free bird

 煩いくらいの水音が響いている。優しい眠りを妨げたその音は、頭のすぐ真上から聞こえていた。強い雨だなと思ったけれど、それ以上頭が働かない。起き抜けの思考をコントロールするには疲れすぎていた。
 どこからか水の匂いがするのは、窓が近いせいだろうか。
 はっきりとした覚醒にはほど遠く、ディーノはすぐにまた瞼を落としてしまった。伏せた目蓋の裏に残るどんよりした熱がなかなか消えない。寝返りを打とうとして体をひねってみたが、背中に痛みを感じて諦めた。ベッドに磔にされたように体が動かない。
「……ってー……」
 寝惚けた頭で、体の自由がきかない箇所を数えてみた。
 伸ばした左腕が痺れて重い。それに骨。肘の辺りがとくに、内側でみしみしと音を立てそうなほど痛んでいる。無理に引っ張ると肩からすぽっと抜けてしまいそうだ。二の腕の真上辺りで石のように重いものがごろりと動いた。さらさらとした感触が肌にふれている。何だろう、これは。知っているのにぱっと思い出せない。
 ゆっくり目を開け、次の瞬間、ディーノは驚きのあまりすっきり目を覚ました。
「はは…うっそみてー。このまま寝てたのかよ」
 自分はともかく、眠りの浅い雲雀がこの寝苦しい体勢で熟睡していることが信じられない。状況をはっきり認識した途端ひどく痛み出した腕をそっと持ち上げると、ディーノの腕を枕にしている雲雀の頭の位置が変わった。互いの顔と顔がまた少し近くなる。
「おーきーろー」
 黒髪のあいだから小さな耳が覗いていた。怒るだろうな、と思いながら、ディーノは舌で雲雀の髪をかき分けて耳朶の上縁を舐めた。同じ場所に次は唇を押しつけてわざと音を立て、数秒待ってから離す。雲雀の反応を窺いながら、同じ動作を何度か繰り返した。
「う……、ん」
 雲雀が小さくうめいた。やっと起きてくれたようだ。ディーノが指で頬を軽く押すと、眠りたがりのひとが目を閉じたままうっすらと眉を寄せた。
「おー、起きた起きた」
「…なに……」
「おはよう恭弥。よく眠れたか?」
「ん、……」
 もうすぐ目が合うかと思うと、雲雀の顔から目が離せない。
 死んだようにシーツに沈み込む雲雀をそっと揺さぶると、夢の中から雲雀が返事をした。目蓋をひくひくさせて、諦め悪く半分だけそうっと開く。
「こら、おはようは?」
「──」
 上から顔をのぞき込むディーノを片目で見上げて、雲雀はもぐもぐと唇だけを動かしてみせた。すぐに、朝の仕事はこれで終わったといわんばかりに顔を伏せてしまう。
「なあ、腹減ってねえか。少しでも何か食べよう」
 枕代わりにさせていた腕を抜くと、雲雀の頭がころんとシーツに着地する。ディーノはそのまま動かない雲雀の頬に手を置いて上向かせた。このまま眠らせてしまってはまずい。
「聞こえてるか? 昨夜のうちにルームサービスを頼んで、起きたらすぐに運ぶように言ってある。あとはフロントに電話して、食事が届く前に起きて、食うだけ」
 わざと耳のすぐ近くで囁くように言うと、ようやく自分の意思で雲雀の頭が動いた。ゆっくり顔を上げる。目線はくれるが返事はない。ふと口を開きかけ、雲雀は一瞬妙な顔をして口唇を閉じてしまった。
「ん? どうした?」
 声を出すのが面倒なのか、それとも出したくても出ないのか。後者のほうが可能性は大だなと思うが、あまり追求すると藪蛇になりそうなのでやめておく。いくら冗談でも、翌朝声が嗄れるからもうしないと言われたら困る。
「なあ、恭弥──」
「いらない……朝ごはん。眠い」
 雲雀はぐったりした様子で、ディーノの声を遮るように頭を毛布の下に引っ込めてしまった。邪魔するなという意思表示だ。ディーノは慌てて毛布の上から雲雀をゆすった。これほど疲れさせてしまったのは自分だからそこは反省することしきりだが、このまま食事も摂らせずに寝かせておくわけにはいかない。
「おーい寝るな。ダメだ、とりあえず起きろって。メシ食ってから、また眠ればいいから」
「──」
「返事しろよ、恭弥。無視すんなって」
 根気よく呼びかけると、シーツの下から掠れた声が返ってきた。
「…………何時?」
「一時すぎ。ちなみに午後の。だからもう朝食じゃなくて昼食だ。ほら、顔見せろよ」
 少しほっとして、苦笑を交えて言うと、ふいに持ち上がった毛布の下から手の先だけが出てきた。手首から上をひらひらと振る。
