free bird

 本国に戻って三日目。
 ディーノはぶつぶつと独り言を呟きながら、明るい太陽の降り注ぐ屋敷の庭を横切り、お抱え刺青師のアトリエに向かっていた。やっと時間の余裕ができた、作業にかかれるからそっちへ向かうと、自ら彫り師に連絡を入れた日の午後のことである。
「まいったなー……。まァたあいつに怒られちまう」
 ところどころに植えられた大木の前で立ち止まって、顔を上げると、直線上にこじんまりした彫師の屋敷が見えていた。
あと数分というところで足を止め、腕時計を確認して頭の中で残り時間を計算する。およそ五分。そう判断すると、ディーノは手近の涼しい葉陰に非難してポケットから携帯電話を取り出し、慎重に確かめながら番号を呼び出した。
 まだあまり見慣れていない番号が液晶画面に浮かび上がった。通話ボタンを押し込むと、一見無意味な数字が点滅を始める。現在、海の向こうの国は何時だったか。とっさに時差を計算できないまま、一向に通話開始表示にならないアイコンをじっと見つめた。
 しばらくの間──もう切ろうと決めてからさらに五秒待って、ディーノは電話を切ってまたポケットにしまった。時間切れだ。
 激しく気が進まないが、かといってあまりゆっくりしていると約束の時間にどんどん遅れてしまう。ディーノは何度目かこぼれそうになるため息を押し殺すと、日の当たる芝生を踏みしめてのろのろと歩き出した。


 しぶる彫師を説得して望み通りの仕事をしてもらう約束を取り付けてすぐに、ディーノは再び日本へ向かうことになった。本当は少なくとも一ヶ月くらいは自宅にいられる予定で、彼にもそう言っていたのだが、その直後に同盟関係のいざこざの調停を頼まれてしまい、急遽予定を変更せざるを得なかったのだ。
 これにはさすがのディーノも慌てた。何とか時間を調整して出発の日を一週間先まで延ばすことはできたが、だからといって問題が解決したわけではない。
 タトゥーはそうでなくても時間の掛かる作業だ。
 まずは下絵に添って、線描きだけで全体のモティーフを入れる。そこから一週間ほど間をおいて、筋彫りと呼ばれる作業でできた瘡蓋が完全に消えてから、細部に彩色を施す作業に入るのが通常の手順である。全体に彩色がなされたのちに、さらに柄と柄の隙間に地紋や違うモティーフを描き加えていく場合もある。
 一度に仕上げる範囲が広かったり、柄が複雑だったりすればそれだけで時間を食うし、それぞれの職人の手の早さによっても仕上がりの速度は全く違ってくる。実際にディーノは彫師から、今回の仕事に少なくとも一ヶ月は費やすつもりだと聞かされていた。
 それがいきなり、数日後にイタリアを発つことになるとは。予定が崩れるにもほどがある。ディーノがアトリエに通えない最初の二日で図案を考え、こちらの到着を待ちかまえている彫り師を訪ねる足取りが重くなるのも無理はない。この急な出張が彼を激怒させるのは間違いなかった。
 ディーノは今日も無意味に開放的な玄関を素通りして、彫師の屋敷に入った。迷わず廊下を進み、住居部分を足早に通過して突き当たりにある物置の左手前の部屋の前で足を止める。そこが彼のアトリエ──施術室だった。ドアは開いていた。中を覗くと、彫師は入り口に背を向けてデスクの前に立っていた。正面の壁に掛かるクラシックな柱時計に慌てて目をやる。宣言していた到着予定時間より十五分オーバー。館の主の許容範囲ぎりぎりだ。
「ホントにすまん! 出がけに電話に捕まっちまって」
「うるせえなあ」
 彼はディーノの方を見向きもしないで、後ろで一つに束ねた黒髪をバサバサと振った。うっとうしいなら切ればいいのにと思ったが、余計なことを言うと機嫌を損ねるだけだから黙っておく。しばらく待ったがなかなか返事が返ってこないので、ディーノ入り口から体半分だけ身を乗り出しておそるおそる声をかけた。
「……入っても?」
「いいぜ。いい年して躾のなってねえ犬っころみたいに、人ん家でキャンキャン騒がなけりゃな。つうかそんなトコでぼやっと突っ立っていられたら邪魔なんだよ。さっさと入れ」
