三月が終わりに近づいたある日、東京で桜の開花宣言が発表された。ヒバリはそのニュースを仕事帰りの車の中で知った。窓の外を見ると、夜でも明かりの絶えない都会の景色に桜の気配はない。川の近くにでも行けば見られるだろうか。ふと、そんなことを思った。


 日本人はほんとに桜が好きだよな。そう言って笑った人がいた。
 そのひとは長く日本に滞在して、言葉だけではなく文化や考え方まで、日本という国とそこで生まれ育った人々に深い理解を示していた。けれど日本人の桜好きは彼の理解の範疇を超していたようで、ゴールデンタイムのテレビニュースにおいてまで桜が咲いた、咲いたと繰り返し伝える浮かれようを不思議な思いで見つめていたようだ。
 デビュー四年目の春のこと。前年の秋から始まった大がかりな全国ツアーが終盤を迎える頃、ちょうど南のほうで最初の桜の開花時期に重なったことがあった。
 長丁場のツアーも残すところ二ヶ所という少し気の早い開放感のせいで、その夜メンバーやスタッフはかなり浮かれていた。バンドにとっての大きな山場を乗り切ったという達成感と、桜と聞くと無条件で血が騒ぐ日本人特有のDNAと。そんなものが働いたのかも知れない。死ぬほど飲んで騒いで打ち上げ会場を出た後、誰からともなく桜を見に行こうと言い出した。当然反対する者はなく、大人数で近くの桜で有名な公園に繰り出したのだった。
 ほとんど公害のような騒がしい集団の後ろをヒバリはひとりで歩いていた。さっきまで隣で賑やかに話していたベーシストが誰かに呼ばれて走っていってしまい、ぽつんと取り残されてしまったのだ。元々騒々しい場所は苦手なのだ、このまま行方をくらましてホテルに戻ろうかと思案していた時だった。
「日本といえば、やっぱ桜だよなー」
 突然声をかけられて振り向くと、いつのまにか背の高い人物が隣を歩いていた。一昨年からサポートとして何度かライヴに参加していて、去年正式にサイドギターとして加入した外国人ギタリストだった。
 彼は見た目は──というか血の一滴までまるで外人なのに、なぜか一緒にいても違和感がないという不思議な男だった。日本語の発音にもまったく怪しいところがない。ネイティヴスピーカーよりも流暢な印象さえあった。
 ヒバリが彼を変わっていると感じる理由はそれだけではなかった。 彼──ディーノの人懐こさはヒバリが呆れ返るほどで、しかも冷たくされても一向にめげないという打たれ強さを持ち合わせていた。ヒバリは何度ディーノに「寄るな、触るな、僕に構うな」と言い渡したか知れない。なのにディーノはまったく聞き耳を持たず、ヒバリが怒るとその場はやれやれ、みたいな顔で一旦は引き下がるのだけれど、すぐにけろりとして構いにくる。そしてまたあからさまに嫌がられて追い払われる。ずっとそんな馬鹿らしい遊びを一方的に続けていたのだ。
「恭弥も好きなのか? 桜の花」
 そうだった、初対面でいきなり下の名前で呼ばれたのも、ヒバリの気に入らないことのひとつだ。
「見ろよ、あいつらやべー。あれ以上騒いだら警察来るぜ」
 ヒバリが無視してもディーノは平然とした様子で、懲りずに話しかけてきた。学生の頃、有名な桜の名所があるといって連れて行かれたことがある。その桜は色が薄くて、桜色というより灰色に近くてすごくきれいだったんだぜ。恭弥は? 桜に何か思い出とかある?
 ヒバリが言葉を挟む余地などないほど、ディーノは静かな声で途切れなく話し続けた。
「別にない。桜はそれほど好きでもない。きらいではないけどね」
 ヒバリは素っ気なく言った。どうしてこの男は自分にこれほど気安く接するのだろう、と不審に思いながら。
「そうなのか」
 ディーノはちらりとヒバリを見遣り、
「オレは好きだな。桜の花。どっちかというとこうやって間近で見るんじゃなくて、遠くからピンク色の雲がかかったみたいな景色を見るのが好きだけどな。春霞っていうのか。桜の花が咲くと、あーオレまだ日本にいるんだって、あらためてすげー感動するんだ。もう十年以上日本にいるんだけど、この季節になると桜を見ないとなんか損した、みたいな感じ、すごくわかるぜ」
「ふうん、そう」
 ヒバリには、これといって花にまつわる思い出などない。
 それは花に限らず、ヒバリは淡泊すぎるほど物事に拘らない性格で、そもそも強烈に記憶に残るほどの思い出というのがほとんどなかった。
「興味がない。花だけじゃなくて、いろんなことにね」
 例えば、今日のライヴの内容は一応覚えている。二日前のライヴがどんなだったかは、あまり印象に残っていない。そんな感じだ。
 ヒバリがそう言うと、日本人よりも日本人らしい外国人はおかしそうに声を上げて笑った。
「なあ、今度ふたりで桜を観に行かないか?」
「お断りだね」
「じゃあせめて、オレが桜の花を好きなことを覚えててくれよ。これから毎年、桜を見たらオレのことを思い出すっての、どう?」
「バカじゃないの。思い出すわけない」
「即答かよ。つれねーな」
 ディーノは歌うような声で言った。この人はギターよりも歌の方が向いてるんじゃないだろうか。そんなことを思わせるきれいな声だった。
「さっきの」
「ん?」
「まだ、って? どういう意味」
「あー」
 ディーノはほんの少し言い淀んで、ぽりぽりと頭をかいた。ヒバリの顔をのぞき込んでにっこり笑う。
「来年の春に、たぶんオレ、日本にいねーから」
「どうして」
「そういう契約なんだよ。このバンドでギターを弾くのは二年間だけ。恭弥には言ってなかったっけ」
 ヒバリはディーノを振り返って、見た。
「知らなかった」
「じゃあ今言ったからな。忘れんなよ」
「ふざけるな」
 思わず目を逸らしてしまいそうになった。理由はわからない。次に桜が咲く頃には、この馴れ馴れしい男はもういない。そのことにショックを受けたとは思いたくなかった。
「別に秘密にしてたわけじゃねえよ。言う機会がなかっただけ。恭弥はオレに冷たいから」
 ふざけた口調でそう言うと、ディーノは前方で呼んでいる誰かの声に手を挙げて応えた。走り出そうとする。
 と、何かを思い出したように、
「桜の花は咲いたけど、やっぱ夜は冷えるな。こんなに寒いとこに長いコトいたら喉に悪い。風邪引くなよ」
 そう言って自分の着ている上着を脱いでヒバリに手渡すと、ヒバリが呼び止める間もなく行ってしまった。


