TIME PASSED BY

 外出から戻ったディーノのデスクの上に、仕事に関する書簡とは別の郵便物が届いていた。
 海外からの郵便物は珍しくはないが、差出人欄に目を留めたとたんに急いで開封する気になった。遠く離れた日本からの便り。しかもなつかしい音楽レーベルの名が書かれていると知れば、放っておく気にはなれない。
 机に寄りかかるようにしてエアパッキンで丁寧に梱包された包みを開くと、中から現れたのは一枚のコンパクトディスクだった。
「へえ……新しいアルバムができたのか。あいつらの」
 あいつら、というのは、ディーノが以前サポートギタリストとして在籍していた、日本のロックバンドのことである。
 日本で始めたバンド活動──それは最長で3年契約、以降の契約延長には一切応じないという厳しい条件で加入した、最初で最後のミュージシャンとしてのキャリアだった。学生時代から趣味でずっとギターを続けてきたディーノが、音楽を本当に趣味だけに留めるための最後の舞台として選んだ最高のバンド。それがヒバリのいたバンドだった。
 1年前に惜しまれつつ引退したディーノは祖国であるイタリアに帰国し、現在は父の跡を継いで世界に向けて高級家具の制作販売を行う会社を経営している。それははじめから決められていた道だった。
「ん、かっこいいじゃねえの。がんばったな、あいつら」
 凝った仕様の紙ジャケットのカバーを開いて、中身を取り出す。長い日本滞在で少しは読めるようになった、漢字交じりの帯を目でなぞる。『衝撃のメンバー脱退から1年!』で始まる長いキャッチコピーに思わず笑った。不必要な説明文で飾り立てなくても、あのサウンドと声を聴けば振り向かないやつはいないのに。
 ディーノは席を立ち、壁に据え付けられたCDプレーヤーにディスクをセットした。プレーヤーの脇に掛けてあるリモコンを手にとってプレイボタンを押すと、いきなり、床が揺れたかと思うほどの大音量のギターサウンドがスピーカーから溢れ出した。
 周囲の物音どころか、自分の声までが一瞬で聞こえなくなった。やってくれる。音で耳に蓋をされたみたいだ。爆発音と大差ない攻撃的なサウンドがこのバンドの真骨頂なのだ。彼らほど演奏が巧くなければ30秒と聴いていられないだろう。
「変わんねえなあ。これってギリの録音レベル超えてんじゃねえか?」
 歌が乗ってもリズムはまったく失速しない。まるでメンバー同士が音で闘っているようだと思う。自分もつい1年前までこのサウンドバトルに嬉々として加わっていたのかと思うと、不思議な気がする。ヒバリの声に惚れ込んで、取り憑かれたように曲を書いていたのが遠い昔のことのようだった。
 ああ、この声だな、となつかしく思い出す。意識がおもしろいように生声に吸い寄せられていく。はじめてヒバリの声を聴いたときがちょうどこんな感じだった。なつかしいのとは少し違うのだけれど、ヒバリの声を耳にすることでかき立てられる感情のほとんどは、現在より前からずっと続いているものだ。
 ディーノがしぶる父を説得して、最後のわがままだと言って3年もの長い休暇を求めたのは、ヒバリの声と出会ってしまったからだ。
 友人と待ち合わせた店で偶然流れていた、ほとんど無名の新人バンドのセカンドシングル。ネットラジオの特集かなにかで、今月ニューリリースされたシングルだというのだけはわかったが、どこの誰が歌っているのかまではわからなかった。ディーノは耳に残っていたワンフレーズだけを頼りに、知り合いの音楽ライターの事務所に駆け込んだ。まるで宝探しのような気分だった。丸一日かけて、山のようにCDを聴きまくった末にヒバリの声を探しあてたときは、飛び上がるくらいうれしかった。
「……と、やべ。遊んでる場合じゃねえんだった」
 部屋中のどこからでもよく見える場所に据えられた時計に目をやると、けっこうな時間が経っている。今日はこれからまた出かける用があるから、急いで済まさなければならない仕事が山積みなのだ。そろそろ本気で取りかからないと間に合わない。ディーノは秘書が入ってきたら絶対にいい顔をしない音量で曲を鳴らしたまま、デスクに戻った。
 開封済みの日本からの郵便物を書類のむこうに避ける。──と、机の上にばらばらと数枚の紙が散らばった。CDと同封されていたようだ。
「──なんだ?」
 その中の一枚を拾い上げる。
