painfulness

ちょっと(かなり…)痛暗いです
10年後設定ほか、絶賛捏造
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 その人は呼吸器という枷を嵌められた痛々しい状態で、ベッドに横たわっていた。



 ディーノが暴漢に襲われて事故ったという第一報を受け取った時、イタリアンマフィアの一員という肩書きを背負いつつ日本で学生をしているヒバリは、ちょうど試験期間の真っ最中だった。突然の電話で彼が意識不明の重体のまま、すで一週間以上が経過しているのだと聞かされた。
 寝耳に水の急な知らせが飛び込んできたのは、事件が起こった一週間後。事故直後は生死の境をさまよっていた彼の容態が、ひとまずの峠を越えてからのことである。その上ヒバリが大学と本業とその他諸々をすべて片づけ、海を越えて先日休暇を過ごしたばかりの国に飛んでくるまでに、さらに三日もの無駄な日数を費やしてしまった。今月の初め───試験に間に合うか合わないかくらいのギリギリに、恋人と休暇を過ごすため無理やりスケジュールを調整したのが裏目に出たのだ。
 機上にいる間に容態が急変したら間に合わないかも知れないと言われていたから、迎えのジェットに乗り込む前に覚悟だけはしてきた。連絡が遅れたことについて、ヒバリは誰にも何も文句を言うつもりはない。自分たちのボスがこういう状態の時に、本来ファミリーとは関係の薄い自分という存在を思い出してくれただけで、彼の部下たちには感謝している。


 地中海を見下ろす丘に建つ小さなサマーハウスは、まだ記憶に新しい。
 二人きりで過ごした時よりも人の出入りが増えているから少しざわついているけれど、屋敷の敷地に足を踏み入れた途端にすべてがきれいさっぱりかき消されて、あちこちに色濃く残る『彼』の気配しか感じなくなった。上に立つ者には必要不可欠な強烈すぎるほどの存在感というのは、こういう時には少し厄介だ。
 玄関前に二脚の椅子がぽつんと置かれていた。ここから見える海を一緒に眺めようと言って、ヒバリが帰国する朝にディーノがわざわざリビングから運んだものだ。ヒバリが最後に見たままの位置にまだあった。
(結局、部屋に戻さなかったんだ。外に置きっぱなしにすると潮風で木が傷むからって、あれほど言ったのに。本当にしょうがない人だ……)
 それはディーノのせいではない。戻さなかったのではなく、戻せなかったのだ。
 アンティークチェアの背もたれにかけた自分の手元をぼんやりと見下ろす。一旦はリビングに運ぼうと思いついたものの、どうしても体が言うことを聞かなかった。ディーノの痕跡を消し去るような気がしたからだ。
(この家、とても気に入っていたのにね)
 ファミリーの本拠地に近く、けれども適度に距離の置けるこのリゾート地に別荘を探そうと提案したのは、ディーノ本人だ。
 マスターベッドルームとリビングとダイニングキッチン、大型犬が運動するにはお誂えむきの広い庭と、豪華な内装の贅沢なバスルーム。プールからあがったらすぐに駆け込めるキッチン脇には、独立したシャワールームが設えられている。それにゲストルームが三つ。
 ひとつひとつの部屋はそこそこ広いけれど、たったそれだけの隠れ家。
 ちょうど良い物件が見つかった、一刻も早く恭弥と過ごしたいとわがままを言って、ディーノは本来休みではないヒバリの元へ突然迎えを寄越し、強引に飛行機に乗せた。いつもの彼らしくない、常識に欠けた突飛な行動だと思ったけれど、警備の部下まで一切追い払ったから来いという誘惑には抗えなかった。
 それが良かったのか悪かったのかはわからない。ディーノはヒバリとの蜜月を過ごした後、ヒバリを空港まで送り届けた帰り道で敵対する組織の者に命を狙われた。警備のために追いついた仲間たちの目前で、乗っていた車ごと銃弾を食らったのだそうだ。生きていたのが不思議なくらいで、屋敷に入る前に事故車を見せてもらったけれど、とりあえず運転席は原型を留めていないほどめちゃくちゃに潰れていた。方向性を失って暴走する車を止めるため、ディーノは迷わず道路脇の大木に頭から突っ込んだのだ。町中で仲間や住民を巻き添えにしないだけで精一杯で、自分の身を守ることを思いつかなかったとは、本当に彼らしい。


