上手にエサを与えましょう

 恭弥が機嫌よく朝食を食べているあいだに、オレは横でリボーンからもらった飼育書を開いた。食事のあいだは恭弥から目を離さないというのは鉄則で、するとオレはすることがなくヒマなので、そのあいだに飼育書を読むのが日課になっている。本は二冊あり、まずは復習を兼ねて市販のほうから目を通すことにした。
 はじめは面倒くさいなあと思っていたのだが、飼育書というのは読み始めるとなかなかおもしろく、何度読んでも発見がある楽しい本だ。うさぎという動物は表情に乏しくおとなしいだけかと思いきや、鳴き声や行動に他のペットにはない特徴があって、それを知り出すとどんどん興味がわいてくるから不思議だった。
 いくつかの項目の中から気になるものをピックアップして付箋をつけてあるのは、ここ一週間の勉強の成果だ。ほとんど押しつけられたとはいえ、いったん預かると言った以上、飼育を疎かにして病気になったり最悪死なせたりするのはゴメンだからな。
 うさぎの餌に関する章の最初の項目は、授乳期および離乳食編。
 一般のうさぎは離乳までに生後五、六週かかるらしいが、この種の離乳は異常に早く、恭弥はふつうの食事を摂れるようになるまで二週間かからなかったそうだ。オレのところに来たのは離乳後だったから、この項目は飛ばしてもいい。
 付箋をはがして次に進む。次頁、エサの与え方。
 ざっと目を通しただけで次に進む。エサは動物を飼育するうえで最も重要な項目のひとつだが、これに関しては市販の飼育本はまったく役に立たないのだった。なぜなら恭弥はペレット(うさぎ専用の固形餌)を食べない。身体構造や成育に必要な栄養素や代謝機能が、本来のうさぎとはかけ離れているからだ。
 なぜそれが判ったのかというと、リボーンがくれた飼育本の中に手書きの追記が挟まっていて、それに書かれてあったのだ。曰く『うさぎとこの種の相違点とそれについての対策』。これもリボーンが仕込んだものに違いなかった。しかももらった飼育本と同じくらいの厚みがある。なら市販の本はいらねえんじゃねーか、と思ったが、師匠の気遣いを無駄にするようでそれついては触れないことにした。
 リボーン版手製飼育書(長いので略して『リボーンの書』とする)によると、恭弥を含むうさぎの変種の食事は量や時間や主食以外の野菜や果物との比率などの基本的な決まりはあるものの、ほとんどが人間の子供と大差ないようだ。要は子育てをするつもりでやればいいと言うことらしい。自分の子供を育てたこともないのにと思うと複雑だが、予行演習と思えば(?)やってやれないことはないと明るく考えることにした。
(部下たちだって恭弥をペットとしてよりか、人間の子供として扱うほうが気が楽だって言ってたしなあ)
 一週間前の出来事を思い出すと泣けてくる。
 オレが突然恭弥を連れ帰ったときの部下の反応は、それはもうひどいものだった。俺たちのボスが幼児誘拐に走っただの、そんなあぶない性癖だったとは知らなかっただのと散々な誤解をされた末に、ツナの取りなしでようやく濡れ衣が晴れたのである。「日本の警察に追われても俺たちはボスのために戦うぜ!」と涙ながらに言われても、正直あんまりうれしくなかった。リボーンはその間どこかに姿をくらませていた。
 だが部下たちの驚きようは、恭弥の容姿にかなりの問題があるからに他ならない。
 なにせ恭弥の見た目は、人間の幼児にそっくりなのだ。
 他の三匹は体も大きく、それに比例してか目立つ耳やしっぽがあってペットだと言い張ってもそれなりに説得力があった(?)のだが、恭弥の容姿はそいつらとも微妙に違い、パッと見はふつうの赤ん坊とまったく変わらない。事情を知らない他人にむかって「恭弥はうさぎだ」と主張したら、あたまは大丈夫かと心配されてもしょうがないくらいに人間ぽいのである。
