paifulness [2]

 しばらく眠っていたようだ。

 顔を舐められる生温い舌の感触で起こされた。表面がざらざらしていて少し気持ち悪い。人間のものではないな、とまっ先に思った。いくらディーノが年甲斐もなく悪戯が過ぎると言っても、まさかこんな不躾なことはしないだろうし。
 とっくに日は落ちてしまっていて、開け放した窓の外が暗い。季節がよいから寒さは感じなかった。ヒバリは身動きしない怪我人に覆い被さるようにして、いつの間にか意識を失ってしまっていた。自分では平気だと思っていたけれど、やはり時差が堪えていたのかも知れない。
「君だね、レオン。元気だった?」
 ヒバリはうっすらと目蓋を上げた。首を巡らせて傍らを見遣ると、毛むくじゃらのセントバーナード犬が遠慮がちにウォンと返事をした。十日ぶりに再会したレオンはヒバリの足に自分の身を押しつけるようにして、足下の床に蹲っていた。ふわりとして肉厚の体からは温かい体温が伝わってくる。肩から毛布が掛けられているのはロマーリオの仕業だろう。
 ディーノの様子は眠る前と全く変わっていなかった。
 ヒバリはレオンの下顎の奥のほうに手を差し込んで撫でてやりながら、
「遅くなって悪かった。ほったらかしにされたみたいだね」
 彼にもね……と呟くように言って、ベッドの上のディーノにもう一度視線を移す。
 曇った生命維持装置の内側で、唇がうっすらと隙間を作っているのが見えている。決して目を開けることを期待したわけではなかったが、ヒバリはしばらく彼の寝顔から目が離せなかった。
「君の主人は眠ってる時だけは、本当にかわいい顔をするよね。寝起きと寝相は悪いけど」
 レオンが気の抜けた声で唸った。人間で言うと「そうかな?」と首を傾げた感じだろうか。「そうだよ」と表情をゆるませてヒバリは手を伸ばし、自分のかたちにしわくちゃになったディーノの毛布をそっと直した。夜の匂いがする。

















 ヨーロッパの温暖な気候の日差しというのは、本当に日本のそれとは色合いがまるで違う。
 太陽は絵の具で塗ったような金色だし、海もまた絵画でしかあり得ないような深くて濃い青だ。ヒバリが初めてこの家を訪れた日は朝から快晴で、海と空の色はほとんど見分けがつかないくらいだった。
 時折沖で波が起こるとそこだけがまっ白の面状に浮き上がって、自然のキャンバスをくっきりと縁取る。別荘の背後には天国に続く砂色の建物が階段状に連なっていて、まるで映画のワンシーンのように美しい。
 どこを見渡しても一点の曇りもなく景色が輝いていて、何もないのに絵になる光景がそこらへんに転がっている。空港から屋敷に向かう道の途中でディーノは海岸に面した道路脇に車を止め、ここから眺める風景は最高だろ、一目で気に入ったのだと青空を指差して言った。


「恭弥!」
 相当な年代物のシボレーのドアを足で蹴り閉めながら、ディーノがヒバリを振り返って呼んだ。大きなトランクを肩に担いでいて、手が使えなかったからだ。
「どうだ、いいだろ?」
 ヒバリは珍しく、そうだねと素直に同意した。あちこちがすり切れた革製のトランクと、それより少し小さめのリモアを同時に運ぼうと奮闘しているディーノを置いて、先に奥へと続く舗道を上がっていく。
 その家は小高い丘の斜面を広く楕円状に切り開いた土地に建っていた。少しくすんだ石灰壁と褪せた煉瓦色の平屋根と、両開きの張り出し窓と。丘の麓から見上げていた時は濃い緑色をした低木の垣根に阻まれてわからなかったが、建物に近づくにつれて、まず一面の芝生が目に入ってきた。庭が驚くほど広く、中央に大きなスプリンクラーがそびえ立っている。目隠しの木々の間に季節の花々が散りばめられているからか、庭には甘い香りが満ちていた。手入れが充分に行き届いた簡素な建物の、年月を経て生々しさの殺げた風情も悪くない。実家が旧家だったせいもあり、見飽きた日本家屋よりもこちらのほうがよほどヒバリの好みだ。
 建物の正面の横にも縦にも長い扉を押し開けると、中は意外にも涼しかった。窓を全開にすれば海風がよく通るからだろう。わがままな恋人が華美な室内装飾を嫌うせいで家具や調度品は最小限に留められており、メインである居間も寝室も広々としている。
「気に入ったか?」
 ディーノがふたつのトランクを床に降ろしながら、リビングルームの中央に立って周囲を見回しているヒバリに気障なウィンクを投げた。ちらりと視線をくれる年下の恋人に、にっこりと笑いかける。
「な。強引に拉致られて正解だったろ」
「外国人は本当に器用に片目をつぶれるよね。感心する」
「外人が器用なんじゃなくて、オレがすごいんだって」
 ヒバリは無表情に肩を竦めた。
「暑くてしょうがないから、先にシャワーしてくる。荷物は頼んだよ」
「って、いきなり放置プレイかよっ」
 ひどい、冷たい恭ちゃん、とわめくディーノの声を背中で聞きながら二週間の特別休暇は始まった。