 桜の咲く次期の夜というのは、日中との気温差が激しく外出には向いていない。油断していたら、てきめんに喉をやられる。疎水沿いに停車して外に出ると、冷気に肩を抱かれるような寒気を感じた。マネージャーがいい顔をしないはずだ。
 すぐに戻るからと言い残して、ヒバリはぽつぽつとまばらに綻びかけた蕾をたたえる桜の木の下に立った。見上げると、まだ三分咲きにもならない枝の間から潤んだ月が見えた。確か明日は雨の予報が出ている。
 宣言通り、ディーノは次の桜の開花を待たずに日本を離れた。母国に帰って家業を継いだのだと聞いた。
 イタリアには、桜の木は一本もないのだろうか。日本と気候が似ている地方もあるというから、植樹をしているところがあるかも知れない。ディーノが自分の国でこの花を見上げることはあるだろうか。
 覚えていて、という声が耳に残って離れなかった。
 ただそれだけの理由で、ヒバリはこの花を他とは違って、特別に好ましく思うようになった。ディーノはそのことを知らないし、告げる気もない。
 空には月。咲く寸前の小さな花々。吹き抜ける風の音と、かすかな花の香りと、緑の葉が揺れてこすれる乾いた音がやがてひとつに溶け合っていく。幻のようなその音は、思い出して、と囁くあの日の声に似ている気がした。

07/3/25インテでの無料配布物+微改稿。パラレルバンドもの4話目。春なのに暗い……。
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