free bird

 携帯電話が振動音だけで着信を告げていた。
 ディーノは枕元で小刻みに震える電話をつかみ取って飛び起きた。思わず振り返って、隣で眠る人の睡眠を妨げていないとわかり、ほっと息を吐く。
「Pronto,Qui e、Dino」
 電話を耳に押し当てて早口で名乗りながら、ディーノはそっとベッドを抜け出た。
「──」
 相手の声が聞こえてこない。電話は確かに通じているのに。
「──誰だ? 返事ぐらいしろよ」
 少し待ってからもう一度促しても同じだった。電波状態がよくないのか、無言の気配の後ろに聞き取りにくい雑音がひっきりなしに流れている。どこかで聞いたことがあるような気がしたが思い出せない。ディーノは早々に諦め、電話を通話状態にしたままサイドボードに戻した。
 昨夜ベッドの脇に脱ぎ散らかした靴と部屋着の下だけを拾って、わざとゆっくり身支度を調える。
 今鳴ったのは個人で使用している端末で、その番号を知っている者はごくわずかに限られている。頭の中で番号を教えた人間をざっと数えてみたが、いずれもディーノが心から信頼している人物ばかりだ。そこからどこかに番号が洩れることがあり得ないとしたら──こんな非常識な電話を寄越す知り合いと言えば、やはり彼しか思いつかない。
 数分経って再度確かめた時、電話はまだ切られていなかった。驚きと違和感が同時にディーノを襲い、やがて気の抜けた苦笑をもたらした。今日の彼は気味が悪いほど気が長い。それこそを不吉な予兆だと感じるのは失礼だろうか。
 振り返った窓の外は明るかった。日射しが強く、濃色のカーテンの内側が白っぽく透けている。昨夜のうちにカーテンを引いておいてよかった。急に広くなったベッドには疲れ果てて眠る人がいる。薄い毛布の下から穏やかな寝顔が覗いていた。よい夢を観ているのだとしたら、むやみに妨げたくはない。
 ディーノは放り投げてあった電話を掴むと、連日のハードワークと寝不足のせいで鉛を飲み込んだように重い体を引きずりながら寝室を離れた。壁に据え付けられた時計の針を見ると、最後に覚えのある時刻からいくらも経っていなかった。よろめきながら居間に辿り着き、広いソファの座面に頭から崩れ落ちる。ようやく電話に出る気になるまで、さらに数分かかった。
「待たせたな。で、なんだよ?」
 声が低くなるのは仕方ない。怒っているわけではないが、とりあえず眠すぎた。
『やぁっとお目覚めか、跳ね馬よ? 電話口で何時間もオレを待たせるなんて、世界広しと言えどお前くらいだぜ。くそったれめ。キョウヤが離してくれなかった、とか言いやがったらなあ、切るぞ!』
「あんたなあ。今何時だと思ってんだよ……」
 こちらを窺うような長い沈黙の後に聞こえてきた声は、紛れもなくお抱え彫師のものだった。しかも超がつくほど機嫌がいい。ディーノは早くも後悔した。こういう時の彼のテンションの高さは、酒かクスリでハイになっている人間の上を行くのだ。
「あんたに時間の観念が欠落してることは知ってるが、ちょっとは時差ってもんを考えろ。こっちは明け方だぞ。気前よく鳴らしやがって、恭弥が起きたらどーすんだよ」
『なんだ、機嫌悪いな、跳ね馬ディーノ』
「あったりまえだろ! ぐっすり眠ってるトコを起こされたんだぞ。上機嫌でいられるかよっ」
『そんなに怒んなよ。ボスたるもの、どんな時も心を広く持たなきゃ五千の部下の心は掴めねーぞ。つかベッドに電話持ち込んで、しかも律儀に電源入れとくバカがどこにいる? オレが小鳥ちゃんなら、そんな無粋な機械は持ち主ごとソッコー部屋から叩き出すな』
「あんたの言う通りだ。電話なんか昨夜のうちに叩き潰しときゃよかったぜ」
 部屋を出る時に見た、艶のある黒髪と生まれたままの肢体の幻が目前にちらつく。あの柔らかい髪と体がひどく恋しい。やはり電話など取るのではなかった。無視して雲雀の傍にいるべきだったのだ。