 恭弥にも小さいがしっぽはある。それは初日にぱんつを剥いで確認済みだ。
 大きめのビー玉くらいのころころした毛玉みたいなのが尾てい骨の真上くらいに生えていて、なるほどつまんで引っ張っても取れなかった。しかしリボーンの書によると、この種は成体になると尻尾が取れるのだそうだ。
 しかもしっぽネタにはオチがあって、なんだそれ、変なのと思って恭弥の毛玉しっぽをまじまじ見ていたところを、運悪く部下の一人に目撃されてしまったのだ。部下は何も言わなかったが、なんとなーく決まり悪そうな顔で目を逸らされたされたのはかなりショックだった。
 成人男性が幼児のはだかの尻を凝視するというのはさぞかし寒い光景だっただろうが、しかし見た目はアレでもあくまで恭弥はペットであって、あくまでもうさぎなんである。血統書にもそう書いてある!(の、ようなもの、とも書いているが)
 一方、耳の存在は、恭弥を引き取って一週間が経過した現在まで未確認のままだった。頭頂部の両側──人間の耳の位置のちょうど直線上くらいに──それっぽいものがあるにはあるのだが、ちゃんと触って確かめてみたことはまだなかった。恭弥は頭をさわるとものすごく怒るので、うさみみを確認するのはうさしっぽを拝むより何倍も困難なのである。
 オレは恭弥に耳があるのかないのかを確かめたい一心で、実は今日の午後に、はじめてのグルーミングを計画しているのだった。外出から帰ってきたら実行しようと思っている。
 そのせいで、オレはつい熱心に『被毛のケアとスキンシップ・グルーミングできれいな毛並みを保ちましょう』という章を読み込んでしまい、恭弥の存在をしばし失念していた。
「ん? どうした? 水が器官にでも入ったか」
 気づくと、恭弥がけほけほと咳をしている。さっきうれしそうに水を飲んでいる姿を横目で見たのだが、いまは苦しいのか恐い顔で体を丸め、転がるようにして水の入った大きめのスープカップに顔を突っこもうとした。カップが傾いて水がこぼれる。
「うわっ、こらっ」
 恭弥は水浸しの床に尻餅をついたかと思うと、奇声を上げながら服のまま水たまりに腹這いになった。水泳のクロールみたいに手足をバタバタさせている。うまく水を飲めなかったので癇癪を起こしているのだ。
「じっとしろって、暴れるなよっ」
 びちゃびちゃのまま抱き起こして乾いた床に座らせ、立てた膝で恭弥を挟む。こうすると動けないから扱いやすいのだ。恭弥はいやがって、さらに暴れようとする。咳も止まらない。
「ロマーリオ! 悪い、水の替わりを持ってきてくれ。恭弥がこぼしちまった」
「わかった、ちょっと待ってろ」
 部屋の向こうから返事が聞こえ、すぐにロマーリオが別のカップを持って現れた。
「まった派手に暴れてんなあ」
 オレと恭弥と部屋の大惨事を見て、やれやれというように肩を竦める。毎日がこれだから敵も慣れたものである。
「急に咳き込んで暴れ出したんだ。なんか苦しそうで」
「とにかく水、持ってきたから。飲ませてみろよ」
「ああ。ありがとな」
 差し出されたカップを受け取って飲ませようとすると、恭弥はいったんのみ込んだ水をこふっ、と吐き出してしまった。
「だめだ、飲まねえ」
「貸してみな」
 ロマーリオはオレの膝から恭弥を抱き取ると、オレの隣にあぐらを掻いてその間に恭弥を座らせた。小さな背中をこぶしでとんとんと軽く叩いてやると、ぷっと息を吐いて恭弥の咳が止まった。
「すげーな! 止まったぞ! なんでだ?」
