HIGHWAY STAR

 新年を迎えて三日目の深夜、電源を入れた途端、メール受信中を示すアイコンが一向に消えない携帯電話の液晶画面を見つめながら、雲雀は早くもうんざりしていた。
 どんな理由であっても、束縛を嫌う人間は携帯電話など持つものじゃない。今さらながら本気でそう思う。連絡を拒否しているからこそわざと電源を落としているというのに、結局いつかはこうして勝手に送りつけられる用件を確認しなければならなのだ。こんなバカげたことがあるものか。
 けれども、ならばすべて無視して消去してやる、と手前勝手な文句を言ってばかりはいられない理由が、雲雀にはあるのだ。
 冬直前に浮上してから今まで、解決の糸口を見つけるどころか危うく頓挫の危機を迎えている案件をどうにか前進させようと、正月返上で動いているスタッフからの連絡がほとんどだろうと思うと、さすがに丸ごと消してしまえ、というわけにはいかない。雲雀はひとつ息をつくと、『Eメール*14件』という文字がくっきり浮かぶ電話を恨めしげに眺めた。覚悟していたよりも数が少ないことが唯一の救いだ。
 受信フォルダを開き、まずは上から十四番目の──つまり一番古い日時に送信されたものから開けていく。送信日時は十二月三十日、午後十時二十三分。雲雀のマネージャー兼アシスタントのKからだった。
『例の件、リボーンさんに協力してもらって集めたモノを片っ端から当たっているところです。現在四十人ほど。中でも際だって巧いのが二人。でも私的にはちょっと違います。かたいですね』
 短い文面で区切られた報告メールは十四件中、いったい合計何件にのぼるのか。考えただけで電話をどこかへ放り投げそうになる。
 この大量のメール攻撃を受けることになった原因は、デビューから六年が過ぎてようやく形になりつつある雲雀のソロ活動にあった。
 正確にいえば雲雀のソロデビューの企画が持ち上がったのは、今回が初めてというわけではない。ある頃から書きためている中の一曲をうっかりリボーンに聴かせて以来、バンドとは別の活動をする気はないかと再三誘われていたのだ。それが今まで実現しなかったのは本人にまったくその気がなかったからだ。
 元々音楽活動にそれほど執着のない雲雀には、自分だけのアルバムを作りたいという欲求があまりなかった。バンドという形にもメンバーにも大きな不満はないし、何より正直言って今以上に忙しくなってはたまらない。そう思っていた。
 それがなぜ今回に限ってやる気になったのか──。
 それはプロデューサーのこの一言があったからだ。
『サポートメンバーはお前の好きな音で固めていーぞ』
 これに雲雀は心を動かされた。
 さっそくプロジェクトチームが立ち上げられ、候補曲とバックミュージシャンの選考が始まった。ほどなく発売予定日までの細かいスケジュールが組み立てられ、三度のオーディションを経てリズム隊が決定。ギターは未確定。収録曲の半分が仮決定。ギタリスト候補の範囲を海外にまで広げるが見つからない。アルバム収録曲のうち二曲を急遽シングルとして先行発売することに決定。ふたたび国内にてメンバー選考を再開。見つからない。ギタリスト選びが難航する中、計画は一進一退を繰り返しつつの年越しとなった。


『まだ当たりません。先は長そうです』
 三件目のメールを読み終える頃にはすでに飽き飽きしていたのだが、奇跡的なやる気を発揮して雲雀は『次に送る』という意味のボタンを押し続けた。しかし開いても開いても、どのメールも大筋の内容に変わりはなかった。『現在、 百人超。耳が飽きてきました』『百五十人完聴。アタリなし』仕事熱心なKにしては珍しく、愚痴とも取れるような意味のない報告も多い。
『二百人ちょい、ストックが尽きました…今日はこれまで。あけましておめでとうございます。ギターの件が持ち越したのは残念ですが、昨年は恭さんのおかげでいい仕事ができました。本年もどうぞよろしくおねがいします』
 送られたメールの最終日時は一日の午前三時過ぎ、数えて十一件目だった。面倒なことを引き受けて、年の瀬のこんな時間までよく粘ってくれたものだ。
 未読メールは残り三件。正月早々から雲雀に携帯メールを送りつける命知らずなどそういないから、残りもすべてKからのものだろう。
 雲雀は携帯電話を閉じると、テーブルに投げ出してあった車のキーをつかんでマンションの部屋を出た。


