フロントからの電話で、注文品が届いたと連絡があった。
さすが早いなと感心しながらすぐに部屋に届けてもらうように言って、ディーノがふと背後を振り返ると、妙な顔をしているヒバリと目が合った。
にっこり笑い返すと、ますます不審そうに眉を顰める。
そんなこわい顔をしなければいいのにと思う。せっかく美人なんだから。
「おまえにプレゼントがあるんだ」
「なに」
「すぐにわかるさ」
数分後に届けられた荷物は、ディーノが想像していたよりもずっと大げさで大きかった。
厚さが10センチくらいの縦に長い箱と、一抱えほどの箱がもう一つ。
部屋の真ん中に巨大な段ボール箱を運び込んで、さっそく開けてみる。中に入っているものをいくつか取り出して確かめてみたけれど、正直ディーノにはお手上げだった。メインの品はともかく、他は見ただけでは何に使うのかよくわからない品物ばかりが詰まっている。
「靴、ひも、あとは……なんだこれ?」
個別に包装された小物類を取り出して床に並べていく。
「ほら、おまえもこっち来てみろよ。つーか恭弥が見ないと、オレには何がなんだかさっぱりわかんねえ」
窓際に立って外を見ているヒバリを手招きしながら呼ぶと、ヒバリはすなおにこちらに近づいてきた。警戒しつつもプレゼントの中身はいちおう気になるらしい。
ヒバリが後ろに立ったのを確かめてから、ディーノはヒバリに見えるように段ボール箱の蓋を左右に大きく開いた。
それは一体ナニという質問はでなかった。さすがにヒバリはひと目見ただけで、それがなんであるかがわかったらしい。
「どうしてそんなものをわざわざ用意したの。今日なにかあったっけ」
「今日は地元で花火大会があるんだってな。並盛の夏祭りっていったら、このあたりじゃちょっとしたイベントだって聞いたぜ。せっかくだから恭弥と行きたいと思ってな。こういうときに特別にドレスアップするにはどうしたらいいかコンシェルジュに相談したら、日本の夏と言えばやっぱこれだろって教えてくれたんだ。サイズがわかれば一式揃えてくれるって言うから、それならって、こっちに来る前に頼んでおいたんだ」
「祭り……ああ、そう言えば忘れてたな。今日だっけ」
ヒバリは一瞬考え込むように言葉を切り
「それでわざわざ頼んだっていうの……浴衣」
ざらざらした手触りの包み紙をほどいて、中から現れた日本式の着物らしきものを見た途端に、あらためて深く長いため息を吐いた。
ディーノの定宿であるこのホテルに何度も通っている恭弥をよく知るコンシェルジュが彼のために選んだのは、地色は紫がかった黒で、裾に描かれた波模様のあいだから薄灰色のブーケ──のようなものが立ち上っている、一見すると地味にも思える柄のものだった。さらさらした布地の感触はいい。肌触りはよさそうだ。イタリアでみかける絹のように目の詰まった上質の木綿とは違うが、風がよく通りそうな薄手の生地は、湿度の高い日本の夏ならではという感じがする。
「これは僕のだね。あなたのは、こっち」
ヒバリがふたつ重なった、たと紙の下の方を指差す。
「たぶんな。恭弥には黒を選んだって言ってたから。でもなんでわかるんだ」
「見ればわかる。あなたと僕じゃ裄からして丈が違うだろ」
「ユキってなんだ」
「袖丈」
ヒバリはいつのまにかディーノの横に並んでしゃがみこんでいた。どういう風の吹き回しだろうか、突拍子のないディーノの思いつきにつき合ってやろうという意思表示だ。ディーノが包みから取り出した浴衣を肩に着せかけてやると、ヒバリは目を細めて布地の上から手を添え何度か撫でた。
「子供の頃はこういうのをよく着せられたな。祖母が日本の伝統を好むひとだったから。今は風紀委員の仕事があるから、祭りに浴衣なんて着て出ることはないけどね」
ディーノは驚いて、「えっ」と声を上げた。
「仕事って? 風紀委員が祭りでいったいなんの仕事するんだよ」
「夏祭りにはメインの通りに屋台っていうのが出て、そこで商売を──食べ物を売ったりゲームで遊ばせたりするんだよ。そこのショバ代をね、風紀委員会が徴収して学校に還元させるシステムになってる」
「なんか激しく疑問を感じるシステムだなそれ……地元の祭りに並中関係あんのかよ」
「皆喜んで払ってるからいいんじゃないの」
そこも大いに疑問である。並中最強の風紀委員長に所場代を要求されて、嫌だと言える人間がはたしているのだろうか。
しかしこの場合、ディーノが本当に問題にしたいのは並中への寄付金の出所ではなく、ヒバリの空き時間の有無だった。学校大好きなヒバリのことだ、仕事と言えば自分のために割いてくれる時間があるかどうかすら怪しい。想定外の大問題である。
「ちょ…、恭弥っ。それで? 祭りにつき合ってくれんのかよっ」
ディーノは慌てて、浴衣を肩に引っかけたまま鏡の前に向かうヒバリのあとを追った。
◇ ◇
待ちぼうけを食わされる時間はつらい。
