In the box

「うあー……中は天国だな」
 ホテルの玄関に一歩入った途端に、さっきまでサウナに入っている気分だったのが、一気にどこかへ吹き飛んでいった。ホテルの空調は完璧で、涼しさで生き返るように感じるけれど震え上がるほど冷えてもいない。うっすら汗ばんでいた浴衣の背中が少しひんやりする。
「寒くないか?」
 ふと気になって隣のひとの顔をのぞくと、ヒバリは大丈夫というように軽く首を振って、物言いたげにディーノを下から見上げた。
「なに? フロントに用でもあるのか」
 一応尋ねてみたけれど、ヒバリはなにも言わない。黙って目を逸らしてしまう。
「用事がないなら、行くぜ」
 待っていても答えが返ってきそうにないので、ディーノはそのままヒバリの手を引いて、フロントを通り過ぎた奥にあるエレベーターホールを目指した。いつもなら地下から直通エレベーターで最上階まで一気に上がるのだが、今日はうっかり正面玄関から中に入ってしまった。一度地下に降りてエレベーターを乗り換えた方が早いのだ。
「…………手、」
「え?」
「手、つないだままだけど」
 ようやくのことだ。そっぽを向いたままのヒバリから、ディーノにしか聞こえないくらいの小さな抗議の声が上がった。そう言えばそうだ。フロントどころか前庭を通過する時も手をつないだままだった。よくぞ咬みつかれなかった、というよりヒバリがここまで我慢してくれたことが驚きだ。
「離したほうがいいか? エレベーターに乗っちまったら、すぐだけど」
 つーかオレは離したくないんだけど、というニュアンスを込めてさりげなく言う。するとヒバリは一瞬躊躇したようだったが、あきらめたのか黙って手を取られたままディーノと並んでエレベーターに乗り込んだ。
 地下二階に到着するまで誰ともすれ違わなかった。専用エレベーターに乗り換えるときもふたりだけ。扉が閉まれば、これで最上階に着くまで誰にも邪魔されることはない。
 目前で重い鉄の扉がゆっくりと閉じてしまうと、ここから数分間、庫内はふたりだけの空間になる。
 互いの息遣いとモーターの静かな稼働音の他に物音はなく、さっきまでは消え入るようだったヒバリの声がはっきりとディーノの耳に届いてきた。
「勝手に僕を連れて入っていいの」
「ああ。今夜はひとり宿泊客が増えるって言ってあるから。泊まってくだろ?」
 いいや、帰る、と先手を打たれないようディーノの準備は万端だ。この時間からヒバリを部屋に迎え入れるということは、つまりこれから朝までどうやって過ごしたいかをはっきり告げているようなものだった。浅ましいなとも思うし、このままあっさり帰らせてどうするとも思う。すきですきで、こころだけではなくそれが埋まっている器ごと抱きしめたいひとがそこにいるのだ。できる限り相手の気持ちを優先したい気持ちはいつもあるが、それとは別に男として持て余す部分を許してほしいと願うときだってある。今日はそういう気分だった。
「……恭弥?」
 つなぎっぱなしの手に、わずかだが、さっきまでよりも強い力が加わる。ヒバリがディーノの手を握りしめたのだ。
「浴衣、ひとりで脱げないでしょ。あなた不器用だから。下手に腕とか抜こうとして破くに決まってる」
 浴衣の脱ぎ方など簡単だ。着付けるときに見ていたら難しいものではなかったし、実は次からは自分でも着られそうだとさえ思っていた。
 でもたぶん──じゃなく絶対に、ヒバリだってそんなことはわかっている。
「そーだな。恭弥がいないと困る。ちゃんと、全部、脱がせてくれな?」
「……その言い方、やらしいよ」
「すまん。実はさっきからスゲーやらしい気分なんだ。部屋に帰るの待てねえかも」
「またそういうコトを」
「しょうがねえ。本気だから」
 つれないコトばかり言い募って、それでもいつになく口調のゆるいヒバリを胸に抱き込んで、背中をしっかり抱きしめる。
 顎を上げさせて唇を重ねる──あいさつ程度の軽いタッチから、手っ取り早くひらく手段へとやり方を変えていく。
「恭弥、やっぱ寒いんだろ。体が冷たくなってきてる」
「かまわない。こうしてるうちにすぐに着くだろ」
 ぽつりと言って、ヒバリは自分からディーノの腕に体を預けてきた。
 終点の扉の向こうには先回りした部下が待機して、ふたりを迎えてくれるはずだった。エレベーターが最上階に着くまで、あと残り数分。惜しむヒマすらないほどの、ほんのわずかの時間だ。
 そのあいだ、冷えたエレベーターの庫内でディーノにぬくもりをくれるのは、ヒバリという存在だけ。与えてやれるのもディーノだけだ。
「じゃあ上に着くまでこうしていような」
 華奢なひとに負荷をかけないように、ディーノはヒバリをきつく抱いていた腕の力を少しゆるめた。指と指をからめて、空いた片手で折れそうな腰を抱く。
 早くヒバリを部屋に連れて行きたいような、もう少しこの狭い空間に閉じ込められていたいような。
 贅沢な選択肢に悩まされるのも、もう一度顔を上げさせたヒバリが素直に目をつぶるのも。
 すべては一夜限りの夏の夢。

なつやすみ。アフター/ベッドルーム編へ。