「なんでもなにも、げっぷさせただけだぜ」
「げっ……ぷ?」
 驚くオレを後目に、ロマーリオは恭弥の口からこぼれた水を拭き取ってやっている。
「ホントはもっと小さいうちにするもんだったと思うけどな。赤ん坊に水とかミルクとか飲ませるときは、あとでこうやって背中を叩いて空気を抜いてやるんだよ。赤ん坊ってのは、水を飲むときに一緒に飲んだ空気を自力で吐き出せないからな。子供ってのはそうやって親に助けてもらいながら、少しずつ人間として生きる方法を覚えていくんだ。動物だってそれは同じだろ。もしかするとこの子らは離乳が早いぶん、いろんな学習を一度にすんのかもしれねえな」
「知らなかった……」
 ロマーリオはほい、と恭弥をオレに渡しながら苦笑した。
「心配するなよ、ボス。未婚の男は誰でも、ふつうはそんなこと知らねえよ。それより早く着替えさせねえと、恭弥が風邪を引くぞ」
「おまえだって子供育てたことなんかねえだろっ。なのになんで知ってんだよ」
「こう見えてもオレはあんたよりか長く生きてる分、人生経験が豊富なんでな。あーオレ着替え取ってくるから、そのあいだにタオルで恭弥の服拭いてやっとけよ」
 なんでもない顔でそう言うと、すたすたと部屋を出て行ってしまった。
「くっそ〜……」
 なんかくやしい。男として負けた気がする。
 人生経験の差はあっても、一時的にではあっても、恭弥の親は他の誰でもなくオレなのだ。知らないことやできないことがあるのは悔しすぎる。
「恭弥、水、もっといるか?」
 話しかけながら、自分の手元に戻ってきた恭弥の口元にカップを近づける。恭弥がぷいっと顔を背ける。
「あれ?」
 おかしいな、と思ってもう一度。ほら水だぞ、飲め。
 食事のあとにきちんと水をもらっていないから気持ち悪いらしく、しきりに口をもぐもぐしているのに、恭弥はどうしてもカップから水を飲もうとしない。
 何度か試して、ふと思い当たった。
 これは、もしかして。
『上手なエサの与え方』
 確か五章はそんなタイトルだった。成長に応じたエサの与え方や保存方法、小食にならないために飼い主が気をつけてやらなくてはならないことまでがびっしり書いてあったように思う。
 その章に関連して、例の手書きの追記にこんな一節があった。
『ごはん嫌いの子にならないために、気をつけなければならないことがいくつかあります。この種はまれに非常に気位が高く、わがままな子がいます。ごはんを食べ散らかしたことを怒られて以来食が細くなったり、食べさせ方を失敗するとごはん自体をきらいになったりすることがあるので注意しましょう』
「なにやってんだ、ボス?」
 着替えを持ったロマーリオが戻ってきた。心配そうにのぞきこんでくる。
「なんか今度は、急に水をいやがるようになっちまった」
「あー。それって」
 ロマーリオはオレが恭弥をもらってきたときに、一緒になってリボーンがくれた飼育書を読んでいる。恭弥の行動の意味がすぐにピンときたようだった。
「さては失敗したな、ボス。さしずめ恭弥のやつ、カップから上手に水を飲めなくて、水飲むのがいやになっちまったんじゃねえかなーはははは」
「んーたぶん、そうなんじゃねえかなー……はははは」
『一度ごはんに失敗すると直すのが大変です。偏食を防ぐためにも、ごはんは慎重に与えてください』
 なんて笑っている場合じゃない。
「どーすんだよっ! ごはん食べなくなっちまったら、恭弥死んじまうじゃねえか!」
「落ち着けボス! いやがってんのはまだ水だけだ! ていうかこんなときこその飼育書だろーがっ」
 さすがは年の功。いいところに気がつくな!