 マンションの敷地から一般道へと車を乗り入れた時に、具体的な行き先を考えていたわけではなかった。各方面から流れ込む幹線道路の渋滞が都内にまで及んでいたら、適当に近所を流してさっさと引き返していたかも知れない。どこもそれほど大きな渋滞がなかったのは幸いだった。
 さて、これからどこを目指そうか。これといって行きたい場所はなかったので、できるだけ車両が少なそうな道を選んで進んだ。やがて二方面への分岐を示す緑の表示板が現れた。そのまま右車線を進むと郊外へ、港方面に向かいたければ左車線へ入れと書いてある。雲雀は咄嗟にウィンカーを点すと、ゆっくり左へハンドルを切った。
 海に向かう車は少なかった。対向車線のヘッドライトもごくまばらだ。先を行く車のテールランプが遠くで数回点滅した。出口へ降りたらしい、すぐに見えなくなる。
 雲雀は夜の高速の開放感が好きだ。最小限まで灯りを落としたなだらかな道路をひたすら飛ばしていると、ひょっとしたらこのまま空へ上がれるのではないかと思えてくるのがいい。そして適当に孤独になれるのがいい。
 何か音が欲しくなり、ダッシュボードにぽつんと置いてあったメモリーカードを挿入口へ差し込む。スピーカーから流れてきたのは、雲雀が知らないはずのないある曲だった。イントロのツインギターを聴くだけで、あの独特の高揚感が蘇ってくる──ライヴではトリの定番だが長らくアルバム未収録だった曲だ。休暇中に聴いておけとリボーンから渡されたものを、ずっとここに置きっぱなしにしていたのだ。
 この曲は本番では4あるいは5ピースで演奏されるのだが、ここにはライヴで演奏されるものとは違うアレンジのものが録音されていた。アコースティック・ギター一本のみというシンプルな演奏、というよりこの簡素さはデモ・テープに近い。
「やってくれる」
 アクセルを踏み込みながら雲雀は笑った。やはりこれはデモだ。しかも誰かに聴かせるためではなく、作曲のためにいわゆる宅禄された音源だろう。コードを押さえるだけのラフな前奏の後に聞こえてきたのは、作曲者本人──ディーノの声だった。雲雀が最初にこの曲のデモを聴いたとき、仮歌を入れていたのは別の人間だったから間違いない。
 だとすればこれは、食えない赤ん坊からの痛烈なメッセージ──あるいは最後通牒だ。おまえはあの音を気に入ってるんだからな。いい加減あきらめろ。不思議な赤ん坊はいつだってすべてお見通しなのだろうか。偶然にしてはタイミングがあまりにも良すぎる。
 雲雀は以前に一度だけ、ディーノの運転で同じ道を走ったことがある。あれはまだディーノがバンドを脱退する前──アルバム・ツアーのリハーサル中だった。
 ヴォーカルパートの確認と音合わせが長引いて帰宅が明け方になったとき、自分の打ち合わせが終わったにも関わらず居残っていたディーノが突然雲雀を送ると言い出した。タクシーを呼ぶからいいと断ってもきかなくて、いいじゃねーか、お断りだよ、という押し問答がしばらく続いた。ディーノは頑として譲らず、結局くだらないことで言い争うのが面倒になった雲雀のほうが折れた。
「ちくしょー。恭弥を乗せるんだったら、オレの車で来るんだったぜ」
「あなたの車って、あの赤いのだろ。ヤダよ。エンジンの音がうるさくて眠れない」
「ちょ、待て。てめー、せっかくのデートで寝る気かよ?」
「……咬み殺されたいの」
 雲雀がいくら否定してもディーノはあきらめなかった。こいつはれっきとしたドライブデートだぜ、としつこく主張するディーノを黙殺することに決めて、マネージャーが回してくれた社用車で都内のスタジオを出発した。そこまではいいとしよう。問題はその後だ。疲れから睡魔に負けてしまった雲雀が送り届けられたのは、なんと自宅のマンションではなかったのだ。
 気持ちのいい眠りから覚めると、フロントグラスのむこうに明け方の海が広がっていた。勝手に別の場所に連れて来られたと知った時、雲雀は本気で面食らった。
「ここ、どこ」
「海だぜ。見ろよ、もうすぐ夜が明ける」
「それは見ればわかる」
 こわい声でぴしゃりとやり返しても、ディーノは苦笑するだけで何の説明も言い訳もしなかった。
「──きれいだな」
 ディーノは呟くようにそう言って、ハンドルに腕と顎を預け、あとは黙って灰色の海を見つめていた。その時もちょうど今と同じ曲が流れていた。のちにサード・アルバムに収録された完成形のほうだ。ディーノはこの曲にだけ反応する雲雀にすぐに気がつき、笑いながら少し音量を上げた。
「今度のライヴと同じ曲順で録ってもらったんだぜ。ちゃんとコレも入ってっからなー」
「──僕はこれ、今でもきらいだからね」
 ディーノはしばらく何も言わなかった。
 やがて、ぽつりと、
「でも歌って。泣いてもいいから」
 うっすらと日が差しはじめた夜明けの海があまりにもきれいだったからかもしれないし、ディーノが見たこともないほど思い詰めた表情だったからかもしれない。他人の好き勝手に振る舞われるのも、気に入らないことをさせられるのも我慢ならない、いつもであれば必ず言い合いになっていたはずが、なぜかその日に限って雲雀は怒る気にならなかった。
 ぼんやり海を眺めていたのは一時間ほどだったと思う。がらがらの高速を引き返して自宅に戻ったときには、すっかり朝になっていた。
 ディーノが突然行き先を変えた理由は今もわからない。
 あれだけしつこく好きだ好きだと主張するのだから、彼にとっては自分とわずかな時間を過ごすことに意味があるのだろう。別れ際に「デートしてくれてありがとな。また明日…」いや、もう今日か、と笑って差し出された手を握りかえしながら、雲雀はぼんやりとそんなことを思っていた。そう思うのは悪い気分ではなかった。
 ディーノがバンドを抜けることを雲雀に告げたのは、その翌年の春のことだ。