「あっちに行ってて。着替えるから」
「なんだよ。別にいいだろ」
「よくないよ」
「着替え手伝ってやるから」
「いらない」
「着替えてるトコ見るなってか」
 裸なら昨夜散々見たのに今さらと思ったが、正直にそう言ってベッドから蹴り落とされてはかなわない。ここは黙って折れておくことにした。
「わかった、わかった。先に向こうの部屋に行ってるから。ちょっと急げよ」
 ディーノは毛布をはねのけて起き上がると、床に脱ぎ散らかしてあったカーゴパンツを拾い上げて足を通した。少し迷ってから、くしゃくしゃのTシャツに手を伸ばす。雲雀の目の前で刺青を晒したままでいると、機嫌を損なうときがあるからだ。
「…………ディーノ」
「ん?」
 呼ばれて振り向くと、しわくちゃのリネンの下から雲雀の腕が伸びてきた。雲雀は手探りで柄入りの左腕を掴むと、そこに刻まれた目印を辿って手首から肘へそろそろと撫でた。しばらく遊んだあと、まっすぐ伸ばした指先が今度はディーノの裸の上半身に移った。腰から胸の下まで、手が届かなくなると逆のルートをまた引き返していき、最後は指と指を絡ませて握れと促してきた。
「なんだよ……?」
 訳がわからないまま望み通りにしてやると、今度はなかなか手を離したがらない。それで気がついた。
 頑なに顔を隠したがるのは、見られたくないから。
 こういう場面でどんな顔をすればいいかわからないから。
 普段の生意気な態度からは想像もつかない、稚拙で不器用なやり方だ。けれど雲雀にしてみれば、これで精一杯甘えているつもりなのだとしたら。
「マジかよ……天然か?」
 思わず呟いて、思わず喉を鳴らした。これは、やばい。
 無理をしても会いたがったのは決してそれだけが目的ではないし、これですぐさま下半身にクるほど即物的でもないつもりだが、気持ちよりも体のほうがうんと正直だった。急に襲ってきた下肢の強ばりに一度意識が向き始めると、どうにもならなくなった。
「恭弥、顔見せて」
 邪魔な毛布を上げて中を覗くと、むっとする雲雀と目が合った。見るなと言いたいのだろう。
「きょ、う、や」
 一語ずつ区切って、もう一度呼ぶ。雲雀の頬と目尻が少し赤らんでいる。というより、顔全体がほんのり上気している。直撃だった。
「……なあ」
「なに」
「昨夜から全然おさまんねーんだけど、……どうしたらいい?」
 ガキじゃあるまいし、と自分で呆れながら、ディーノは急いで着かけたものを脱ぎ捨ててベッドにもぐり込んだ。
 雲雀の隣はちょうどよく隙間が空いていて、中は一瞬で汗ばむほど温かかった。悪戯心が湧いて裸の足と足を無理に絡めると、痛いと言って仕返しのように左肩を咬まれた。
「今日って確か、昼から車でどっか出かけようって言ってたよな」
「ん」
 湿った太腿の内側に手を差し込むと、雲雀はディーノの首に腕を回して、まるで強請るよう甘くに小さく喘いだ。どちらからともなく唇を寄せ合う。雲雀の口の中は火傷しそうなほど熱かった。
 互いの体温で暖められたベッドの中も熱い。触れあう生身の肌はもっと熱い。
「今からこんなこと始めたら、ぜってーマズいよなー…」
「……ん、…」
 陽はとっくに昇っているし、食事はまだだし、確実に腹は減っているし、こんな時間から性欲に流されたらせっかくの休暇が台無しになる。わかっているが止まらなかった。
「あーだめだ。何かもう、頭が変になりそー……」
 こもった熱気を逃がすために毛布をはね除け、ディーノはそのまま雲雀に覆い被さっていった。その時点で頭の中でさらっていたすべての予定を潔く諦めた。それが来日した翌朝のことだ。笑えないくらい怠惰な休日の始まりだった。
 しかも、もっと笑えないのは、朝目が覚めてもなかなかベッドから出られなかったのがその日だけではないことだ。
『呆れるな。つうか他にすることねーのかよ』
 電話越しに彫師の大きな笑い声が響いた。
『小鳥ちゃんて、年はいくつだったっけ? このエロ馬、遠い日本で牢屋にぶち込まれねえようにせいぜい気をつけろよ』
「まだ何にも言ってねーだろ」
『お前は昔から隠し事が下手なんだよ。顔なんか見なくても、そのにやけた声だけでバレバレだっつうの。恥ずかしいヤツめ』
「うっせーよ!」
 答えに窮したことが答えになっていた。ディーノの沈黙の意味を都合よく読み違えてくれるような、組みしやすい相手ではない。