 今度はすぐに返事が来た。嫌みったらしいため息の後に、だったが。
「あ、そ。じゃあ、入るぜ」
 なんてことだ。うるさかったのは髪ではなくディーノのほうだった。けれどうざったがられている本人にそれを嘆く余裕はない。
 開けっぱなしの扉をくぐり、彫師のアトリエで唯一くつろげるソファの前までおそるおそる進む。勝手に座っていいものか思案していると、彫師は親指をぞんざいに突き出して血で染め上げたような深紅のソファを示した。ほっとしたのもつかの間、ディーノがそこに腰を落ち着けた途端、訛りのきつい毒舌攻撃が始まった。
「お前がまたオレを放って日本に浮気しに行くってのは、今朝お前さんの部下がわざわざ知らせに来たからとっくに知ってる。それより一分待ってやるから、さっさと言い訳を始めたらどうだ。どうせろくな理由じゃねえだろうが、上手にできたらご褒美にキスくらいはしてやるぜ?」
 愛想のかけらもない態度だったが、追い返されなかっただけマシだ。それにご褒美のキスはお断りだが、さっさとしろと言われたら即実行がこの男とつき合う上での鉄則だった。短気な彼がキレて部屋から追い出されてしまってからでは、言い訳させてもらえるチャンスは二度と巡ってこないからだ。素っ気ない言動にいちいち怯んでなどいられない。
「あのな。今回は日本に行くだけの用事じゃねえんだって。同盟関係の一つが東アジアの同業ともめてるらしくて、上位のどっかが間に入らないと収まりそうにねえんだ。で、日本に行くついでのあるオレに声が掛かったってわけだ。誰だって不必要な争いで無駄に血を流させたくはないだろ」
「なんだ。つまり早い話が使いっぱじゃねえか、ボンゴレとかのジジイ連中の。世界のキャバッローネのボスが何やってんだよ。情けねえなあ」
「そう言うな。オレがパシってしなくてもいい戦争が避けられるんなら、いくらでも走ってやるさ。ボスの責任てのはそういうもんだろ。それに抗争が長引いてうっかり日本に飛び火したら困るしな。恭弥はまだギムキョウイクってやつなんだ。日本ではまだごくごく当たり前の、いたって普通の学生をしてる。いずれはこっちの世界に来るとしても今はいっぱい勉強させなきゃなんねーし、大人になるまでの間くらいは、世界が平和であるにこしたことはねえだろ?」
「ギムキョウイク? なんだそりゃ」
「つまり、恭弥はまだてんで子供だってことだ」
 彫師が急に顔を上げ、身体を半分捻ってディーノをまじまじと見つめてきた。これみよがしに肩を竦める。口には出さないが呆れているのだ。ディーノがにっこり笑いかけると、何か言いかけて開いた唇をそのまま斜めに曲げて見せた。
「日本の十五歳って、まだホントにお子様なんだぜ」
 ディーノがそう言うと、彫師は目玉を器用に一回転させてからまた机の上の整理に戻った。何かにつけわかりにくい言動ばかりが目立つ彼だったが、ディーノは彼のこの表情だけは絶対に見逃さない自信があった。「気にいらない点はまだあるが、子供がうるさくてしょうがないから譲歩してやる」という意味の苦笑いは、昔から散々見せられていたからおなじみだ。ディーノは彼の機嫌が最低レベルより少し上であることを神に感謝した。
「急に予定変更したのは悪いが、仕事だから今回だけは大目に見てくれ。うまくいきゃ十日くらいで帰ってこられそうだし、出発前に筋彫りを仕上げてもらえるなら次までには傷も治ってるし、カラーに掛かるにはちょうどいいんじゃねえか?」
「そうだな。うまくいきゃあな」
「どーいう意味だよ」
「わかんねえのか? まんまそういう意味だ。お前がそう言って、約束通りに帰ってきた試しがあるか?」
「それは……」
 わざわざ指摘されるまでもなかった。思い当たる節がありすぎるのだ。自分の都合だけで自由に動き回れるほど、マフィアのボスという職業は甘くはない。いくつか思いつく反論もあるが、言ったところでこの男に通用するとは思えなかった。三倍返しでやりこめられるのが関の山だ。
「あいかわらず容赦ねえな、あんたは」