「そ、そーだったな。えっと、ごはん、ごはん、エサ……あった!」
 慌ててページをめくっていくと、エサの与え方を記した章の最後に、エサを食べなくなった子に対するケアの方法がいくつか書かれてあった。安心してちょっと泣きそうになる。
「……『急激に違うペレットを与えないこと。拒食するようになったら、必ず元の餌に戻すこと。ペレットをまったく受け付けなくなったら、すぐに病院に連れていくこと』……?」
 大の男がふたりしてうさぎの飼育本をのぞき込んで、同時に顔を見合わせる。なんって寒い構図なんだ。しかも。
「なんだこれ。全然役に立たねー! ていうかこれってふつうのうさぎの話だろー! 恭弥はふつうじゃねえんだって!!」
「ちがうちがう。ボス、こっちだ。リボーンさんがくれた本にならきっと書いてある!」
「そそそそうだなっ」
 パニック状態に陥りかけたオレだったが、ロマーリオの励ましで気を取り直して『リボーンの書』を光速でめくると、
 ──あった!
「あったぜ! 『ごはんのトレーニングに失敗したとき。好き嫌いができたときは』」
 コレだーーっ!!
「でかしたぞ、ボス!」
 いつのまにかロマーリオも必死だった。メガネの奥で瞳孔が開いている。
「早く、早く読めよ。なんて書いてある?」
「まあ待て待て。今読む」
 オレは焦るロマーリオを手で制すと、深呼吸をしてから大声で本文を読み上げた。
「いいか? 『この種は気難しいため、ごはんトレーニングに失敗することはよくあります。生まれつき偏食傾向が強く、一度何かをきらいだと思い込むと頑なにそれを食べることを拒む個体が多く見られます。しかもプライドが高い個体の場合、きらいなモノを無理に口に入れようとすると必ず咬まれます。』」
「うんうん」
「『この種の偏食を直すには、飼い主の根気と愛情が不可欠です。心を砕いて食事を作り、やさしく見守りながら少しずつ与えることで、ペットは一度はきらいになったものを口にすることがあるかもしれません。あきらめずに何度もチャレンジする気持ちが大切なのです。』」
「そりゃそうだ。だよなー。人間の子供だって同じだよ。恭弥の場合は食べ物じゃないが、水だって恭弥にとっては大事なもののひとつだしな。ここで直しておかないと大きくなってコップから水も飲めねえようじゃ、恭弥自身が困るよなあ」
「『偏食撃退には時間が必要ですが、ひとつの効果的な方法として、飼い主がまずペットがきらう食べ物をかれらの目の前でおいしそうに食べ、』」
「うんうん」
「『さらにそれを飼い主の口からペットの口へ直接与えてやることで、ペットにそれが安全で、かつ美味しいものだと思わせることができるかもしれません。』」

 オレの膝の上で、恭弥がふあああ、とあくびをした。

 眠いのかな。朝ごはんはほぼ終わったしな。寝床に連れていって眠らせてやったほうがいいかもしれない。オレは仕事に行かなきゃならねえし、ロマーリオにだって自分の仕事がある。それに今日は仕事を早く切り上げて、楽しみにしていたグルーミングをするつもりだったんだっけ。

「………………じゃあオレは、そろそろ仕事に」
「ボス」
「なんだよ」
「なんだよじゃねえよ」
 こわい顔で、こわい声で呼び止められて体が固まる。ここで振り向いたら負けだ。なんとなくじゃなく。オレは絶対に振り向かないぞ!
「ボス。オレは仕事に戻るから、あとは頼んだぞ。恭弥の飼い主はあんただからな。オレは仕事に戻るから」
 二度も言わなくてもいいだろう。
「それから、しばらくこの部屋には誰も近づかせねえから安心しろ」
「うるせえよっ」
 ロマーリオは二度とオレと目を合わせようとはしなかった。
 すっくと立ち上がると、右腕と右足を、左腕と左足を同時に動かしてぎくしゃくしながら部屋を出て行ってしまった。
 ぇくし、と恭弥がくしゃみをした。そういえば濡れた服を着せたままだった。ロマーリオが持ってきてくれた着替えはそこにある。オレはのろのろと新しい服を手に取ると、膝に乗せた恭弥のくろい頭を上から見下ろした。
「とりあえず、着替え、するか……」
 恭弥がコップから水が飲めるよう口移しでしつけ直す勇気が出るかどうかは、それからの話だ。

update: 06.11.9-10