 恋愛にはまる時というのはこういうものだということは、過去の経験で知っている。四六時中相手のことばかり考えてしまうし、会えば必ず求めずにはいられない。後から冷静になってみれば顔から火が出そうなことを平気でやらかしてしまうのが、はまりたてのこわいところだ。たとえば今の自分たちように。それでも離れたくない思いのほうが強かった。
 離れて暮らす間、雲雀も同じ思いでいたのだろうか。ディーノと再会した途端、雲雀のほうからも少しでも早く、短時間のうちにできるだけ多くをディーノに与えようとしてくれた。翌週から雲雀が試験期間に入ることも幸いした。土日をホテルで過ごした雲雀は、帰り際に突然「しばらくここから学校に通う」と言い出してディーノを驚かせた。
 会いたかったから来たのだと言ってくれたのは嬉しかった。それだけではない。食が細く偏食気味の雲雀がディーノと一緒にいる時は何でもよく食べ、よく笑い、たくさんのことを話した。今まではわざと無視していた刺青に目を向けてくれたこともディーノを喜ばせた。
 そして同時に、雲雀の急激な変化はディーノの心に拭い去れない違和感を残した。
「……どーしてあんなに必死になってんのかな、あいつ」
『ん?』
「拗ねてるっつうか、怒ってるみたいな? あーこいつってこんなかわいい顔もするんだなって思ったな」
 会いたい時には会いたいと言い、自分がそうしたいと思ったらはっきり主張する雲雀のことだ、自ら意図して隠しているわけではないだろう。ならば、こちらがまだ何かを見落としているのだ。絶対に知らずにいてはいけない大事な何かを。──それを思うとたまらなかった。
『よかったな。お前はオレが思ってたよりずっと、小鳥ちゃんに気に入られてるぜ』
「どうして急にそんなにいい人っぽいコト言うんだよ。気味が悪いぜ」
『……しょーがねーから、譲ってやるか』
「何だって?」
 ディーノは半分うわの空で聞き返した。
「後ろの音がうるさくて聞こえねえよ。もう一回言ってくれ。つーかあんた今どこにいんだよ」
『オレの跳ね馬を譲ってやるって言ったんだよ』
「──え?」
 次の瞬間、電話はあっさり切れていた。
「──ディーノ」
 顔を上げると、厚い雲に覆われていた視界が突然晴れた遠くの空に、無意識にいつも目で追っている人が立っていた。
「恭弥」
 あの時と同じ顔だな、と思う。新しく入れた刺青を初めて目にした雲雀は、今と同じように何か言いたげな表情をしていたように思う。けれど言葉はなく、雲雀は無言でディーノを指した。
「……電話」
「あ、いや、……もう切れた」
 胸騒ぎが消えないまま、ディーノは沈黙した電話をカウンターにそっと置いた。
 ──なぜだろう。嫌な予感がする。
「うるさくしたから起こしちまったか? ごめんな」
 しばらく待って、やっと雲雀から返事があった。
「さっきから起きてた」
「いつから?」
 また、沈黙。こういうときに急かしてはいけない。
「後ろの音がうるさいって」
「なんだよ、けっこう経ってるじゃねえか。ずっと見てたのか?」
「声をかけないほうがいいかと思った、だけ」
 カウンターに置かれた電話をちらりと見てから、雲雀は椅子を引っぱり出してディーノの隣に腰掛けた。
「何か飲むか?」
「うん」
 冷蔵庫にフレッシュジュースがあったのでグラスに注いでやると、雲雀は素直にそれを飲んだ。喉が渇いていたらしく、あっという間に飲み干してしまった。
「電話……」
「ん?」
「さっきの、あなたの刺青を彫ったひと?」
「恭弥はホントに勘がいいな。アタリだ。お前が新しい刺青を気に入ったかどうか気にして電話してきてな。かわいいとこあるだろ。めっちゃくちゃ嫌がってたって言ったらスゲー喜んでたぜ。変なヤツだろ」
「きらいだよ」
 雲雀が空のグラスをテーブルに戻した。
 迷いなど欠片もない口調で、きっぱりと言い放つ。
「あの絵、大嫌いだからね」
「どうしてそう思うんだ?」
 雲雀は答えなかった。ディーノと目を合わそうともしない。
「あいつが言ってた。恭弥は思ってたよりずっと賢いって。少し意地悪が過ぎたってな」
 彫師の言葉はたぶん真実をついている。雲雀が無理をしてでもそばにいたがるのは、新しい刺青を見たからだ。