時が過ぎればいつかは会えるとわかっていても、顔を見られない瞬間が存在するというだけで、それがわずかだとしても惜しむ気持ちが抑えられない。
『待つ』という行為は決してきらいじゃない。
相手がヒバリである場合は特にそうだ。何時間待っていても苦にならないし、いつまでも待てる男でありたいと思っている。
──と、できればかっこよく言いたいところなのだが。
本音を言えば、ひとりで放置されているあいだは、極端に時間の流れが遅くなるのが困る。いつも大勢の部下たちに囲まれているせいか、ヒバリが仕事があると言って出て行ってから、ディーノはベッドに寝そべったまま数え切れないくらいのあくびと、時間の確認を交互に繰り返していた。今夜はヒバリを並盛の夏祭りに連れ出そうと思って、スケジュールをすべて空けてあるのだ。それがまさか、こんなことになるとは。
ヒバリは10時には戻ると言って6時前に部屋を出ていったきり、電話もよこさない。
こっちが退屈しているだろうからとときどき様子伺いをしてくれるような愛情深い性格でも、マメなひとでもないのはよくわかっている。大の男が情けないとは思うが、ヒバリがもう一度ここに現れるまでこうしてゴロゴロする以外に、急の予定変更で浮いた時間を有効に使う術をディーノはひとつも思いつかなかった。軽い夕食を部下と摂ったあとは人払いをしているから、部屋にはディーノのほかに誰もいない。テレビもとっくに見飽きてしまった。
10時まであと20分以上ある。ディーノは正確無比に時を刻んでいる腕時計を外してベッドのサイドボードに放り投げ、寝そべったまま思いきり伸びをした。
「あーヒマだ、ヒマ、だ〜きょうや〜」
「ひとが仕事を早めに切り上げて来てみれば……」
「ぅお! びっくりしたっ」
廊下の先──部屋の入り口のほうから声がした。
身体ひとつ分が通るくらいのドアの隙間から、細いシルエットが覗いている。ヒバリだった。出ていったときと同じ学校の標準服姿で扉にもたれて、遠くからディーノを見ている。
ディーノはベッドの上で飛び起きた。
「戻ったのか恭弥。早かったな、まだ10時になってないぜ」
「……あなたってひとは。こんな時間から外に出かけたいなら、少しでも自力で着替えておこうとか、ないの」
「無茶いうな。外国人にはキモノなんて着方どころか、どこに腕を通すのかも怪しいんだぜ。できるわけねー」
自信満々で言い切るディーノを見て、ヒバリはトンファーを繰り出す寸前のような凶悪な顔をした。
◇ ◇
「ほら、そっちの端を持って、そう……そのまま右に回って。ああいい、あなたは動かなくていい。よけいにこんがらがりそうだから。裾踏まないで」
「すまん……お世話かけます……」
「一応なんとかなった……できたよ」
最後の仕上げに襟をすっと両手で前に引き、ヒバリがディーノを正面から見上げた。白地の浴衣の袂を軽く引いて鏡を見ろと促す。
「うおスゲー! 偽ガイジンのできあがりだな!」
「偽じゃなくて、あなたは立派に外人だろ。あんまり大股で歩くとこけるよ」
「っと、うわっ! 歩きにくっ!」
シャワーを終えたヒバリを迎えて、10分後には着付け大会になった。
当然ディーノはヒバリのなすがまま、あっちを向け、こっちのひもの先を持っていろと次々に命令され、おとなしく衣紋掛けに徹することになった。衣紋掛けとはキモノ専用ハンガーのことなのだそうだ。つまり洋服をつるす時のように、ハンガーは黙って言うなりにしていろ、ということらしい。自分の知らない単語をヒバリが口にするたびにいちいち反応するのがおもしろいのか、いつもは短気でめんどうくさがりのヒバリがめずらしく根気よくいろんなことを教えてくれた。それだけで特別な夜という感じがする。
衣服を着せるという行為は、ふだんあまり馴染みのないぶんひどく新鮮だった。いつもは逆のことばかりしているからだ。しかもキモノなど着慣れない外国生まれの自分のために、真剣な顔で懸命に背伸びしながらかいがいしく浴衣を着せかけてくれるヒバリなんて、めったに見られるものじゃない。感動するなという方が無理な話だ。
「ありがとな。次はおまえの番だ。オレが手伝ってやるから」
ディーノは浴衣の袂を少し持て余しながら、ヒバリの肩を抱き寄せた。
下着の紐を結び合わせて腰紐で抑え、襟を左前に打ち合わせてまた紐で抑える。その上から帯を当てて具合よく巻きつけ、背中で結ぶ。浴衣を着付ける手順は思っていたよりずっと簡単だった。そして脱がせる時は、着るときとまったく逆の手順を踏んでいけばいいわけで……。
ふと気づくと、鏡の中のヒバリがきれいな眉をよせて、こちらを見つめている。
「なんだよ。へんな顔して」
「……目つきがやらしい。何を考えてるのかわかったものじゃないな」
「え。なんにも考えてねーって。恭弥にみとれてるだけだって」
(うっわ、あっぶねー)
思わず声が裏返りそうになる。