 屋敷に到着したヒバリがまず通されたのは、クリーム色の壁に囲まれたこぢんまりした一室だった。内装にあまり見覚えがないのは、滞在中に一度も使わなかった部屋だからだ。地中海風のリビングの明るく洒落た雰囲気とは違い、その部屋の家具はすべてオーク材で揃えられている。全体が温かみのあるブラウンを基調にした重厚な雰囲気で、にわか仕立ての病室というよりは本国のディーノの自室を思わせた。
「容態は?」
「身体の方は奇跡的に助かった。笑えるくらいあちこち折れまくって傷だらけだが、まーボスだからな。元から模様とおんなじくらい縫い目だらけだし、リハビリをさぼらなけりゃ事故る前よりスムーズに動けるようになるってよ」
 生前のディーノが一番信頼して、いつも傍から離さなかった古株の部下は、もう何日も眠っていないようで、病室に入るなりサングラスを外して目をしょぼつかせた。
「あとは……はっきり言って五分五分くらいだと。ウチのヤブ医者が自信を持って言いきりやがった。マリオっていうアル中のおっさんでなァ。どーしようもない飲んだくれだが、むかつくことに腕は確かなんだこれが。少なくともオレは、あいつの見立てが外れたところを見たことがねェな」
「その確率は彼の目が覚めるか、覚めないかってこと?」
 ロマーリオはヒバリを気遣うように振り返ったが、ヒバリの心情を推し量ってかすぐに後を続けた。
「いいや。こうして眠り続けてベッドの上でじいさんになるか、それともきれいなまま神様が急いで連れていっちまうかってこと……だとさ」
「そう」
 ヒバリはゆっくりと目を閉じ、口の中でもう一度「そうだろうね」と呟いた。
 キャバッローネのお抱えである青ひげマリオの自慢話は、ディーノから散々聞かされている。それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。同時にヒバリは心のどこかでホッとしている自分に気づいた。傷つけられたのは首より下だったようで、顔面には包帯は巻かれていず怪我の痕跡もほとんどなく、足長のアイアンベッドで寝ている彼の口元をこれ見よがしな機械が塞いでいなければ、暢気に昼寝でもしているようにしか見えない。とても穏やかな寝顔だ。
「時差ボケで体がきついだろ。隣にもう一つベッドを用意させようか?」
 ロマーリオの親切な申し出をヒバリはいや、いいと言って断った。普段とほとんど変わらぬ彼のくだけた口調が、今はとてもありがたい。ディーノが彼を手離さなかったわけだ。
「平気だよ。予期せぬバカンスのお陰で、日本に帰ってからはとんでもなく忙しかったからね。前の時差ボケが治る暇もないくらいだった。君は僕よりも自分の心配をしたら? 目の下がひどいことになってるよ。僕がしばらくついてるから、どこかで休んでくるといい」
「おお。わがまま坊やがいっぱしの大人になったもんだ」
 ロマーリオはうれしそうに目を細めているが、ヒバリは苦笑するしかない。親切心から出た言葉ではなかった。慣れない土地で意識のないディーノを前にして、この上彼の有能な部下にまで倒れられたら、一番困るのはヒバリ自身なのだ。
「ベッドに寝転がってすぐに眠れるなら、ぜひともお願いしたいところなんだがな。残念ながらこの年になるとどうも眠りが浅くなっちまって、横になってもウトウトもしねえんだ」
「年寄りみたいなことを言うね」
「そりゃあそうだろ。初めて会った時は15くらいだったあんたが、……そういや、あんた今年でいくつになったんだっけ?」
「25」
「そうか。もう10年になるか。認めたくないが、やっぱりオレもしっかり年取っちまったんだなァ」
 サーヴィスタイムはこれにて終了。狸オヤジは芝居がかった笑顔を急に引っ込め、代わりに少しだけ弱音を吐いた。子供時代からよく知られている若造でも役に立つことはあるらしい。
 ロマーリオの軽口を聞き流しながら、ヒバリは先ほどつい思い浮かべた言葉をおそるおそる掘り起こした。生前の、だって? ベッド脇に置かれた精密機械のディスプレイには、微弱ながら数種類の異なる波線が途切れなく流れている。眠れる男の心臓やその他の身体機能がきちんと働いている証拠だ。今、自分の目の前でディーノはしっかり生きて、しっかり呼吸している。それなのにすでに諦めているかのような思いを抱いてしまい、さすがに気が咎めた。
「そう言えばレオンは? どこ?」
「レオン? ああ、ここで飼ってたでかい犬のことか。昼間は庭に出して夜は玄関につないでる。悪いが今はキッチンに閉じこめてある。ボス・ディーノの傍にいたがったんだが、あんまり吠えるもんだから。病室に犬を入れて騒がれるとまずいだろ」
「僕がいればレオンはディーノの寝ている横で煩くしたりしないよ。大丈夫だから連れてきて」
「わかった。ちょっと待ってろ」
 ロマーリオはそう言って部屋を出ていった。人の気配が一人でも減ると、途端に部屋中の電源が落ちたようにシーンとする。そこにただ立っているだけで圧倒される、生きた人間の発するパワーには時々驚かされる。奔放で巨大なエネルギー体が去ってしまうと次に耳につくのがコンピュータの稼働音という事実に、ヒバリは軽いショックを覚えた。人は眠るとこんなにも気配を潜めてしまうものなのか。
 ヒバリは昏々と眠り続けるディーノの顔を見つめた。手を握るとほんのりと温かい。けれども握り返してこない。目を開けない。目蓋が時々震える。笑わない。目の前にいるのに名前を呼ばない。
 お帰り恭弥。なんだよもう戻ってきちまったのか? オレはうれしいけどな。
 目を閉じれば少しは気が紛れるかと思ったのに、たいした効果はなかった。それどころか、ほんの十日ほど前に笑顔で別れたばかりのディーノの姿が頭の中に次々と浮かんでくる。堰を切ったように溢れ出した記憶の奔流は止めようがなかった。
 清潔なベッドの上で彼は今にも目を開け、にっこり笑いながら起き上がりそうに見える。『会いたかった』という声が聞こえてこないのが不思議でならなかった。