いつかのメリークリスマス(2)

「今、どこだ?」
「車の中。そっちに向かってる。……並盛デパートの正面まで来た。どっちを向いても群れだらけだよ。潰したくなるね」
「そう言うな。聖夜なんだから大目に見ろよ」
「全然進みませんねえ。近くまで来てるのに。申し訳ないが、あと少し待っていただくことになりますね」
 聞き慣れたふたつの声は、耳に当てた携帯電話と運転席からわずかな時間差で聞こえてきた。
 午後6時。華やかに街を彩るクリスマスオーナメントで飾り立てられたメインストリートは、今まで見たこともないほど渋滞している。人も車も歩道も車道も区別がなくなるほどの混雑ぶり。この街に住むすべての人々が同じ場所に集まっているのじゃないかと思うほどの賑わいだ。
「それにしても、すごい人出ですね。例のどでかいツリーでも見にきてるんですかね」
 部下が言うのは、今年初めて市が企画した巨大なクリスマスツリーのこと。1ヶ月前、駅前に唐突に現れた期間限定のオブジェのおかげでこの騒ぎだ。
「たぶんあと10分くらいだよ。おとなしく待ってて」
「わーったよ。でも早くな。昼抜きだったから腹ぺこなんだよ」
 電話口で悲鳴が上がる。外国でのクリスマス休暇中でも、仕事は容赦なく追いかけてくるものらしい。
「そういや昼間ツナに会ったぜ。今夜はあいつら、山本ん家に集まって寿司パーティーだってよ。お前も誘ったけど断られたって言ってたぜ」
「先約があるからね。あなたも誘われてただろ」
「オレも同じだ。大事な先約があるからな。つうかマジで早く来い。ヒマなんだよ」
 のんびりしたムードで会話は続く。ディーノは本当に退屈していて話し相手が欲しいらしい。この調子では、実際に顔をつき合わせるまで電話を切れなさそうだ。
 ここ数年、年末のこの時期にちょうど仕事や用事が重なっていることが多く、時間をやり繰りしてイヴぎりぎりに落ち合うのが精いっぱいだったから、少々待たせるくらいはお互いさま。確実に会えるとわかれば昔のようにわけもなく不安になったり、無駄に苛立つことはなくなった。それにこういうすれ違いの状況はほぼ毎年のことだから慣れもする。確か昨年のイヴはむこうの仕事が完了してから並盛町に戻るまでの小一時間、時間が押した言い訳と「Ti amo」とを電話口で繰り返し聞かされ続けたのだっけ。
「先週までギリシャに行ってたって? 何かおもしろい発見はあったか?」
「いいや、結局無駄足だった。そう簡単に匣の謎が解明されるとは思ってないよ。だからこそ面白いし、調査のしがいがある」
「ほんと恭弥は匣のことになると寛大だよな。情熱的っていうか、妬けるっていうか」
「ばかなことを」
「本気だぜ?」
 ディーノが軽やかに笑う。冗談を言い合い、近況報告がてらとりとめのないことを話すうちに車はデパート前の大渋滞をようやく抜け、ホテル方面と市外へ分岐する交差点に出た。
 そのとき、ふと、鋭角に交わる角に立つ家らしき建物に目がいった。
「──あれは」
 何の変哲もないデザインの屋根や壁伝いに、控えめな電飾が施された質素な建物。とくに人目を引くような外観ではない。けれど、どこかが引っかかった。見覚えがあるのだ。
「哲、止めて」
「へい」
 車はなめらかに路肩に寄ると、音もなく停車した。
 ウィンドウを降ろさずにしばらく中から建物と、表を行き交う人々を眺めた。心配したディーノが電話の向こうから何度も呼びかけてくる。その声にしばらく応えられなかったのは、過去の記憶を辿っていたからだ。
「どうした恭弥、急に黙っちまって。何かあったのか?」
「いや……」
 建物の前庭と道路を隔てる門はなく、狭いポーチから続く五段ほどの短い階段を上がると、アーチ型の木製のドアが迎えてくれる。その脇に小さな看板が掛けられている。ここからは遠くて文字が読めないが、そこに書かれている内容は不思議なほどすらすら思い出せた。本日のミサは午後11時まで、明日は午前7時から……どなたでもご自由にお祈りください……。
 偶然通りかかった教会の、乳香のあまい香りが漂う空間で、二人並んで長いことぼうっとして過ごした。どちらもほとんど黙ったままで、でも暗くて見えないからと安心して、人前なのにずっと手をつなぎあっていた。あれは4年ほど前、ディーノとはじめて過ごしたクリスマス・イヴ。──街の喧噪に辟易してどこでもいいからと飛び込んだ、通りすがりの小さな教会。ここが、そうだ。
 遅れていたパーティーの用意が整うまでのあいだ、ずっとあの建物の中にいたようなおぼえがある。けれど、手をつなぐ以外に僕らはあそこで何をしていたんだろう。それをどうしても思い出せない。ずっと黙ってつっ立っていたんだっけ?
 少しでも何か思い出さないかと、しばらく考えてみたが無駄だった。あやふやな記憶はあやふやなまま、懐かしさ以上の鮮烈な思いを蘇らせることはなかった。
「ホテルと教会って歩けるくらい近かったってこと、忘れていたよ。今、目の前だ」
「おーやっとそこまで来たか。じゃあもうすぐ着くな」
「25日の午前中は、毎年ここでミサに参加するって言ってたよね」
「ん。いくら日本にいるとはいえ、教会には行っとかねーとな。恭弥も一緒に行くか? 朝早いけど」
「いいけど、起きられたらね」
「心配すんなって。起こしてやるよ」
「それなら行ってもいいよ」
 ああ、ここからホテルが見えるんだ。あそこでディーノが待っている。びっしりとあかりの灯るホテルの窓と古びた教会とを見上げながら、僕はイタリアの古い言い回しを思い浮かべていた。最初のイヴの夜、日付が変わる前に送り届けられた家の前で、別れ際にディーノが僕に教えた言葉だ。
「恭弥。まだか?」
「もう少し……、哲」
 目で合図を送ると、車は静かに動き出した。聖夜の華やいだ風景がふたたびゆるやかに流れはじめる。ホテルのエントランスが見えてくる。坂を上りきる時間すらもどかしく感じた。初めて二人で迎える本当のクリスマスを心待ちにして、ドアを開けた途端嬉しそうに出迎えてくれるひとの笑顔を、少しでも早く見たかったからだ。

"Natale con i tuoi, Pasqua con chi vuoi."

或る聖夜。2007年ヴァージョン。いつもより少し特別な日でありますように。Buon Natale!
関連作品 : いつかのメリークリスマス(1)