その顔が堪らない

 恭弥はどうも耳を触られるのが苦手らしい。
 というより、耳をいじられると本気で弱い、らしい。
 少し顔の近くに手を伸ばすだけで露骨に嫌そうな顔をして飛び退くし、面白がってもっと触りに行こうとすると、毛を逆立てた猫みたいに威嚇してくる。ふだんは苦手なものなんかありませんて顔でつんけんしてるくせに、こうすると何回でも同じ反応をするから本物だ。それが面白くて妙に可愛く思えて、喜んでちょっかいを出すオレもオレだけど。
「だーからー」
 見かねたベースが割って入るのも、いつものこと。オレらのあいだでは日常茶飯事。
「ヒバリはソレやなんだって言ってるっしょ、前から。いいかげんしといてくださいよ、そいつキレたらこわいっすから」
「ころすっ、咬みころすっ」
 うーっふーっと息巻いて、まつげばしばしの瞳をきゅうっとつり上げる。はっは、やっぱかわいいぜ。たまんねえ。
「いいじゃん触るくらい。減るもんじゃねーだろ」
 わかっててからかうオレもオレ。ギターは我関せずで遠くから眺めてるだけ。盲信してるドラマーに関することじゃねえからテンションひっくー。まあそれがヤツなんだけど。
「減るよ。減るから、さわるな」
「悪かったって。怒んなよ」
「…………」
 上目遣い。仏頂面。牙……は、さすがに見えないけど爪ぐらいは出てる。
「うっわ…………はは、コエー」
 倒れそうなのはこっちだって。笑い出すかと思った。いや悪いけど笑っちまった、反応が素直すぎて。
 無意識に手が伸びて、気がついたら手のひらサイズの細い肩をガッチリ掴んでた。
「……なに……っ」
 耳に掛かる長い黒髪を指でかき分けて、その奥に顔を近づける。無意識の所業だった。本当に、無意味に惹き寄せられたとしか。
 耳を引っ張られたら動きが止まるのはすでに実験済みだ。だから頬を片手でつつむようにして耳をとらえて、噛んだら簡単に咬みちぎれそうな薄い耳朶めがけて口を開けた。
「じゃあこんなコトしたら」
 恭弥が息を詰めて、肩を竦める気配がする。
 拳が飛んでくる場面が頭を過ぎる。相当自虐的。でもとまんねーやべー。
「おまえ、どうなる?」

 思い描いた感触がくちびるに触れた瞬間に、

 慎重に、

 まるでいたわるような気持ちが沸いて、

 だけどストップがかからずに。

 咬んだ。

「……っ、みゃっ…………」

「みゃ?」
 1,2,3……と数が数えられるくらいのあいだ、スタジオは物音ひとつしなかった。驚いたのはオレだけじゃない。他の三人は一斉にこちらを振り返り、妙な鳴き方をした当人でさえ自分の声に驚いて固まっている。
「ぶはっ」
 こらえきれなくて吹き出した。
「なんだそのかっわいい……かお……っ、ガキみてえ恭弥ってすげえやっぱかわいい」
「…………ディーノ、……っ」
 恭弥の目が怖い。怖い。射抜かれそうだ。
 ゴメンと降参のしるしに両手を挙げてみたが、まったく相手にされなかった。ぶんっと平手が飛んできて間一髪で避けたらそれはフェイントで、恭弥の固いラバソのつま先がすねにまともにヒットした。
「いっで────!」
「やった……」
「うっわーっ、マジでいたそうっ……」
「あいつのは自業自得っスよ」
 スタジオの床をのたうち回るオレにじろりと一瞥をくれて、気の強い仔猫が勝ち誇った顔で言い放つ。
「骨くらい折ってあげてもよかったんだよ」
 恭弥はスタスタと部屋を出ていった。
「なんだよひでえな。痛かったから仕返しか? わかった。今度は痛くしねえように気をつけて……咬むから」
「やっぱ咬むのかよっ!!!」
 ギャラリーから驚愕のツッコミ炸裂。
 そして──きれいな顔がぎょっと強ばるのを目にしたときの快感は何にも換えがたい。ヒバリは扉の前で足を止めてゆっくりとこちらを振り返った。怒っているような顔じゃない。そうだな、どちらかといえば……。
「あなたとはもう口をきかない」
 ほうらな。予想通りだ。
 やっぱり笑った。アレは心に決めた顔だ。心の中で舌なめずりしてる。ぐっちゃぐちゃにしてやるってか。笑顔の裏側に潜む本気の殺意がたまらなく、いい。女王様はこうでなくちゃな。
「ゴメンもう咬まねえから戻れって! ヴォーカルいないと練習にならねえから! ほんとお願いします行かないでくださいっ」
「うそばっかり」
「ははは。確かにウソっぽいよな」
「てかウソだろ。顔が笑ってやがるっつーの」
「すいませんディーノさんフォローできません……」
 こんな時だけ一致団結するっておまえらどうよ。
 だがおっしゃるとおりだ。このいたずらはやめられそうにねぇな、とひそかに──じゃなく堂々とほくそ笑むオレは、実はもっとずっとおそろしい存在なのかも。あいつにとっては。
 だったらいいのに、と本気で思い始めてる自分がいる。ちょっとだけ命が惜しくなくなってる。
「やべーな。惚れちまったか?」
 恭弥の吹っきれた笑顔からして、これで完璧に嫌われてしまったらしい……という痛い事実は、今のところ都合よく忘れておくことにした。

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