「で、なんか用なのか。オレは眠いんだ。用があるなら手短にな」
『キョウヤから新しい柄について、何か感想もらったか? あるなら聞かせろよ。早く』
 驚くあまり、ディーノは本気で数秒間声を失った。
「──まさかと思うが、そんなコトを聞くためだけに電話してきたのか?」
『そうだぜ? お前が全然連絡をよこさねーから、こっちから掛けてやったんだ。何か文句あるか』
「大ありだ。悪魔かあんたはっ。いい加減にしろ。そんなこと、帰ってからいくらでも聞けばいいだろーがっ」
『しょうがねえだろ。気になりだしたら眠れなくなっちまったんだから』
「眠れないって、そっちはもう朝どころか昼だろっ」
『まあまあ、そう怒るなよ。なぁボス。……で、小鳥ちゃんは何て? オレの刺青を気に入ってくれたのかよ。正直に吐けって、なあ』
 彫師は全く悪びれもせず、けろりとしている。
 わかっている。彼のような手合いには青筋を立てて常識を説くより、早々に降参した方が話が早いのだ。人の話に聞く耳を持たない相手にいつまでも腹を立てることほど無駄な努力はない。
「大方の予想はついてんだろ……聞くまでもなく」
『お前の口から聞きたいんだって』
「あんたってヤツはなあ。ホント、大人げないにもほどがあるって」
 電話口から期待に満ちた気配が伝わってくる。ディーノは怒る気も失せて投げやりに答えた。
「喜べよ。恭弥は新しい刺青が思いっきり気に食わないらしいぜ。今までの柄のうちで最低最悪だってよ。めちゃくちゃ怒って、刺青の上から咬みつかれちまった。いきなりだったから痛いのなんの。心臓が止まるかと思ったぜ。歯形くらいついてるかもな」
『ホントかよ! それはそれは。やるなあ小鳥ちゃん。見直したぜ』
 予想通り、彫師は飛び上がって手を叩かんばかりに喜んだ。
 声の弾け方からして、床を転げ回って笑っているに違いない。ディーノは彼が大口を開けて馬鹿笑いする姿を思い浮かべた。そんな油断した姿までがさぞかし美しいのだろうと思うと、よけいに腹が立つ。
「笑うなよ。ホントに痛かったんだからな」
 新しい刺青を雲雀に披露したのは、日本に到着した晩だった。
 ディーノが服を脱いだ時、雲雀はディーノの腰に新しい柄が増えていることにすぐに気づいたようだった。「増えてる」と不思議そうに呟いて、しばらくぼうっと線描きの鳥を見つめていた。
 けれども新しい柄に対するその夜の反応はそれだけで、翌朝になって急に思い出したように鳥の柄について文句を言い出し、挙げ句の果てに傷の上から攻撃を仕掛けてきた。寝起きで油断しているところを、瘡蓋の消えない部分にいきなり歯を立てられたのだ。
 刺青とは早い話が、皮膚をわざと傷つける行為である。
 つまり入れたての刺青を咬まれるというのは、擦り傷程度とはいえ生傷を咬まれるのと同じことだ。痛いに決まっている。背筋に悪寒が走るような、なんとも形容し難い独特の痛覚を思い出して、ディーノは思わず顔を顰めた。
「何でそんなコトするんだって訊いたら、目障りだってよ」
 彫師がふうん、と鼻を鳴らす。
『お前の小鳥は賢いな。こいつはちょいと、意地悪がすぎたかな……』
「はあ? どういう意味だよ?」
 ディーノの記憶に残る彫師の笑顔が急に曇った。どこか含みのある、影を感じさせる呟きのせいだ。それに電話を取った時から何かが耳に激しく引っかかっている。何だろうか。
「なんっか妙な言い方をするな。気に入らねえ」
 違う。気に入らないのは彼の言葉だけではなく、もっと何か別の──。
『そうか? そんなことよりもっと聞かせろ。それから? 小鳥ちゃんは他に何て言った? 隠さずに吐け。全部吐け。楽しみにしてたんだからよ』
「そっちこそ何を企んでる?」
『うだうだうるせえな。あんまウゼーと切るぞ』
「つまり、素直に白状する気はねえってか」
 この性悪め、と口の中でぶつぶつ唱える。ふと隣室でぐっすり眠る人の姿と、電話の相手とが重なった。