「お望みならもっと言ってやるぜ。ひとつ、できない約束を簡単に口にする男は最低だ。ふたつ、その嘘を本気で口にしてるなら、お前さんはただのバカだ。救いようのねえろくでなしだ。みっつ、自覚のない嘘吐きは詐欺師よりも質が悪いんだぜ。いつか背中から撃たれても文句は言わないことだな」
 ディーノからの返事が完全に途切れると、彫師はほんのわずか肩を竦め、ようやくディーノのほうに体ごと向き直った。
「オレはいい。だがお前のかわいい籠の鳥は、退屈で死にそうな鳥籠の中でお前が現れるのを待ってるんだってことさ。毎日毎日空を見上げて、せっかく授かった自由になれる術をもて余してな」
「それは……恭弥のことを言ってんのか」
「お前に他にもまだオレに言ってねえ愛人がいねえなら、そうだろうよ」
「言っただろ。恭弥はまだ子供だ。一緒にいる時ならともかく、オレと会ってない時までずっとオレのことを待ってるとは思えねえ。あの年代の子には、恋愛よりも楽しいことがもっと他にあるだろ?」
「お前それ、本気で言ってんのか? だとしたらホンッと、バカだな」
 ぴしゃりとやられて、ディーノは沈黙した。彫師はディーノからの返事を待つ気はないようだった。間を置かずにさらに続ける。
「ガキだガキだと思ってたどっかの仔馬は知らないうちに色気づいてて、東洋美人にしっかり手ェ出して帰ってきやがっただろうが。はまるきっかけなんていくらでもある。愛だの恋だのってのは麻薬みたいなもんだ。出会うべくして出会っちまったら年なんか関係なく、誰もがそれが今の自分にとって一番重要で、大きな意味のあることだと思い込んじまう。一度その味を知った子供はあっという間に大人びて、可愛いだけの存在でなくなっちまうのさ。身勝手な大人に手を引かれてな」
 反論する余地はなかった。言われなくともわかっている。彫師の言い方がいちいち勘に障るのは図星だからだ。
「ところでお前さん、こっちに帰ってから小鳥ちゃんに連絡は?」
「……入れてない。タイミングが合わなかった」
「タイミングときたか! ハ! タイミング、が、合わない!」
 芝居がかった口調で言い、彫師は振り向きざまに、せっかく整頓したデッサン紙を数枚掴んでディーノに向けて乱暴に放った。
 ディーノの手をすり抜け、デッサン紙がばらばらと床に落ちる。拾い上げた時にちらっと見えたそれは、線画の上にきれいに彩色された鳥の図案──ディーノの身体の一部を新たに飾る模様の完成予想図だった。
「昨夜描いたやつだ。筋彫りが完成したら、次からはこういうふうに色を入れていくからな。わかってると思うが、作業の途中でイタリアを離れるなら……十日っつったな、その間あんま身体洗うなよ。つうかお前もう風呂入るな。施術中のとこを素人にいじられると、後が面倒なんだよ」
「むちゃくちゃ言うなよ。そんなことできるわけ」
 ディーノは文句を言いながら、手元の紙に目を落とした。
 そして声を失った。
「…………きれいだな。あんたやっぱり、すげーよ」
「当たり前だ。会心の出来ってやつだぜ。それ以上のモノを描けっつっても、できねえよ」
 白い紙に描かれているのは、一羽の鳥の絵。
 全体に濃いグレーのグラデーションになっていて、その上から身体の一部と羽先と頭部にデッサン画をそのまま写したような細かいグレーの斜線が入っている。シルエットだけの小さな鳥は短い嘴を空へと向け、無数の鉄条網が絡まる枝にぽつんと留まっていた。
 ディーノはその絵からしばらく目が離せなかった。
「いってえなァ……。バレバレってか」
 鳥の頭上をびっしりと覆う鉄の囲いは、鳥を大切に守っているようにも、どこへも飛んでいかないように狭い世界に閉じ込めているようにも見える。彫師は雲雀のことを知らないも同然だった。ならば彼は先日聞かされた話だけでイメージを膨らませて、この絵を描き上げたということだ。
 片手で握りつぶせそうな小鳥の頭上に何重にも枝葉を張り巡らせ、その間から中途半端に開放的な空を覗かせる。「見ろよ、お前は自由だ。行きたいならいつでも飛んで行けばいい」と?