ヒバリは何か言いたそうに口を開きかけたが、時間があまりないことを寸前で思い出したようだ。見逃してくれるつもりらしく、何も言わずに隣の部屋に自分用の一式を持ってこもってしまった。サービスついでに生着替えシーンを見せてくれる気はないようだ。
ディーノは安堵と苦笑の入り交じったため息をついた。
やれやれ。鋭すぎる子供はこれだから。
◇ ◇
「むし暑いな」
着替えを終えてホテルの玄関を出ると、とたんにむっとする熱気が押し寄せてきた。さすがに湿気が多い。気温は高いが乾燥しているのが当然のヨーロッパの気候とはまるで違う、自然のサウナのような日本の夏はディーノにとっては慣れないもので、「暑い」という台詞が口癖になってしまっている。ぱりっとした真新しい浴衣地は早くも汗ばんで、目の粗い木綿がしっとりと肌にくっついてくる。前を歩くヒバリの浴衣の襟足からのぞくうなじには髪がまばらに張りついて、濡れたような黒が一段と際立って見えた。
扇情的な風情だと思う。半端に見え隠れするしろい首筋に触れたら、こちらを誘うようにうっすらと湿っているに違いなかった。もちろんヒバリにはそんなつもりは毛頭ないだろうし、夜の往来でディーノがひそかにこんなことを考えていると知れたら、気難しいひとは絶対にいい顔をしないだろうけれど。
と、急にヒバリがディーノを振り返った。不埒な考えを見透かされたみたいで、胸がどきりとする。
「車、出すほどの距離じゃないけど……歩くかい?」
暑がりのディーノを気遣っているのか、それとも浴衣の裾をうまく捌けないのがバレバレなのか。とりあえず親切なホテルマンのアドバイスに従って、履きなれない下駄ではなくサンダルを履いてきて正解だった。これで道端で、しかもヒバリの目の前で突然転ぶことだけは避けられる──と信じたい。
「あー……そうだな。うん、歩こうか。そのほうが気持ちよさそうだ」
ディーノがそう言うとヒバリは黙って肯き、また前を向いて歩き出した。祭りの会場はまだ先らしいが、わずかに気配を感じる風に乗って、低い太鼓の音や人々の賑やかな声がここまで届いている。そう遠くではないのだろう。それに道の向こうからちらほらと人が歩いてくる。大人も子供もいる。子供たちは手に菓子の入ったビニール袋やキャラクター人形の顔をかたどった風船を持っていた。きっと祭りから帰り道なのだ。
口々に何かささやき合う声は弾んでいて、夏祭りを愉しんだあとの浮かれた気分が伝わってくる。そして町内の住人とおぼしき数人とすれ違ううちに、ディーノはあることに気がついた。
「なあ。オレ……なんかヘンか?」
「ん?」
後ろから声を低めて話かけると、ヒバリはなに、というように顔を半分だけディーノの方に向けて尋ねた。
「なんのこと」
「うーん。なんかすれ違う人たちがオレのこと、すげえ妙な目で見てるような気がする。考えすぎだと思うけどな」
ヒバリはその場で足を止め、あらためてディーノを正面からまじまじと見つめた。
「別に……これといって変なところはないけど」
「だよなあ」
ディーノはなんとなく心許ない気分で、首の後ろでひとつに結わえた金髪の毛先を指でひっぱった。
「でも、なんか気になるんだよな」
さっきから誰かとすれ違うたびに、あからさまに視線を感じるような。それもほぼ百パーセントの確率で、上から下までじろじろ見られている気がして仕方がない。それは自意識過剰であるとか、ただの気のせいではないようだった。なぜなら……ほら、また見知らぬ人と目が合った。ディーノと向かい合っているヒバリには、彼らのことは見えていない。しかもこちらと視線が合うと、たいていの人はびっくりしたような顔で慌てて目を逸らしてしまうのだ。
ディーノがそのことを告げると、ヒバリはますます不可解な様子で首を捻った。
「打ち合わせも間違ってないし、前もはだけてない。その浴衣は自分用に誂えたものだろ。丈もちょうどだよ……ああ」
不思議そうにいくつか気がついたことを挙げていたヒバリは、急に何かを思いついてクスリと笑った。ひとしきり笑い、数回小さく首を振る。
「なんだよ。やっぱりどっかおかしいとこがあるのか?」
「そうだね……いや、違う。あなたの格好がおかしいわけじゃないから」
安心していいよ。
なんてことを優しい声で言って、こちらをホッとさせようとするなんて。あのヒバリが。あまりにも見慣れなくて、それだけで奇跡が起こったかとディーノは有頂天になりそうだ。
──などと浮かれている場合じゃない。
「じゃあなんだ? オレ、やっぱ見られてるよな」
「気にしなくていい。行こう」
ヒバリは素っ気なく言うと、さっと身を翻して空を明るく染める大きな灯りと、歌声のようなかすかな旋律が響く道の向こうを指さした。
「早くしないと、祭りが終わってしまうよ」
ヒバリの言う通りだった。
急がないといけない。真夏の夜の夢とは儚く短いものだから。