 運転に疲れて止まれる場所を探すと、前方にちょうどよく待避線の表示が見えてきた。車を左に寄せて止め、非常停止信号を点灯させる。前後にも対向にも行き交う車は一台もない。
 雲雀はため息をついて、ヘッドレストに頭を預けた。助手席に投げ出していた携帯電話を手に取る。Kから届いたメールの残りを開けていく。
『リボーンさんに連絡つきました。年明け早々にあと二、三十人のデモを送ってもらえるようです』
『追加を待ってもう少し粘ってみますが、延ばせるのは一週間がせいぜいですね』
『艶があって毒があって巧いのにどこか歪んだギターなんて、私はひとりしか思い浮かばないですね。それに、あの人のギターはあなたの声によく合っていましたよ』
 ──あきらめろ。おまえはあいつの音を気に入ってる。
 ──オレの音、お前に合ってると思うんだよな。
 誰も彼もがまったく同じことを言う。
 いくら探しても、代わりになる音が見つからないのは当然だ。消してしまうのでも生かすのでもなく、大げさに引き立てようとするわけでもない。背中合わせで支え合っているようだといつも感じていた。否定はしない。
 隣にそっと寄り添うようなディーノの音が好きだった。
 Kからの最後のメールに短い返信を打ち、雲雀は静かに携帯をフロントのホルダーに戻した。メールにはこう書いた。『君がそう思ってるひとに連絡を取って』
 仕事始めは週明けだが、これでKは一刻も早くディーノと連絡を取ろうとするだろう。けれどもおそらくKの尽力は無駄になる。いくらこちらが望んでも、彼はすでに音楽をやめているのだ。断られるに決まっている。
 わかっているのに、心はあきらめ悪くあがけと命令してくる。フロントとリアに積まれたスピーカーから、ディーノの奏でる音がずっと流れ続けている。
 変調を多用した複雑なメロディラインを追いながら、雲雀は真っ暗な空に散らばる星を見上げた。星の光はまばらだったが、記憶よりもずっと大きく見える。手を伸ばせば楽に届きそうだ。
 同じ地上にいるのに、何万光年もの彼方にあるあの星たちよりも、ディーノとの距離のほうがずっと遠いのだ。 ディーノはすでに、雲雀とはまったく別の世界にいる。
 二年間一度も会っていないし、どうしているのかも聞いていない。今のディーノがはたしてどういう選択をするのか、雲雀にはまったく想像できない。
 もしも彼が承知したら。ディーノが音楽に戻ってきたら。
 もしも、彼が以前とまったく変わらないでいたら。
 もし彼が、まだ僕を──。
 曲が終わろうとしていた。この音がまた遠ざかってしまうと思うと寂しかった。エアコンをつけ忘れたせいで車内は冷え切っていた。星はいつのまにか消えかかっている。東の空が明るくなり始めていた。
 液晶画面に映るプレーヤーのストップボタンに指先でそっと触れる。演奏が途切れる。続けてプレイボタンに指を移すと、また同じ曲が最初から流れ出す。
 空間も耳も、神経の隅々までがディーノの音で満たされていく。自然に彼の書いた詞を口ずさんでいた。
「もう一度、会えたらいいのに」
 声が好きだとよく言われた。最初にそう言われたのがいつのことだったか、はっきり覚えていないくらい過去のことだ。けれど忘れられない。ゆらゆらとたゆたう記憶の海で、ディーノがくれた好きという言葉が、光の差す海面のようにいつまでもきらきらと光っている。
 それはとても温かく、指先に染みいるような夜明けの寒さを少しやわらげてくれる。醒めない夢を見ているような気分だった。

バンドマンパラレル第5弾。08年1月インテの無料配布冊子用書き下ろし。忘れられないひと。
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