 袋の中から出てきたのは特に親しかったスタッフからの短い手紙と、誰かがデジタルカメラで撮影したらしい写真だった。メンバーやスタッフの姿を映した写真が印画紙にプリントしてある。背景に映っているスタジオの内装に見覚えがあった。事務所の社長が所有している録音スタジオだ。ならばきっと今回のもの──ディーノが脱退してから初めてのレコーディング風景だろう。
 一枚目はスタッフ全員の集合写真。次はチーフ・ディレクターとじゃれるドラマーのツーショット。残りの数枚にはメンバーそれぞれがひとりずつ映っていて、一枚一枚に手書きでコメントが書き込まれていた。
『闘う相手がいなくなって、しょげるギタリスト』
『へなちょこだけど、かっこいい!』
『ちょっと息抜き……そのバットはどこから?』
 写真に添えられたメッセージを読むだけで、騒々しさと緊張感が絶妙のバランスで同居するスタジオの空気が目前に蘇ってくるようだ。楽しくて、毎日が戦いで、手が抜けなかった。自分で決めた2年間はあっというまだった。
「ん、と…これは山本か……おっ、こっちはツナか。なんだよあいつ、こんなに字がヘタクソだったっけ」
 ドラマーとベーシストと、驚いたことにディーノとしょっちゅうやり合っていたもう一人のギタリストの自筆メッセージまであるのに、当然のようにヴォーカルのものはなかった。
 重ねられた写真の中に、思うひとの姿はどこにもなかった。
 正直言うとガッカリしたけれど、それほど期待していたわけでもない。ヒバリが写真嫌いなのは有名で、それこそ取材のスティール写真ですら後ろを向きたがってスタッフを困らせていたほどだったからだ。ディーノに写真を送るといっても、たとえ黙って撮っていたとしても、スタッフがカメラを構える気配を感じたら猫のようにどこかに隠れてしまうに違いない。
「──あれ」
 次々と写真をめくっていき、ある一枚を見てふと手が止まった。その一枚に釘付けになる。
 絶対にないだろうと油断していたから、衝撃は大きかった。胸が内側から押し上げられたように感じた。鼓動が急に速くなったのがわかる。
「…恭弥……だ……」
 たった一枚。ヒバリの姿がそこにあった。
 ソファに座るヒバリを中心に、周囲の壁や機器類や灰皿までが一緒に画面に収まっている。かなり遠くから慎重に撮影したようだ。
 黒い革張りのソファに腰掛けたヒバリは、細い足を組んで膝にギターを抱えていた。
 歌専門のヒバリがライヴで楽器を演奏することはない。だからこれはレコーディングの合間の休憩時間に撮られたものだろう。ヒバリはギターを抱きかかえるようにして、脇に並べたコード譜に目を落としている。その姿や手つきはいかにも初心者らしい。楽器を鳴らすのに夢中で、撮られていることにはまったく気づいていないようだった。
 ディーノには、ヒバリの鳴らしているギターに見覚えがあった。
 知らないはずがない。ネックまでを覆う艶やかな赤。目に痛い深紅のボディ一面に、蜘蛛の巣を模した柄が黒でびっしりと描かれている。最後のライブで使用したものだから忘れるはずがなかった。ヒバリが使っているそれは、帰国するときにディーノが事務所に預けていったものだ。
 一緒にいるあいだ、ディーノは一度もヒバリがギターを弾く姿を見たことがなかった。
 この目で見てもまだ信じられない。信じられないことはほかにもある。ヒバリはそれがディーノの残していったものだと知っているのだ。
「なんだよ。ギター……やりてーなら、いつでも教えてやったのに」
 耳を劈く爆音は4曲目が終わったところだ。そろそろ仕事にかからないと、秘書がしびれを切らして部屋に押し入ってくるだろう。急に曲調が変わった。ヒバリの声の特徴を全面に押し出した、ミディアムテンポのバラードが部屋中に流れ出す。ディーノが初めてヒバリのために書いた曲だ。
『もう一度、会えたらいいのに』
 胸を騒がせるウィスパーヴォイス。あの声が本当に好きだった。離れても思いは消えなかった。
「会いてえなあ……」
 スピーカーからこぼれる声は遠く、写真の中のひとは決してこちらを振り向かない。子供のような、つたない動きをしているだろうそのひとの指に、ただ触れたかった。

距離と時間と消えない思い。パラレルバンドもの3話目。ちょっと改稿。
関連作品 さようなら / その顔が堪らない / / HIGHWAY STAR