 なぜディーノが無理を押してまで会いたいと言い出したのか。
 その答えは、このささやかな現実逃避が終わるまでには聞けるだろう。ディーノの誘いを受けた時から、漠然とだが何かあるとは感じていた。けれどもヒバリはそれを自分からは聞き出すつもりはなかった。彼が言いたければ言えばいいし、言いそびれたならば今までと同じように「また今度ね」で済む話だからだ。
 跳ね馬ディーノと出会ってから10年。
 特別な感情を交えて寄り添うようになってからも同じだけ。少し長すぎたかと思う反面、何を今さらという気もする。わざわざ区切りをつけるのを面倒だと思う気持ちも少し。この時期に一度に、しかも複数の重要なイベントをあちこちで引き起こされるかと思うと始まる前からすでにうんざりしてしまうのは、ヒバリの昔から変わらぬ性分だ。


 ディーノからの急すぎるバカンスの申し出があった日より、遡ること三日。
 ヒバリよりも一足先にイタリアに渡っているボンゴレファミリーの次期ボスから、直々に連絡が入った。ボンゴレの10代目とは、つまりヒバリの中学時代の後輩である。
 彼の話によると、今年の降誕祭の時期に遅れていた新ボス襲名披露のため、ファミリー全体に招集をかけることが正式に決定したのだという。その時には数年ぶりに元同級生や野球少年、スモーキンボムといった昔の顔なじみ───新たなトップの元に集う新幹部たち───が一同に顔を揃えるのだという。いよいよ全ファミリーをあげての世代交代を行う時期が来たのである。
 あの男たちと一緒に仕事をすることは10年前に自分で決めたことだから、正直言って「やっとか」くらいの感慨しかない。不本意だが約束させられたという理由もあるが、第一には日本国内で裏から政治を動かすよりも自由にやれそうなところが気に入った。向こうがヒバリの気性をよく理解しているから、妙な馴れ合いもなく楽に動ける。そこはかなり重要な点だ。他人と協調することをとことん嫌うヒバリは沢田率いるボンゴレファミリーに身を置くことで、ある意味理想的な仕事環境を手に入れることになるのだ。それは歓迎すべき現実だった。
 コン、と高いノックの音が聞こえ、一瞬で現実に引き戻された。恭弥、聞こえてるかとディーノが呼んでいる。
「ああ聞こえてる。もう少しだから待ってて」
 咄嗟にそう言ってしまい、心の中で舌打ちする。この家の清潔で明るく開放的すぎる雰囲気がいけない。普段は思っていても絶対に口にしない類のさむい科白がすらりと出てきた。
「タオルはここにおいとくからな。湯加減はどうだ? 何か不都合はない?」
「大丈夫だよ。本当に、何も問題はないから……入ってくるなよ」
 ぎゃふん、という擬音をまともに口にして首を竦めるディーノの姿が、湯気と水滴で曇ったバスルームのガラス越しに影のように映った。漫画どころか日本製の映画すらよく知らないはずの彼が、とっくに死滅した古典ギャグをどこで覚えてきたのだか。外国人はたまに思いがけないところで日本文化にマニアックだから困る。それに黙っていれば見られるのに、生来のサーヴィス精神旺盛な性格がいつも災いするのだ。
 跳ね馬ディーノ。キャバッローネの10代目にして、実質的にヒバリをこの世界に引きずり込んだ張本人。
 むしろ問題なのはこちらの方だ。あれがなければこれもなかった。ひとつひとつの事件は独立して派生しているように見えて、実に見事な連鎖で繋がっている。すべての事柄の根幹はひとつだ。わかっている。昔から嫌と言うほどに理解している。マフィアのボスから白羽の矢を立てられることがなければ、特訓という名目で裏社会のトップの一角に君臨する男と引き合わされることはなかったし、その後ここまで深く関わることもなかった。

 恭弥。
 ディーノが呼んでいる。恭弥。こっちへ。

  早く。

         ───おいで。




「…………あ…っ」
 腰の裏に突然走った軽い衝撃にのけ反った拍子に、ヒバリの喉元めがけてディーノが食らいついてきた。自力では鍛えられない柔な部分に乱暴に歯を立てられる。
「いたっ……」
「おしおきだ。つうか、もうちょっと集中してくれねー?」
 あとちょっとでいいから、オレに、と不満そうに、念を押すように言われてしまった。
 ヒバリは吐き出しかけたため息を寸前で飲み込むと、黙って閉じかけていた膝を開いてディーノを迎え入れた。こういう事態でゴメンというのは憚られる。何に、誰に謝っているのか混乱するからだ。