「オレが気に入る相手って、どーして皆が揃いも揃ってこうなんだろうなあ。性格の悪い美人に振り回される運命なのか? なんか悲しくなってきた」
『そりゃお前さんが真性マゾだから、しょうがねーよ』
「断じて違うっ!」
 ディーノの性癖がどちら向きかは別として、雲雀と彫師がよく似ているのは確かだった。かわいい顔をして態度が尊大すぎるところや、質問しても気が向かなければあっさり無視されるところが。ディーノになら何を言っても、何をしても許されると思っているらしいところもだ。
 そしてなぜかディーノは、こういうわがままなタイプにとことん弱いのだ。マゾヒスト呼ばわりもまんざら的外れではない。
「違うと思ってたが…マジでちょっと不安になってきたな……」
 ディーノは力なく呟くと、ソファにうつ伏せに沈んだ。



 新しい刺青の第一段階を完成させた翌日にイタリアを発ったディーノは、まっしぐらに恭弥の住む並盛町へと向かった。
 いくつかの急用を全て後回しにして、途中でどこへも寄らずに成田に降り立ったその足で車を飛ばし、学校にいるはずの雲雀に車中から連絡を取った。少しでも時間に余裕のあるうちに雲雀と会っておきたかったからだ。彫師に雲雀のことを話してから、雲雀を受け止めきれていないかもしれないという苦い思いがずっと心に引っかかっていた。
 その日の午後、それもかなり早いうちに、雲雀はディーノが指定したホテルのロビーに現れた。まだ放課後ではない時間である。びっくりしたのはディーノの方だ。今日中に会えるだろうとは思っていたが、まさかこんなにすぐに雲雀が顔を見せるとは思いも寄らなかった。
「ちょうど試験期間だからね。授業はあっても午前中だけだし、出題範囲は決まってるから、今さら残りの授業を真面目に受けてもそう意味がない」
 学校をさぼって来たのかと問いつめると、雲雀はごく当然の顔で、そうだよ、と言って笑った。それからどこにも影のない、難解な問題を解く時のような真面目な顔でぽつりと言うのだ、「ここに来たのは、あなたが電話をよこしたから」だと。
「顔を見ない間は、ちょっと忘れていたのにね。声を聴いたら会いたくなった。そうなったら学校がどうとか授業がどうとかなんて、大した問題じゃないなって」
 雲雀の声には非難めいたニュアンスも、わかってほしいという懇願の色もなかった。無表情に淡々と甘い言葉を吐き出す人は、ディーノにとっては言葉の通じる宇宙人と同じだった。
 けれども雲雀の次の一言は、ディーノの迷いを粉々に吹き飛ばすほど絶大な威力を持っていた。
「電話をもらって嬉しかった──だから来たんだ。それだけだよ」
 つまりディーノは、見事なまでにあっさり雲雀の手中に落ちたのだった。
 それから一週間あまり。ディーノはたまった仕事を片づける合間に雲雀を呼び出して傍に置き、体が空くと車の助手席に乗せて息抜きに出かけ、映画や買い物に連れ出し、一緒に食事をして過ごした。
『つうかすげえ普通だな。ドライブに映画にショッピングに食事だあ? 何だそのお約束なデートコースはよ。スクール時代から女が切れたことがなかったヤツが、子供相手だと同じように子供に還っちまうのか?』
「うるせえよ」
 呆れたように鼻を鳴らされてもしょうがない。確かに買い物もしたしドライブもしたし映画にも誘った。すべて本当のことだ。ディーノは来日前から、時間が許して、思いつく限りのことはすべてやろうと決めていた。絶対的に足りない時間を埋められるのは、気持ちを伴った行動しかないと思ったからだ。
『まさかそんな、お子様デートばっかしてたんじゃねえよなあ』
 意地悪い口調で彫師が囁く。ディーノは疲れたため息を吐いた。わかっていてぬけぬけと言い放つ彼を、とりあえず一発ぶん殴りたい。
 その他にしたことと言えば、ひとつしかない。
 後はずっと、──雲雀とセックスしていた。