の前に立ったディーノは、ロマーリオにそこで待つように言い、実に数年ぶりに自分で真鍮製のドアノブに手をかけて扉を開けた。
 ──その思いがけない重さに驚く。
 そしてディーノはようやく思い出した。この家を建てる時、つまらない恨みを買いやすい友人への配慮としてすべての窓という窓に防弾ガラスを、外に通じる扉という扉に鉛を仕込むよう命じたのはディーノ自身だ。その後すぐにちょっとした事件があり、それ以来ディーノは彫師から自力でこの扉を開けることを禁じられていたのだった。今の今まで、そのことをすっかり忘れていた。あれから十年近く経っている。忘れるはずだ。
(そうだった。あいつがこの家のドアを開けっ放しにするようになったのって、オレが昔ドジってこの扉に指を挟んで骨折したから、だったっけなー)
 あの時は自分の迂闊さをこっぴどく説教されて、泣いて謝るまで許してもらえなかった。ここに来る時は前もって連絡しろ、ドアが開いていなければ絶対に中に入るなとまで言われた。それは15歳にもなった少年に命じるような内容ではなく、それどころか子供の扱いに慣れていないのが丸わかりの下手くそ極まりない叱り方だったが、彫師が自分を本心から心配しているのがわかったから、ディーノは黙って彼の言いつけに従った。
 ディーノが成長して大組織をしっかり束ねるようになってからも、その微妙に的を外した過保護な習慣はついになくならなかった。その扉が今は開いていない。家の玄関が閉まっているのは普通なら当たり前のことなのに、この家に限ってそれはとても奇妙な光景だった。ここにいたはずの人が今はもういない。その事実を思い知らされるのに、これほど効果的な演出は他にないように思う。
 居間を通り過ぎる時に、奥の倉庫の扉が目に入った。
 そこは持ち主本人以外にはほとんど価値のない、訳のわからない物ばかりがぎっしり詰まった、アトリエの次に彼の気に入りだった場所だ。彼はよくここで無理やり作った隙間のような床に長いこと座り込んで、あてのない探しものをしていた。その扉だけがなぜか開いていた。
 倉庫手前のアトリエに入ると、がらんどうの床に数枚の絵が散乱していた。拾い上げてみると、それはディーノが彼に依頼した鳥の図案の下絵だった。
 ひとつひとつ丁寧にめくっていく。モティーフはすべて同一の走り描きのラフスケッチで、実際に採用されたデザインとは全く違う構成のものが何枚もあった。
 最後の仕事を引き受けてから施術にかかるまでには48時間の猶予しかなかった。その短い間に彼は何を思いこれだけの数の図案を考え、ひとつずつ紙に起こしていったのか。ディーノには想像もつかなかった。
 順番にゆっくりめくっていき、とうとう最後の一枚になった。
「──あれ、これって……」
 数あるスケッチはすべて鳥を題材にしたものだと思っていたが、一番下に重ねられた図案だけが違っていた。ひとつだけ他とは異なるそのモティーフこそ、ディーノが彫師に最初に頼んだ仕事──太陽を背負う跳ね馬の絵だった。
 紙の端に何か書いてある。癖のある殴り書きの文字に目を走らせたディーノは、知らずに笑みを浮かべていた。
「あんたってヤツは……かっこつけすぎだっての」
 ディーノは数えたら12枚あった画仙紙の束から最後の一枚だけを抜き取ると、残りを作業台の上に置いて部屋を出た。机の上には少量だがよく使い込まれた筆記用具と、さらに膨大な量の鳥の絵がバラバラの向きで重なり合って散らばっていた。
 次に入った無人の部屋には、ディーノが彫師に買い与えた服や生活道具の大半がそのまま放置されていた。彼が持って出たのはわずかな衣類と金と、命よりも大事にしていた仕事道具だけだったようだ。その他の物はディーノが彼のために用意した端正な鳥籠に、本当に腹立たしいほど惜しげもなく置き去りにされていた。
 先に覗いた居間にも出て行く直前に彼が使っていたらしいヘレンドのコーヒーカップがそのまま残っていたが、寝室はもっとひどかった。さながら昆虫が脱皮したあとのように、脱いだ洋服がそのまま床に落ちている。
 見るとベッドカバーもシーツもいっしょくたになってしわくちゃのまま寝床から半分垂れ下がっていて、あたかもさっきまで部屋の主がここで寝ていたかのように──昼寝のあとの眠気覚ましに近所のカフェまで出かけていき、日が暮れたら何ごともなかったかのようにひょっこり帰ってくるんじゃないか──ついそう考えてしまうほど、彼の気配はまだ部屋いっぱいに、隅々にまで満ちていた。
 ただの抜け殻になった部屋には、確かに人が──気まぐれな刺青師が生活していた痕跡があちこちに残されていたけれど、それらはすでに過去のものであり、すべてが終わって、後からここに踏み込んだディーノに何も教えてはくれなかった。
 ディーノは無人の部屋を見渡してから、入り口から廊下が見えるようくしゃくしゃのベッドに腰を下ろした。
 扉の向こうの窓から庭が見える。その向こうには庭の垣根が。垣根の背景には、水に滲んだような太陽が沈みかけた広い空が見えていた。もうすぐ日没だが、翳り始めた庭や屋敷のどこにも彼の姿はない。
 いつかまた、ここに戻ってくる気があるのか。束縛を嫌う根無し草のような男は、自分を枝や地上に縛りつける忌々しい殻やしがらみの一切を脱ぎ捨てていったのか。
 それともまさか彼にはそのどちらでもない、ディーノには想像もつかない第三の理由があったのだろうか?