 そんなものは詭弁だということを、この絵ははっきり告げている。
 ──それを、誰に? この絵を刻まれる男にだ。
「一筋縄じゃいかねえ相手を選んだのは自分だろ、ガキ」
 彫師はおもむろに身を屈め、なかなか顔を上げないディーノを下からのぞき込んだ。大きな瞳でディーノの目を見据えて、子供のようにぺろっと舌を出す。
「翼を持ついきものは奔放だからな。勝手に飛んで行かないように、好きなだけ自分の肌に刻んでおけばいいさ。だがそれは所詮形だけのことで、オレの刺青はお前さんにとって何の助けにもならねえ。よくて飾りか、ハッタリみたいなもんだろ」
「そんなことはねえ。それはあんただって知ってるはずだ」
「もちろん知ってるさ。そうでなきゃこのオレがこんなに長いコト、一つところに飼われてなんかやるかよ」
「なら、何で」
 なぜそんなことを、と言おうとしたが遮られた。彫師はディーノの手から取り上げたデッサン紙で、自分を見上げる金髪頭を軽く撫でた。
「もういいや。聞き分けのねえ子供にいちいち説教垂れんの、面倒になってきた。オレはお前に覚悟ってやつを与えるためにいるんだろ? よぉくわかってるから、つべこべ言ってないでさっさと服を脱げ。そんでこっちにケツ向けて横になれ。オレによーく見えるようにな」
 指先を動かして、きれいに整えられた施術用の寝台を指す。
「とにかく出発までに筋彫りとできるとこまで色を入れて、いちおう格好がつくようにはしてやるさ。嬉しいだろ? かわいく口を開けてまってるヒナの前で服も脱げねえようじゃ、男として情けねえからな。元々モノクロでサマになるようなデザインにしてあるし、今度小鳥ちゃんと会ったらせいぜい見せびらかして、目も身体もたっぷり楽しませてやればいいさ」
「刺青……してくれんのか」
「バーカ。その素晴らしい絵をみすみすお蔵入りにしてどうするよ。世界の損失だろうが。それにお前さんの体はオレの広告塔でもあるんだぜ。新しい柄が完成したあかつきにはトーキョーだろうがニューヨークだろうが、どこでもいいから脱いで脱いで脱ぎまくれ。オレが許す」
 彫師がニッと笑って目配せする。そうだった。この男はいつだって思ったことを隠さず口にする。むちゃくちゃなことを言って豪快に笑う。自信家で傲慢などうしようもない悪人だ。だが最後には必ず助けてくれる、ディーノにとってかけがえのない親友だった。
「──ありがとな。あんたを信用してる。頼りにしてるぜ」
 めったに言わない素直な言葉が口をついて出た。ディーノが彫師を信頼しているのは腕だけじゃない。そのことをどうしても今、彼に伝えたかった。
「そうかよ。なんなら褒めてもらった礼と脱がせついでに、刺青よりもっと役に立つとっておきの性技を教えてやろうか。実験台はもちろんお前さんだ。自分の体で覚えるんだからな、気持ちよくて確実に身に付くんだから最高だろ? 試してみるか?」
 彼は畳みこむような早口で言い、ディーノは投げやりな気分で天井を仰いだ。やはりこの男は悪魔だ。狂ってる。
 意地悪で、どこまでもひねくれていて、サド気にあふれた悪意の塊だ。
「だから、あんたはな! そういう品性を疑われるようなコトばっか言うなっつうんだよっ」
 ディーノは寝台に寝そべるついでに、脱いだシャツをニヤニヤしている彫師に向けて思いきり投げつけた。