 自分で気づいているかどうかはわからないが、雲雀は刺青に込められた彫師からのメッセージを漠然と感じ取っている。ディーノの中に迷いが生じるのはこういうときだ。生意気に見えて中身はまだ出来上がっていないひとを少しでも楽にしてやるために、自分に何ができるだろうか。
 ディーノはため息を押し殺して雲雀に触れた。指で顎の線をなぞり、掌全体でふっくらした頬を包むと、黙って触れさせていたひとが満足そうに息を吐いて目を瞑った。膝に乗せると素直に寄りかかってくる。
「あいつの言うことは気にすんな。嫌いなら嫌いでいいから、オレにとってこの刺青が大事なものなんだってことだけ、覚えててくれればいい」
「そのひとが彫ったものだから?」
「ハズレ。こいつがすげえベタな告白みたいなもんだからだ」
 雲雀の頭がふと揺らいだ。笑っているのだ。
「あなたの言うことは、時々意味がわからないな」
「いいんだよ、今はそれで」
 ディーノは雲雀の髪にゆっくり唇をつけた。後ろから抱きすくめて、耳朶から首筋へと順番に、啄むだけのキスを何度も落とす。唇をゆっくりゆっくり、雲雀の輪郭を確かめるように上から下へと降ろしていく。少しはだけさせた肩に軽く歯をたて、反対側の首筋を下から上へ、さっきとは逆のルートを遡って辿った。
 最後に黒髪で覆われたこめかみに口づけると、それを合図に雲雀が溜めていた息をそっと吐き出した。
「もうちょっと強く抱いていいか? …っと、あ、やらしー意味じゃなくて、何にもしねーから……今は」
「やらしい意味じゃないって、なに。変な言い方」
「だな。すげー言い訳っぽい。かっこわりィ」
「……そうでもないよ」
 ディーノの膝の上で雲雀は笑い、胸にそっと頬をすり寄せてきた。ここ数日間で雲雀は以前よりもうんと自然に、ディーノに身を預けてくるようになった。一緒に過ごすうちに甘え方を知って楽になったようだ。
「久しぶりだったから……ちょっと疲れた……」
「ここんとこずっと無理させてるからな。ごめんな」
「あなたって本当に、しょうがないひとだよね」
「眠いなら、ベッドに連れていってやろうか?」
 ディーノが背中を撫でてやると、雲雀はいらない、このままがいいといって、小さな声でまた笑った。
 両腕で抱く雲雀の背中は折れそうに薄くて、細い。こちらが本気で引き寄せるとたちまち崩れて腕の中に落ちてくる人の危うさに、ディーノはいとおしさと同時に軽い戦慄を覚えた。
 雲雀は体が小さい分、同年代の少年たちよりも体重が軽い。ディーノにとっては小動物を抱えるのと同じくらいの感覚だった。だからディーノが雲雀を抱く時に重いと感じるのは、実際に腕に掛かる負担からではなかった。
 重いのは、存在としての雲雀自身だ。この華奢な体内に宿る心の重みの方がずっとずっと胸に堪える。
 大事なことを取りこぼしていることに後で気づいて、その失敗を埋めるために必死になれる現在はいい。ぽっかり空いた隙間を埋めるための距離や時間が決定的に足りない自分の代わりに、雲雀のほうにディーノを待てるだけのじゅうぶんな時間があるからだ。飛び方を知らず、生まれた場所以外の世界を知らないヒナが、巣の中でひたすら親鳥の帰りを待つように。
 生まれて間もない者たちは周囲から与えられるものをあたりまえのように受け取りながら、さらに今はまだ届かなくて当然のものを手に入れようと夢中になる。望むものに手が届かないと知れば、届くまで背伸びをしようとする。
 そうして必死で伸ばされた雲雀の手は、いつか必ず彼自身が望んだ以上のものに届くだろう。それは明日かもしれないし、十年後かもしれない。ディーノはただ息を潜めてその時を待つことしかできない。そして雲雀が自分の意思と力で羽ばたく術を知った時、彼がどう考え、何を一番に求めようとするのかを、現在のディーノには知る由もない。
 いつの日か必ず、雲雀は自力で高みを目指して飛び立っていく。その時自分は何もなくなった掌を見つめ、それから思い出したように空を見上げて、どんどん小さくなっていく愛しいひとの姿を為す術もなく見送るしかないのだろう。そんな気がしてならなかった。
(地上を走ることしかできないオレには、翼を持ついきものには絶対追いつけない、か……)
 ただの比喩だと言って、笑い飛ばす気にはなれない。
 静かに目を伏せ、自分が与える腕の中でまどろむ雲雀は、止まり木でほんのひととき羽を休める小さな鳥の姿をディーノに思い起こさせた。