 思えば昔から、彼の生い立ちや行動や考えのすべてがディーノには謎だった。聞かされていないこと、知りたくても教えてもらえないこと、できれば知りたくなかったこと、理解できないことが多すぎた。
 彼がいつどこで生まれたのか。何という刺青師に拾われ、目が眩むほどに煌びやかで痛々しい文様を全身にくまなく刻むことを許したのはどうしてなのか。誰もが欲しがる超一流の腕を持ちながら、右も左もわからないなりたてのマフィアの小僧に飼われてやろうと思ったのはなぜだったのか。
 ディーノは結局最後まで何ひとつ、彼の口から本当のことを訊けないままだった。ひとつだけわかっていることがあるとすれば、翼のあるいきものをつなぎ止めておくのは難しいと彼が散々口にしていたのは、雲雀のことだけを指していたわけではなかったということだ。
「つーかあいつってふらふらしてるうちに、うっかり刺されて死にそうなタイプなんだよなー……」
 思わず独り言が口をついて出る。それに同じように翼のあるいきものとはいえ、あの鳥にはそもそも渡り鳥のように、広い範囲をあちこち移動する習性があっただろうか。
「ホントにどこ行きやがったんだろーな……あのカラスやろー」
 十年もの長い付き合いだったというのに『corvo』── “鴉”という職業上の通称を教えてもらえただけで、最後まで本名さえ聞かずじまいだった。
 孤児だったという彼は、もしかしたら自分の本当の名前を知らなかったのではないだろうか。気ままな鳥が生きていくのに必要なものだけがすっかり消え失せた部屋の中を見回しながら、ディーノはそんな気がしてならなかった。
(名前なんか違っても、どっかで仕事でもすりゃすぐに耳に入ってきそうなもんだけどな)
 それはそれで、軽い嫉妬のようなものを覚える。彼がいなければ、ディーノの背中の鳥はいつまでも未完成のままだからだ。自尊心の強い彼のことだ、一度捨てた鳥籠にもう一度舞い戻って来るとは思えない。それにあの男の絵でなければ、ディーノはもう新しい刺青を増やす気にはなれない。何かの偶然が重ならない限り、このままタトゥーを卒業することになりそうだった。
「……っと、」
 ポケットにしまった携帯電話が呼んでいた。ディスプレイに何気なく目を走らせたディーノはどきりとして、それからくすぐったさに思わず目を細めた。通話ボタンを押す指がわずかに焦る。
「チャオ、恭弥」
『…………』
「こんにちは、は? じゃねえ、こんばんは、か。せっかく恭弥から電話をくれたんだ。何でもいいから何かしゃべれよ。声が聞こえねーと心配すんだろ。……元気だったか?」
『──当たり前だよ。あなたがそっちへ帰ってから、まだ丸一日経ってない』
 最初の長い沈黙から察するに、雲雀は自分から電話をかけたことを早くも後悔し始めているようだった。ディーノは日中、特に仕事中は個人の携帯を切っていることが多く、まさかこんな中途半端な時間につながるとは思っていなかったのだろう。しかも日本は今、夜中のはずだ。
『で、彼は──いたの』
「いや」
 機械を通して聞く雲雀の声は、咄嗟に思い描くよりもわずかに低い。そして穏やかで優しかった。傷口に沁みても痛くない。
「オレがこっちに着いた時には、やっぱり屋敷は空だった。部下たちも使用人も同じ敷地内に大勢いるんだが、あいつが出て行ったことに誰も気がつかなかったらしい。あれからずっと探させてるけど、尻尾の先すらつかませてくれねーな」
『キャバッローネの情報網でも捕まえられないなんて、すごい人だね』
「あーまあ、あいつもこっちの世界で年季入ってっからなあ。身を隠す場所はひとつじゃねえだろうし。あの腕を欲しがる奴は、それこそ十や二十じゃきかねーしな。……それに」
 淡々と話しながら、ディーノは薄情で慈悲深く奇妙で美しい友人と、電話の向こうの人の姿とを重ね合わせていた。
 いつか畏れている時が来て、雲雀が自分から離れていこうとした時に、自分はあの男ほど見事に、鮮やかに、潔くこの人の手を離してやれるだろうか。
 ……考えるだけでため息が出そうだ。
「自信ねーなァ。つーか、かなり無理っぽい気がする……」
『なに?』
「や、すまん。こっちの話だ」
 ──なに暗くなってんだかな。しっかりしろよ。だからお前さんはガキだっつうんだよ。
 声が聞こえる。幻の声だ。
 ──最後まであがけ。もがき苦しめ。本気なら絶対にあきらめんな。オレが何のためにその絵を彫ってやったと思ってる。お前に覚悟ってヤツを与えるためだろーよ。
 そう言って、背中を押されている気がしてならなかった。彼の最後の仕事には、おそらく雲雀が読み取ったものとは別の、そういう意味が込められている。
 ──お前ならできるさ、オレの跳ね馬。お前はこのオレが腕を預けた男なんだぜ。
 それが彼の口癖だった。ディーノはその言葉に何度助けられたか知れない。彼がついていると思えば、どんな危険な場面でも怖くはなかった。
 ディーノは電話を耳に当てたまま、明るい色の窓枠に切り取られた夕方の空を見つめた。濃い青から紫へとグラデーションを描く広い空に、目の錯覚のような筋状の雲がうっすら浮かんでいる。そこに鳥たちの影はない。眩しくて、目を開けているのがつらくなった。ディーノは手に持っていた画仙紙を目線に翳して、目を射る太陽の光を防いだ。
 目に入った走り書きの文字を声に出して読んだ。
「“Stammi bene. Il mio caro capo.”」
『それは何? 何ていう意味』
「……あいつが跳ね馬の絵の横に書き残していった言葉だ。“Stai bene”。イタリア語で、特別の意味でさよならを言う時に使う言葉なんだ」
 ──お別れだ、ディーノ。
 それはいくつもの選択肢の中から意思を持って選び抜かれた、大切に思う人への最上級の別れの挨拶。
 ──もう会えないけど、オレのために元気でいろよ。さよなら。
 自惚れが強すぎるだろうか。あのひねくれた男をよくもここまで惚れさせたものだと思うと、寂しさと、どこか誇らしい気持ちが同時に胸に湧いた。
「あんま夜更かしさせちゃまずいだろ。もう寝ろ。おやすみ恭弥。わざわざ電話くれてありがとな。声が聴けてうれしかった」
『まだ、いいから』
 雲雀がぽつりと言った。
『昨日はよく眠れたし、今日は金曜日で、明日は学校が休みだから、今夜くらいは……いい』
「でもな」
『いい』
 こみ上げる愛おしさに思わず頬がゆるむ。今日は本当に驚きの連続だ。電話を握り直す手が震えた。
「そっか……すげえ嬉しい。じゃあもう少しだけ、話…していいか」
 できるなら、一秒でも長く繋がり合っていたい。だが残念ながら、あまりゆっくりはしていられないようだ。雲雀の気遣いは本当にうれしいが、知られたくないことを隠し通す意地も大事だ。跳ね馬の絵に賭けて、好きな人にみっともないところを見せるわけにはいかない。
「一度会わせときたかったな。あいつと──恭弥。お互いに一目で気に入ったんじゃねえかな、たぶん」
 できるだけ軽く聞こえるように、ディーノはわざと声を弾ませて言った。
 たった今、誰よりも傍に置きたいひとの声を届けてくれる機械を宝物のように耳元に引き寄せ、体を丸めて膝をしっかり抱える。要らないものばかりが残る空っぽの部屋で、雲雀の返事を聞き逃さないよう耳を澄ませて待った。
 出会ったばかりの頃、ディーノは全身に刺青をした彫師がおっかなくて、少し距離を取った壁際でこうして蹲って、彼の背中を一日中眺めていたことがあった。彫師はそんなディーノを追い出すでもなく、やがてディーノが飽きて眠ってしまうまで好きにさせてくれた。夜になって自室で目が覚め、彼がわざわざ部屋まで運んでくれたと知った時はうれしかった。
 彫師と過ごした十年間はディーノにとってかけがえのない日々だった。彼も同じ気持ちでいてくれることを心から願う。楽しかった。
「間違いねえな。お前ら絶対気が合ってたと思うぜ」
 顔を上げると、赤く染まった窓の外を一羽の鳥が羽ばたきながら横切っていくのが見えた。同時に囁くような雲雀の声が鼓膜を包み込むように、ディーノの耳にゆっくり流れ込んできた。
『その人のこと好きだった?』
「ん。かなりな」
 肯きながら目を伏せる。窓から夜風が吹き込むと、頬がひやりとした。風が冷たいからではなかった。
「オレはあいつがすげえ好きだったし、自由になるのを十年も待つくらいに、あいつもきっと」
 震える声を抑えるに苦労した。目の裏が熱い。
 初めて──ここに雲雀がいなくて本当によかったと思いながら、ディーノは涙で湿った頬を掌でごしごしと拭った。

(2006/7/25〜2008/2/21)

隠しテーマは「ディーノを泣かしてみよう!」でした。かなり難産でしたが、ディノヒバというカプの自由さに助けられた話です。